Focus On
LEE KUNWOO(イ・ゴヌ)
LITEVIEW株式会社  
CEO
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or目標を先に決めて動き出すと、自ずと拠るべき指針が見えてくる。
「都市インフラをアップデートし、すべての人の生活を豊かに」というミッションを掲げる株式会社アーバンエックステクノロジーズ。同社が全国自治体向けに提供する道路点検AI「RoadManager」は、本来専門人材の目視や車両走行が必要な道路損傷の発見を、スマートフォンやドライブレコーダーを搭載した普通車両を走らせるだけで誰もが行えるようにする。2024年7月には、盛土管理をDX化する「まもりど」をリリース。人口減少により年々厳しくなるインフラの維持管理業務のコストを削減し、その先には社会の変化にも対応できる「しなやかな」都市インフラ管理を支えるデジタル基盤をつくろうとしている。
代表取締役の前田紘弥は、東京大学工学系研究科社会基盤学専攻を修了後、株式会社三菱総合研究所へ入社。2020年未踏アドバンスト事業を経て、同年4月に株式会社アーバンエックステクノロジーズを設立した。同氏が語る「社会に対する責任感」とは。
戦後日本では人口が急激に増え、それに合わせてインフラが新設され、都市が発展していった。しかし現代では、老朽化したものを適切に管理し維持していくことの重要性が増している。人口減少により将来的な税収も先細りしていく昨今、いかに都市インフラを維持しながら安全に使っていくかという社会問題は、ますます深刻化しつつあると前田は語る。
「現在は人が減っていく局面なので、人が増えていく時代に作られた都市のインフラは、どう考えても持続可能ではないと思っているんです。弊社では、そのインフラを持続可能にする方法を考えています」
人口が少なければ、少ないなりのまちの運営がある。だが、当初想定していた人口が半減したとして、運営にかかるコストは変わらない。実際、全国約120万kmある道路の維持管理においても、人員や予算の不足により、各自治体が担う目視や専門車両による道路の損傷確認が十分に行えていないケースが発生しているという。
「ある自治体では2,000kmの道路管理をしているのに担当者は1人しかいないと、そんな状況なんですよ。そもそも専門職員がいない自治体も増えている。だから、定期的な見回りをしようにも手が足りず、状態が分からない。もし道路の穴などが原因で事故が起きたら、管理の責任を問われてその人たちが訴訟を受けたり、議会から追及を受けたりすることになるにもかかわらずです」
アーバンエックステクノロジーズでは、都市インフラを長く安く安全に使うことをソフトウェアの力で実現する。同社が提供するAIによる道路維持管理サービス「RoadManager損傷検知」及び「RoadManager路面評価」は、アプリをインストールしたスマートフォンを車に設置して走らせるだけで、ポットホールと呼ばれる道路の穴やひび割れなどの損傷を自動で検知できるようにする。
「我々のサービスは、スマートフォンという汎用的に出回っているものを普通の車に搭載するだけで点検作業を行えるようにする。今までよりも安く早く網羅的に道路状況が分かるようになることで、それに対して長期的な計画を立てることができ、全体のコストを下げられるという価値を提供しています」
同社が提案するインフラ管理の在り方は、自治体が直接巡回する方法だけにとどまらない。
三井住友海上火災保険株式会社と共同で運営されるサービス「ドラレコ・ロードマネージャー」では、民間企業車両に設置されている約5万台のドライブレコーダーが日本全国の路面データを収集。AI画像分析技術により、道路損傷を自動で検知・分析し、クラウド上で効率的に管理することを可能にする。
さらに、市民協働投稿サービス「My City Report for citizens」では、まちで見つけた「こまった」を誰もがスマートフォンアプリを通じて気軽に投稿することができる。道路損傷のみならず、ガードレールの破損やゴミ拾い報告など、市民と自治体が自然に連携してまちをより良くする仕組みを実現している。
「点検はインフラを長く安く安全に使うためのプロセスの一部に過ぎないので、今後は計画を立てたり実際に直したり、プロセス全体に対してサービスを提供していきたいと思っています。あとは、管理できるインフラを道路以外にも増やしていく。盛土管理DX『まもりど』は後者の方です。大きくこの2つの方向で事業を広げたいと思っています」
変化しつづける時代に応じ、アーバンエックステクノロジーズはこれからの都市インフラと社会を繋ぎ、豊かな人々の暮らしを守りつづける。
「RoadManager」ダッシュボード上で損傷箇所を管理する様子
