Focus On
村岡功規
株式会社SalesNow  
代表取締役
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orオール5よりも、誰にも負けない何かを1つ持つ方がいい。
「いい家とは何か」という問いを追求し、真に価値が残りつづける家づくりを実現していくMake House株式会社。同社では、全国の工務店に向けた住宅商品開発やコンサルティングを中心に、3次元設計の技術である「BIM」を使用した木造住宅の設計手法を構築するなど、業界の慣習にとらわれないアプローチで工務店経営をサポート。スクラップアンドビルドを繰り返す日本の家づくりに一石を投じるべく、時間とともに価値が下がらない家づくりの在り方を提唱している。
代表取締役の眞木健一は、米国留学後、東京で不動産販売業に従事。1990年、福岡でMAKIHAUSを立ち上げ、1,600棟以上の注文住宅を手掛ける。のち、住宅商品「casa cube」を開発し、casa projectを創業するとともに全国へと展開。その後、2社を売却し、2016年にMake House株式会社を立ち上げた。同氏が語る「いい家にあるもの」とは。
目次
昔から家をつくる仕事には、そこに住む人の安心安全な暮らしを守りつづけるという責任があった。巨大地震や津波、崖崩れなどの自然災害を避けられない日本では、家を建てる場所選びや設計一つが人の命を左右する。にもかかわらず、本来あるべき家の価値が置き去りにされ、ときに企業利益を優先した家づくりが容認されてきた業界の現状があると眞木は語る。
築年数を重ねるほど価値が下がり、スクラップアンドビルドで消耗される住宅は、誰も幸せにしない。きちんと残りつづける家であることが、「いい家」の大前提になるという。
「私たちの考える『いい家』とは、デザイン・性能・耐震性・適正価格・資産になるという5つの条件を揃えた家です。設計士はお客様個人の喜びを追求するだけでなく、そのお客様の次のことも考えていかなければならないということを思っています」
コストを下げるため、あるいは顧客から見えないからという理由で長持ちしない建材が使われたり、技術ある職人による適切なメンテナンスがなされなかったり、家の寿命を短くする要因は数えきれないほどある。
家を売りたいと思った時にはもう価値がなくなっていて、壊すしか選択肢がない。そうではなく時が経つほどに価値が高くなり、家を売る人も、次にそこに住む人も満足し、愛せる家をつくること。それこそ、本来あるべき家づくりの姿だと眞木は考える。
「一流の設計と、家をつくって終わりではなく守りつづける職人、それから価値の落ちない建材を使うこと。弊社では、この3つの柱で価値ある家を一緒につくりませんか?と全国の工務店さんに呼びかけています」
地域に密着し、土地の特性を知り尽くした家づくり、さらには「かかりつけ医」のように長くきめ細かなメンテナンスを実現できる工務店の存在は、価値ある「いい家」をつくるうえで不可欠だ。しかし、家をつくる「施工」については任せられても、その前段階である「設計」については工務店の専門外であることが多い。
Make Houseは全国の工務店に代わって設計を担うべく、設立された。
「いい家をつくるための一流の設計とは何かと言うと、ただデザインが一流であるだけでは不十分で、構造、家事動線、収納、断熱性能、照明計画などの一流も必要になる。だから、各分野の一流が一緒に図面を作り上げ、一流の住宅設計の仕組みをつくる。これを弊社は住宅商品として提供しています」
Make Houseの高性能注文住宅 Sシリーズより「自然素材の家」
自然由来の素材を使い、経年美化を楽しむことができる
さらに同社では、設計のみならず集客、受注、生産効率の課題をも解決するサービスをパッケージで提供している。集客用のInstagram運用代行をはじめ、間取りのプランニング、構造計算、空間のCG制作など、幅広く工務店経営をサポートしているのだ。
業界のスタンダードとなっている家づくりを一つひとつ再定義し、未来を見据えながら実現してきた同社。今後は、家づくりもAIと共存する時代になるという。