手つかずの自然が残る長崎県五島列島から、東京郊外へと引っ越してきたのは生まれて間もない頃だった。よく計画されて作られた新興のベッドタウンには、暮らしやすい街並みがあり、広くてきれいな公園もある。子どもも多く、遊びには困らない環境があったと前田は語る。
「よくサッカーをしていて、ボール遊びが好きでした。あとは、遊びを考えるのが得意だったんです。鬼ごっことサッカーといろいろなものを混ぜて、このタイミングでここにボールを入れられたら勝ちとか、僕がルールを決めてみんなで遊んだり、何か提案するタイプだったと思います」
面白そうなことを見つけてはやってみる。自分が楽しく、さらにみんなが楽しそうであれば尚のこと嬉しい。たとえば、エレベーターで跳んでみたらどうなるのか、駅の高架に向かってボールを投げたらどうなるのか。とにかく無邪気な好奇心に駆られていた。
「昔からいろいろなことを知りたいという思いがあって。今でもそうですが、結構本を読んだりもしていましたね。ジャンルはなんでも読みます。古くに書かれていまだに読まれているような、時代の試練を経ている本なんかも好きでした」
読みたい本を買ってもらったり、やりたいことがあれば両親は助けてくれる。穏やかな父と明るい母からは特別何かを言われた記憶もないが、振り返ってみれば、きちんと子どもの自己肯定感が高くなるよう育ててくれていたのかもしれない。
「小学校低学年の時に日記を書くという授業があって、当時だと最後まで書けた子はあまりいなかったようなのですが、僕は毎日きちんと続けられていて。いまだに母親に言われるのですが、その日記の終わり方が毎日必ず『楽しかった』で終わっていたらしいです(笑)。ポジティブですね」
幼少期、長崎県・五島の海にて
「知りたい」「やってみたい」という欲求は、しばしば行動の動機になる。小学校高学年になる頃には、友だちが通っていた塾というものに興味が湧き、通いはじめた。どうやら学校の授業よりも難しいことを教えてもらえるらしい。受験などには特段興味がなかったのだが、流れに乗って中学受験をすることになった。
「どこの学校を受けるべきかもよく分からないでいたら母親が調べてくれて、『ここを受けるのがいいと思う』と言われたところが、筑駒とか開成とか一番難易度が高そうな学校だったんです。あれにはびっくりして(笑)。全く受かる気がしなかったし、実際に合格もしなかったのですが、『やるんだったら一番難しいことをやれば』という母親のメッセージは昔からあったように思います」
母は仕事に活かすためでもなく、日ごろから興味のあることを見つけると、よく本を読んだり勉強したりしている。そんな姿を間近で見ていたからか、自然に受け継いでいた精神性が「やるなら一番難しことをやる」というものだった。
まず、一番難しい地点を目指すと決める。その時点では自分に達成できるのかは分からない。けれど、先に目標を決めたからには後に引けなくなって、それまでは出せなかった力を発揮できたり、その過程でますますのめり込む楽しさが見つかったりすることがある。
むしろ反対にあれこれ悩む時間を持つ方が、できない理由を考えたりして結果的にうまくいかなかったりするものだ。だからこそ、目標は先に決める。きっとその方がより高く跳べるだろうと、昔からなんとなく感じてきた。
2-2. 楽しさは能動的な学びの中に
昔から活発に動き回っていた一方で、長時間じっと座っていたりするのは得意ではなかった。授業などは最たるものだ。中学時代に通った塾では(褒められたことではないが)授業の終了間際まで近くの本屋で時間をつぶし、最後にテキストだけもらって帰っていた。
「活字で学ぶのと、人と話す中で新しいことを知るのが好きなんですよね。分からないことがあったら聞きに行っていました。いまだにYouTubeで勉強したり、映像の授業を見たりすることはなくて、活字で学ぶか分かる人に聞く。振り返ると、本当にずっとそうしてきました」
知らないことを知ることができるので勉強自体は嫌いではない。ただ、どちらかと言えば授業を聞きながら学ぶより、自由なペースで進められる自学自習の方が性に合っているようだった。
幼少期から続けていたサッカーでも、コーチや監督に指示されてやる練習よりも、みんなで自発的に考えてやる練習の方が楽しかった。しかも、その方が試合の雰囲気が変わったり、明らかにチームが強くなっているという実感もある。
同じ時間を過ごすにしても、姿勢によって上達の度合いや結果が変わってくる。なんとなくそう感じていたからこそ、当時サッカー部に有名な指導者がいると言われていた都立国立高校は魅力的な進学先だった。
「中学校の時に仲良くしていたサッカー部の男の子がいて、彼の兄弟が通っていた学校だったこと。あとは、小学校でサッカーを習っていた時のコーチがすごく素敵な人で、その人も国立高校出身だったんですよ。そういうポジティブな要因が重なって、国立高校へ行きたいなと決めていました」