「目指すのは、AIだと思いますね。やはり今は皆さん『自分の建てたい家』が分からない。だからこそ、気の利いた営業マンや広告費をかけられる会社の言うことを信用しますよね。でも、お客様が自分のスマートフォンで家の間取りを生成したり、AIで構造や性能、将来の価値まで最低限評価できるようになれば、『自分の建てたい家』が分かるようになる。弊社でも、快適な家事動線のパターンなどをAIに学習させて、間取りを生成する取り組みを始めています」
自分にとって「いい家」の在り方とその設計の方針が分かれば、あとはそれを形にする職人の手を借りるだけになる。セールストークを語る営業マンではなく、本質的な家づくりの話ができる工務店を選べばいい。
日本の住宅は、一般的に築30年で価値がゼロになると言われるが、一流の設計をもとにつくられ、職人の手で守りつづけられる家は価値が下がらない。
庭木が育ち、毎年季節に応じた風景を楽しめる。子どもの頃過ごした家が、そのままの姿で大人になっても壊されず残っている。残りつづける家の存在こそ、日本人の心を豊かにするのではないかと眞木は考える。Make Houseは家づくりから社会を変えていく。
幼い頃、近所に住む祖父の家へ行くと、決まっていつも仕事のお客さんがいた。祖父は地元福岡では有名な起業家で、住宅事業に始まり森林事業、自動車学校、ボウリング場、タクシー会社やホテルの経営など、手広く商売を成功させてきた人だった。
聞こえてくる会話と言えば、もっぱら仕事にまつわるものばかり。いわゆる商売人の家庭で生まれ育った影響か、はじめから「将来は経営者になる」と考えていたと眞木は振り返る。
「従兄弟たちもいたんですけれども、ずっと祖父からは『お前が跡継ぎだ』みたいなことを言われていて。ほかのみんなはきっちり靴を並べて家に上がる礼儀正しい子どもだったのに、私だけが靴のまま家に上がったり、とんでもないいたずら坊主だったので、それが祖父からすれば気に入っていたんでしょうね」
当時はよく膝の上に乗せられながら、晩酌を楽しむ祖父と過ごしていた。小学4年生の時に祖父は亡くなったが、特別可愛がってもらえた記憶とともに、その影響は色濃く残っているという。
「とにかく負けるな、負けるなとずっと言われていて。幼稚園で喧嘩に負けたと言ったら、『今から勝ちに行け』と言って、祖父は私を車に乗せてその家まで連れて行って、また喧嘩の再開みたいなことをさせたり。『誰にも負けるな』みたいなことはずっと言われた記憶があります。もしかしたらそのせいかなという気はするのですが、近所でも有名なガキ大将という感じでしたね」
いわゆる「男は泣くな、負けるな」という時代だったこともある。テレビをつければ『ウルトラマン』や『仮面ライダー』など、しきりにヒーローがもてはやされていた。どこかでそんなヒーローになりたいという気持ちがあったのかもしれない。
「周りの大人からすれば、もういたずらっ子の代表みたいなもので、とにかくじっとしていなかった。買い物でも母がちょっと財布を開けて手を離した瞬間に走ってどこかいなくなるし、池に入ったりして溺れる寸前とかですね。交通事故にも3回くらい遭って、それでもやんちゃしていましたよね」
好奇心が旺盛だったのか、やってはいけないと言われるほどやりたくなったりする。子どもは17時に帰りなさいと言われても、いつまでもやってみたい遊びは尽きなかった。
「幼稚園から小学校にかけて、周りの友だちからは『遊びの天才』と言われたりしていて。自分なりの遊びのアイデアを考えてやっていたら、みんながその遊びについてきてくれる。いま振り返ってみると、楽しいことをやりたい、こんな遊びをやりたい、そしたらいつの間にか友だちがたくさんいたという感じでしょうね」
決まりきった定番の遊びも楽しいが、外に目を向けてみれば楽しそうなことが見つかる。みんなは考えつかないような遊びのアイデアを提案すると、面白そうだと自然と周りに大勢の人が集まっていた。もしかしたら、経営者としての祖父もそうだったのかもしれない。自らやりたい事業を掲げ、多くの人を巻き込みながら商売を営んでいた。
好奇心とアイデアが尽きない限り、そんな生き方には終わりがない。共感してくれる人が集まれば、より大きなことを成し遂げられるようになる。もちろん当時そこまで考えていたわけではなかったが、少なくともいつか祖父のような経営者になろうという思いだけは明確なものとして心にあった。