JR国立駅から真っ直ぐ伸びる「大学通り」を抜けると、豊かな緑に囲まれた校舎が見えてくる。校則に縛られず、のびのび過ごせる環境がある国立高校は、進学校ながらも活気あふれる学校行事で有名だ。なかでも毎年秋に催される文化祭「国高祭」には、1万人を超える来場者が訪れる。
「国立は文化祭がすごいんです。毎年全クラスが演劇をやるのですが、各クラスで大きな垂れ幕を作ったり、先生から何か教えてもらうわけでもなく先輩からいろいろなことを代々受け継いで、緻密な段取りのもと組織が分業で回っていく。僕はキャストとして出ていただけなのですが、みんなで何かを作り上げるということが楽しかったですし、印象的でした」
振り返れば授業や勉強は一体どうしていたのだろうかと思うほど、みんなでクラス劇の成功に向け没頭する。夏休み期間中も各教室に思い思いの舞台が作られたりと、余念なく準備は進められていた。
全てが生徒主導で作られていくことも大きいのだろう。能動的な学びや行動に勝る楽しさはない。クラスが一体となっていく過程には、かけがえのない時間が詰まっていた。
最後の文化祭が終わった大学3年の秋以降は、本格的な受験シーズンが始まった。やはりやるなら一番難易度が高いところへ挑戦した方がいいだろうと考えて、第一志望は迷わず東京大学にする。
しかし、大学で勉強したいことやその先の目標があったわけでもない。深く考えずに真っ直ぐ行動に移してきたからこそ、むしろ入学してから大変な思いをすることになる。
「大学に入ってからはものすごく苦労しました。やっぱりそのくらいの年代になると、みんな目的を持って大学に来ていたりするじゃないですか。クラスメイトと話をしていても物事に対する理解の解像度が全然違って、最初の1~2年はすごく苦しい思いをしましたね」
しばらくは苦しい期間が続いたが、幸運なことに大学では出会いにも恵まれた。
「当時お世話になった先輩が優秀な方で、すごく記憶に残っていることとして、先輩と『なんで金(ゴールド)には価値があるのか』という話をしたんですよ。その時、私は『存在する量が限られていて、かつ、物質的に安定しているから』と即座に回答したのですが、その先輩と議論する中で『みんなが価値があると思って信じているから。みんなが信じる理由の一つとして、存在する量が限られていて、かつ物質的に安定している』ということではないか、と議論が発展していきました。その時になぜ?を繰り返すことの重要性を理解しました。そういった出会いや対話がいろいろあって、思考力が鍛えられていったように思います」
先輩とは同じサッカーサークルに所属する仲だった。のちには同じ研究室にも所属することになる。明るく飲み会好きなキャラクターでありながら、真面目な議論もできる先輩は憧れの存在だった。
「当時そのサッカーサークルでは、『全部本気でやる』というスローガンを掲げていたんです。飲み会も勉強もサッカーも全部本気でやろうと、すごく体力を使っていたのですが楽しかったですね(笑)。当時の先輩方はいまだにお世話になっていて、やっぱり何かを本気でやってきたという自覚があるから、みんなメンバーに対して優しいんですよ。たまに仕事の相談に行ったりもしていて助かっています」
サークルを中心に楽しい思い出ができつつも、研究室ではさらなる壁にぶつかった。
「大学ってただ勉強するフェーズから始まって、ある時から自分たちで新しいものを研究して作っていくフェーズに変わるじゃないですか。それがものすごく苦労して、自分できちんと物事を考えたことがなかったので、最初は何もできなかったんです」
自分なりの研究に挑戦してみるも、なかなか思うような結果には繋がらない。かたや先輩は権威あるジャーナル(学術雑誌)に論文が掲載されるなど華々しい結果を残している。周囲からあたたかいサポートを受けているにもかかわらず、自分がそれに見合った成果を生み出せていないようにも感じ、悩んでいた時期もある。
ようやく入学当初から続いた力及ばない苦しさのようなものから脱することができたのは、修士1年の頃だった。
「ある時、自分が修士で研究した内容が論文としてすごく難しいジャーナルに掲載されて。大学では論文がほかで何件引用されたかという指標が大事になってくるのですが、いまだに当時の論文はものすごく引用されるほど評価していただくことができたんです。そういう成功体験があって、少しずつ乗り越えることできたかなという感覚でした」
研究が一つの論文として結実するまでの過程では、新たな発見もあった。
所属していた研究室は土木分野の中にある情報系の研究室といった立ち位置で、都市インフラをデジタル技術で再構築したり、人の流れをデータで捉えていくような研究をしていた。純粋な土木系や情報系のコミュニティではあまり評価されなかった内容が、土木と情報にまたがるコミュニティでは驚くほど評価されたのだ。