2-2. 家づくりの仕事はなくならない
とにかく遊ぶことに夢中だった小学校時代から、中学でも変わらず自由に過ごしていた。当然真面目に机に向かったりもしなかったので、高校はなんとか拾ってもらえた学校に入ることになる。規律ある全寮制の私立校だったため、親からすれば入れておけば安心という思いもあったのかもしれない。けれど、やはり友だちと遊ぶうちに毎日は過ぎていった。
「比較的裕福な家の子どもが多い学校だったので、まず洋服のセンスとかそういったところはすごかったですね。『じゃあ、週末は一緒に東京だね』と言われて、土曜日に九州から東京行きの飛行機に乗って遊びに行ったり。だから、高校生にしては最先端の遊び方をしていたと思います。結局、楽しい遊びが大好きで、それは小学校から変わっていなかったのでしょうね」
寮では共同生活を送る分、より深い友情が芽生える。いわゆる一生の親友と呼べるような価値観の合う友人もできた。
卒業後は周りの友人たちが「東京に進学しようか」と話しているなか、どうせならもっと広い世界で遊んでみたいと思い、一人米国の大学に進学することにした。漠然とイメージしていたのは、ニューヨークのような大都会だ。
「ところが選択ミスで、入った学校は尋常じゃないくらい田舎の学校でして。アイオワ州という、本当に冬はマイナス30℃くらいになるような、牛とかそんなのしかいないような地域だったんです」
地平線まで続く農業地帯には、背の高いトウモロコシ畑が一面に広がる。一方で、週末にシカゴの街まで足を延ばせば、摩天楼と呼ばれるような高層ビルが並び立つ。どちらも日本にはない景色、そして日本にはない自由な空気が流れていた。
帰国後、久しぶりに会う友人たちはなんだかんだで普通の就職をして、サラリーマンとして働く道を歩もうとしている頃だった。
「あれだけやんちゃしていたのに、社会人になったらネクタイをはめてサラリーマンになるのかと思って。社会に出たら郷に従え的なところが、自分はどこか嫌だなと思ってしまったんでしょうかね。それよりは米国で見たアメリカンドリームみたいなものを掴んだ人たちに憧れて。具体的に何をしたいというものはなかったのですが、日本だったらいい大学、いい会社に入らなければできなかったりするものが、米国ではそんなこと関係なしに挑戦できるところはすごく魅力がありましたよね」
努力すればどんな人にもチャンスが訪れる。いわゆるアメリカンドリーム的な世界観は、将来起業したいと言いつつ、まだ何者でもない自分にも何か成し遂げられるのではないかと思わせてくれた。当時はどうにかしてもう一度米国に戻りたいと考えていた。
「もう学生ビザでは行けないのでビザを取り直そうかなと思ったのですが、そんなに甘いものでもなく。とりあえずお金を貯めなければいけないということもあり、当時はバブルの終わりかけだったので、お金が稼げる業界と言えば住宅業界だったんです。それで住宅業界で働こうと思って、東京で就職したというところです」
住宅営業と言えば、歩合給かつ実力主義の世界である。物件を売れば売るほど稼げる。バブルという時代背景も相まって、何が何でもお金を稼ぎたいという人にとっては、うってつけの環境だった。入社後はまず営業力を身につけなければ話にならないということで、身を粉にして働く日々が始まった。
「努力しましたね。本当に寝る間も惜しんで努力したし、やっぱり『負けたくない』という気持ちでしょうね。会社に行って、グラフがずらっと貼ってあったら、明らかに競争じゃないですか。営業マンの多い会社で、700人近くライバルがいるなかでトップクラスに入っていけたのは、やっぱり『負けたくない』という気持ちだったと思います」
もともと就職は、あくまで社長になるための勉強の一環ととらえていた。そのため一つの会社で長く勤めるつもりはなく、入社から半年ほどでトップクラスの成績を取ったので、次はどこで戦おうかと早々に考え出した。直近ではコンピューター業界という新たな産業がめざましい発展を遂げつつあることも知り、心が揺れていた。
「実は学生時代からお世話になっていた住職がいて、当時その方に進路を相談したんです。コンピューター業界に行くべきなのか、このまま住宅業界に残るべきかと。その時に、逆に『コンピューターの仕事は何年前からあったんだ』と質問されて」
正確なことは分からなかったが、ここ最近の話なのではないかと答える。しかも、明らかに近い将来とんでもない革新が起こりそうな雰囲気がある、だからその業界に足を踏み入れたいという思いがあるのだとも。
住職からは、続けて「では、君が言う家づくりの仕事はいつからあるんだ、この先2つの業界はどうなるんだ」と問いを投げられた。
「そんなの縄文時代からあったんじゃないですかという話になって。コンピューター業界はこれから間違いなく伸びていく。当時は携帯電話があって車もあって、生まれたり消えたりする仕事はたくさんある一方で、住宅の仕事はなくならない。人がいる限り、家を作る仕事はいつの時代もなくならないんだなと思った時に、この土俵で戦おうと思えたことは大きかったですね」
はるか昔の原始時代から、人は本能的に家をつくってきた。そこに人が生き、暮らしを営もうとする限り、家づくりという仕事は存在する。時代が変わり、さまざまなテクノロジーの価値が栄枯盛衰を繰り返すなかでも、家だけは常に必要とされつづける。そんな仕事はなかなかないだろう。
住職との問答のなかで、答えは自ずと見つかった。住宅業界という土俵で勝負する。人生の軸が定まったようだった。
ひとまず住宅会社の仕事は続けることにして2年ほど働いたのち、ちょうど帰省した際に両親が商売で土地を分譲するという話があったので、自分にやらせてほしいと言って住宅事業を始めることにした。23歳の時だった。
「保障が何もなかったですよね。もともと歩合給メインの会社にいたので、そんなに保障もなかったですし、もう稼がないと給料はない。固定給すらないという状況になると、やはり会社員って守られているんだなと感じました。最初は給料がないことなんて結構当たり前だったし、とにかく自分でやるしかないと」
住宅の仕事は一定経験しているとはいえ、経営は初めてだ。社員もいなければ、広告にかけるお金もない。とにかく信用も何もない最初のうちは、一軒一軒を回って飛び込みで営業していくしかなかった。
「やることはもう地図を壁に貼って、土地情報とかを全部書き込んでいく。この家はリフォームが必要だな、この家はゆくゆく建て替えだろうな、ここは田んぼなのでいつかアパートが経つんじゃないかなと、そんなことをピックアップして一個一個飛び込み営業ですね。だから、その地域のことは分かっていたし、地域にほかの会社が家を建てたら負けたくないという気持ちになり。今考えれば、商圏を集中させてやったことが成功のカギだったんでしょうね」
福岡県内の一部のエリアに集中したことで、土地や住宅にまつわる濃い情報が集まった。少しずつだが着実にお客さんを開拓することができ、紹介で仕事が繋がるようになる。事業が拡大するにつれ、かつての同級生が社員として入ってくれたりもして、仲間は増えていった。
一方で、組織が大きくなると必要になったのは、社員の意識を統一させるための理念だった。とにかくまずは稼ぐことが第一だった創業期を過ぎ、共通の旗として掲げられるような会社の方向性を定めなければいけないと考えはじめた。
「それからというもの、どんな住宅をつくっていくべきか考え出すのですが、答えがなかなか出なくて。悩み続ける中、何か参考にできる会社はないかと大手企業がつくる家を見たところで、こんな家に住みたいとは思わなかった。やっぱり米国で見た住宅の方が全然良かったなと思えて、一時世界中を旅することにしたんです」
米国に住んでいた頃、そこには日本にはない美しい街並みがあった。土地が広く緑が多いだけではない、住宅それ自体が街並みとして価値を生む姿だ。そんな家々がいかにつくられるのか、米国の住宅業界の仕組みは一体どうなっているのだろうかと、再び現地へと赴いた。
ほかにも世界中の家づくりを見て学ぶべく、建築家・安藤忠雄氏に同行し世界の建築を巡りながら、直々に建築の見方などを教えてもらったりもした。フランス、イタリアをはじめ、ヨーロッパ各国を回る。そこで目の当たりにしたのは、家そのものの価値を守りつづける社会だった。
「まずイギリスに行った時に感じたのは、なんで築100年の住宅が新築より価値が高いんだという驚きでした。たしかに見た感じは味もあるし、歴史もある。世界では、新築より古い家の方が値段が高いということに衝撃を受けて」