成果はどこに持っていくかによって結果が変わることがある。さまざまな試行錯誤を経たからこそ、見えてきたことだった。
「スタートアップがマーケットをどうやって選ぶかという話とも似ていると思うのですが、やっぱりどこでやるかによって、同じ内容でも変わってくるということは結構印象的でしたね。あとは、多くの人にとって将来必要だろうと考えられるものを先回りしてやると、評価されやすいということも、ものすごく勉強になりました」
みんなのためになることを、いち早くやる。そこにたしかな価値が生まれるのなら、自分の研究を何らかの形で社会に役立てることができそうだと思えていた。
東大時代、研究論文が入賞した時
教授からはそのまま起業することも勧めてもらったが、当時はあまりにイメージが湧かなかったこともあり、一旦は就職という選択をすることにした。
「当時研究していた内容を活かして、もう少し世の中に直接的に価値提供したいと思っていたんですよ。研究は研究で未来を見据えた大きな価値提供だと思っていますが、土木の現場で仕事をしている人はたくさんいて、この人たちに対して何かできないかなとずっと思っていたんです。これは自分の好みの問題です」
就職活動では業界を絞らなかった。代わりに、研究した内容を社会に適用したいと一貫して話して回る。当然全く興味を持ってもらえない企業もあれば、きちんと耳を傾けてもらえる企業もあった。いくつか内定をもらったが、特にやりたいことを後押ししてくれる人がいたことにご縁を感じた株式会社三菱総合研究所へと入社を決めた。
実際入社してみると、そう簡単にやりたいことを実現できるほど現実は甘くないと痛感しつつ、経験や出会いの価値は得難いものだった。
「三菱総研が行っている調査コンサルティング業務は、国などの調査業務を受託して、レポートをまとめたり政策を提言したりする仕事ですね。行政組織を相手にするという意味では現在と近しいのですが、三菱総研はもう少し上流寄りで。当時上司だった方などは、いまだに人を紹介してもらったり食事をご一緒したりとお世話になっていて、とても感謝しています」
三菱総研時代、米国出張にて
当時は仕事のかたわら、博士号を取るべく並行して研究室にも通っていた。博士号にも取得の仕方はいくつかある。一般的に知られるように、大学院の博士課程で所定の単位を取り、論文を審査されて得る「課程博士」のほかに、企業などに在籍しながら行った社会的実績や論文で学位を認めてもらう「論文博士」という道があり、後者での博士号取得を目指していた。
「研究室の先生には、今も当社で役員をやっていただいているのですが、当時から『もし起業するなら、失敗してもしばらくのあいだは大学で雇用もできるから、とりあえずやってみたら?』と背中を押してもらっていて。結局そのオプションを行使することはなかったのですが、本当にありがたかったですね」
研究を社会に役立つ形で活かしたい。その思いを企業の中で形にするという未来もあり得たが、最終的には自分自身の手で始めることにした。
「起業に対する解像度は、社会人生活を経てもあまり変わってはいなかったんですよね。ただ、もしやりたいと思っていることがあるなら自分でやらなきゃダメだなと思って。どこかの組織に所属していると、組織を納得させたり、納得させられるだけの信用を蓄える期間が必要になるじゃないですか。もちろん大きな組織でやれば大きく動ける点は大きなメリットですが、今このタイミングでやらなければいけない事業だと思ったので、起業を決めました」
入社から約1年半後に退職し、起業に向けて動き出す。決意が先にあったため、右も左も分からない状態ではあったが、学びながら準備を進めていくことにする。
幸いにも母校である東京大学には東京大学協創プラットフォーム開発株式会社(通称、東大IPC)というベンチャーキャピタルがあり、創業支援プログラムを実施していることを知る。代表電話に連絡して相談すると、パートナー自ら対応してくれ、丁寧なサポートを受けられた。
半年ほどの準備期間を経て、2020年4月に株式会社アーバンエックステクノロジーズを設立。これまでの研究をベースとした新しい挑戦として、社会を向いてサービスを作りはじめた。
生きるということは、全世界に対して責任を持つことだ。そう本から学んで以来、自身の根底にあるのは、人々の役に立つことをしたいという思いだと前田は語る。
「学生の時に読んだサン=テグジュペリの『人間の土地』という良い本があるのですが、そこに書いてあったんですよ。主人公はパイロットで、夜間に飛行機を飛ばしながら人々が活動していることを示すまちの灯火を見て、生きるということはこの人たちみんなに責任を持って生きることだと思うシーンがあって、『あぁそうだな』とすごく印象的だったんです」