なぜ、こうも違いが生まれるのか。米国では人生で5~6回家を買い替えることが一般的だという。それに対し、日本では1回買えばいい方だ。
答えは明白だった。買った当時の値段より、高く売ることができるからだ。だから、住み替えるごとにステップアップしていくことができる。日本では、買った時点こそが最も値段が高い。あとはひたすら築年数を重ねるほどに価値が下がっていく。
日本の家づくりは果たしてこれでいいのだろうか、家を買う人は騙されているのではないだろうかと憤りのような思いが湧いてきた。
「やっぱりいい建物は守られつづけ、ずっと残りつづけるんだと思ったんです。一方で、日本では作っては壊し、スクラップアンドビルドで新しい家を建てつづける。だから、街並みは美しくないし、粗悪な材料を使った建売住宅が横行していると。そんなことを感じるとともに、ようやく30歳前に答えが見つかって。つくった家を守りつづけよう、そして価値ある家をつくり提案しようと思ったし、ずっと残りつづける住宅をつくっていきたいと思うようになったんです」
残りつづける住宅とは何だろうか。それは経験豊かな職人が汗水流してつくり、守りつづける住宅だ。もちろんデザインも妥協しない。4年ほどの旅の末にたどり着いた結論は、それが本来あるべき家づくりの正しい姿だということだった。
「日本の家づくりの歴史を思うと、戦後焼け野原になって以降、やはり住宅を供給しなければいけないという国の使命があって、目先の家づくりが行われてきた。でも、それまでは家は職人さんがつくるものということになっていて、つくった家は職人さんが守りつづけるから、京都や金沢の町屋やお寺は残りつづけていますよね。法隆寺を作った金剛組という会社は世界で一番古い。要は、作ったものを守りつづけるから価値がずっと変わらないし、それを守るために職人さんが育っていく。職人さんは絶対に必要な存在なんです」
いつからか日本では、家はネクタイをはめた営業マンから買うものになった。どの職人が建てた家を買うかではなく、「あの営業マンが良かったから買いたい」という決め方が主流になっている。
さらに、失われつつあるものはそれだけじゃない。日本が世界に誇る木造建築の技術と文化だ。長い年月を経て、木は二酸化炭素を吸わなくなる。そんな風にして乾燥した木材を建築材料にすると、構造的に丈夫で長持ちし、シロアリもつかない。長く守りつづける価値ある家となり、新たに植えた苗の成長を待ちながら、大樹が育つ頃に新たな家をつくる。
そうして地球と循環する家づくりが、かつての日本にはあった。100年ほどの歴史しか持たないコンクリート住宅とは、根本的な思想から異なるものだ。貴重な文化を取り戻し、もっと「いい家」をつくる。そのために、事業を成すべきだと思うようになった。
当時は不動産業をメインとし、分譲マンションなども取り扱っていたが、思い切って会社を方向転換する。職人が丹精込めてつくる木造住宅を追求することにした。しかし、今まで通りのやり方でいい家を建てるとなると、どうしても値段が高くなる。良質な材料を使い、職人が手間暇かけるのだから当然だった。
一部の裕福な人しかつくれない家では意味がない。限られた人だけでなく、ごく一般の人がいい家を建てることができる社会であるべきだ。そんな信念のもと生まれたのが「プロが考え抜いた完全な企画住宅」という取り組みだった。
「なんとかコストを落としたかった。デザインも性能も良くて、買いやすい住宅をつくりたかった。そのために、できるかぎり規格化していって、お客さんがあれこれ注文したいという気持ちは分かるけれども、注文しなくていいぐらいに完成された住宅であるならば、コストメリットを出せる。そんなコンセプトのもと作ったものが、『casa cube(カーサ・キューブ)』という住宅でした」
具体的な構想は、家づくりの工程一つひとつを観察し、実際に手を動かす職人たちの意見を集めながら固めていった。