都市インフラという公共性の高い領域を扱うアーバンエックステクノロジーズも、事業を通じて「人々のためになること」を追求する。あまりに当たり前にそこにあるからか意識はされづらいが、社会を下支えする重要な機能である都市インフラが、現在から未来にかけて直面する課題と対峙している。
「都市のインフラって、みんなが使うものをみんなの税金などで整備して、将来にわたって使うという構図じゃないですか。だから、ものすごく関わる人が多いし、社会的なオペレーションが過去から確立されているから身動きが取りづらいんですよね。それを一つずつ紐解きながら解像度を上げていって、こうすればみんなのためになるのではないかと考えつづける。そこが難しくて、面白いんです」
同社のメンバーも、そんな難しくも面白い挑戦に惹かれてジョインする人が多いという。現状、国内でサービスとしての基盤を固めた先には、海外への展開も見据えている。
「今は海外でも同じような社会課題に取り組んでいるのは先進国ぐらいで、ほかは人口が増えている国が多いのでインフラを作るフェーズになっている。とはいえ、人口統計的には都市化が進むほど少子化が進んで人は減っていくので、おそらく今後ほとんどの国が直面する問題の一つだと思うんですよね。だからこそ、やりがいがあると思います」
日本の道路でさえ、現在のようなアスファルト舗装が急速に進んだのは戦後である。ほかにも橋やトンネルなど、多くの輸送網が高度経済成長期に一斉に整備されてきた。なかには当時、必要に迫られ急ピッチで作られたがゆえに、メンテナンスがしづらい構造のまま老朽化しているものもある。先人たちの功績を守り、継承していくためにも適切な点検・運営は不可欠だ。
社会のフェーズが変化するということは、都市インフラを守る仕組みのアップデートが求められるようになるということでもあるのだ。
「これはシンプルに『デジタル化する』という話ではなく、『社会の仕組みや制度とセットでデジタルなものを使う』という話になると思っています」
たとえば、行政の土木工事では設計や建設、メンテナンスなどプロセスごとに発注しなければいけないルールがある。理由は全てを一任してしまうと過剰なものを要求される可能性があるからだ。互いにけん制をきかせられるような仕組みにすることで、適正な工事になるよう進められている。
「でも、そうすると各プレーヤーにはコストを下げるインセンティブが働かないので、解決策の一つとして、『まるっと道路100kmを10年一定の基準に保つためのメンテナンス込みで』という包括的な契約が始まりつつあって、受注者側にコストを下げる努力をしてもらえるようにしていたりするんです」
関わる人が多いからこそ、都市インフラの運営には適切な仕組みや制度がいる。やみくもにテクノロジーで解決するのではなく、長い時間をかけて作り上げられた人の営みをリスペクトしつつ、進化させていく挑戦がそこにはある。
日本のみならず、今後あらゆる国で必要とされるであろう問いの答えを探すべく、アーバンエックステクノロジーズは責任を持って事業へ取り組んでいく。
2024.8.15
文・引田有佳/Focus On編集部
社会的に意義のある仕事をしたい。人の役に立つことをしたい。そんな風に思っている人は多いような気もするが、「都市インフラ」という領域が注目される機会は決して多くはないのではないだろうか。
ほとんどの人が毎日必ず目にするし、使っている。けれど、当たり前に日常に溶け込んでいるからか意識はされづらい。インフラを守り、運営する仕組みについては尚更だろう。こんなにも多くの人が使い、(部分的な補修や老朽化への対策を施されながら)ともすれば人の一生を見守るほど長く存在していくサービスなのだから、もっと光が当たって然るべきであるようにも思う。
人の手で作られたものを長く安全に使用していくためには、いつか必ずメンテナンスが必要になる。社会がめまぐるしく変化していると言われる昨今だが、人々の生活を支えるその仕組みがアップデートしないことで綻びが生じつつあると前田氏は語る。
アーバンエックステクノロジーズは、都市インフラ管理の在り方を時代の移り変わりに合わせて進化させていくことを可能にする基盤をつくろうとする。人が生きる限り、その営みを支える都市は存在しつづける。だから、同社の事業は普遍的な価値を持つのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社アーバンエックステクノロジーズ 前田紘弥
代表取締役
1993年生まれ。長崎県出身。東京大学工学系研究科社会基盤学専攻修了。株式会社三菱総合研究所を経て、株式会社アーバンエックステクノロジーズを設立。未踏AD2020。Forbes 30 under 30 Asia 2021。博士(工学)。