たとえば、家を建てる前にコンクリートで基礎をつくる基礎工事については、いわゆる基礎屋と呼ばれる職人に「どんな家なら手間がかからないか」と直接聞くと、出っ張りや引っ込みが少なく、もっとシンプルな形であれば作りやすいということだった。それなら真四角の家であればどうか。何日短縮し、鉄筋の量はどのくらい減らせるかとアイデアを詰めていく。足場屋などほかの工程についても同様に、工夫の余地を探し、実際に工事を試してもらうことにした。
「これが成功して17時までに終わったら、今日は最高級の焼肉をご馳走すると言ったら、16時半に終わった。これは何か変わるかもしれないと、職人さんも潤い、お客さんも潤い、そして街並みがきれいになる。そういうデザインの企画住宅を世に広めることができれば、日本の家づくりを変えられるかもしれないと思ったんです」
当初、社員は全員反対だった。これまで家はお客さんの注文を受け、二人三脚でつくるものだったからである。画一性を特色とする住宅商品は、真逆のコンセプトだったため無理もない。少なくない社員が退職し、一時は売り上げも落ち込んだ。しかし、結果的に反響は想像以上だった。
同時に、全国の工務店から「なぜそんなに安くできるのか」と問い合わせが次々舞い込んだ。
「『この商品をぜひうちでも取り扱わせてくれ』という話が来て、ある会社から『このノウハウを全国の工務店さんに販売しませんか?』と言われたんです。ノウハウをレシピとして売るぐらいならいいかなと思って、福岡以外のエリアで販売することにしたわけです」
それは多くの工務店とかかわり、食事をともにしながら深く対話するきっかけにもなった。代々職人家系で技術を伝承してきた素晴らしい工務店とも数多く出会う。そのような素晴らしい工務店こそ、きちんと社会で評価されるべき存在だと思えた。
住宅業界をより良く変える。そのために、全国の工務店と手を取り合いながら業界を変えようと、40歳の時に決意した。
一方で、ノウハウを販売することについては新たな課題も見つかった。レシピをもとに集客するのだが、一部の工務店ではできあがる住宅がどうもレシピを無視した造りになっているようだった。
「決して誤魔化すとか策略的なことではないと思うんですけれども、今まで使い慣れたものに流れてしまうんでしょうね。結局、住宅をつくる責任を考えた時に、人の寿命より家が長く持たないといけないということを思っているわけです。だけど、みんな目先の家づくりに走っていくのはなぜかと考えていくと、これは設計に課題があると思ったんです。工務店さんは工事をしたりと『つくる』技術はあるけれども、設計はできない。住宅業界最大の課題は設計なんだと」
施工と設計は別物だ。それなら工務店が、その本分であるつくることに特化して本領発揮できるよう、代わりに設計を担う会社が必要なのではないかと考えるようになった。
「我々が全国の工務店さんの設計をサポートする。そうすればデザインも性能も良く、コストも安く抑えられる。そんな住宅をつくっていくことができれば、買った瞬間に値段が下がりはじめるような家づくりは終わるんじゃないかと思って。仮に、35年で住宅ローンを組んだ人たちの家の価値が下がらなければ、それはもう資産ですよね。となると、未来の子どもたちはもっと負債のない社会を生きられるんじゃないかと思ったわけです」
職人がきちんと守りつづけ、粗悪な建材を使わない家づくり。なおかつ、デザインから構造・家事動線・収納・照明に至るまで、全てが一流の設計を実現する。そのために、福岡の工務店と、工務店にレシピを販売するコンサルティング会社も売却し、2016年にMake House株式会社を立ち上げた。
長い年月をかけ、当たり前になった業界のしきたりを疑う人は少ない。だからこそ、そこに向き合う意義がある。Make Houseは、在るべき家づくりの実現を追求しつづける。
日を追うごとにテクノロジーが発展し、仕事の定義が変わりゆく時代、今後はクリエイティブでなければ生き残っていけない時代になっていくのではないかと眞木は語る。
「AIがほとんどのことをやる時代が来るのではないかと思うなかで、AIというものは基本的に過去のデータから学習しないと考えられない。過去に誰もやったことがないことに挑戦できるのは、やはり人間でしかないのかなと思うので、会社もそういう挑戦をする人の集団である方が働く人も感動すると思うし、人に感動も与えるんじゃないかと思っています」
なぜ、オリンピックがあんなにも人を感動させるのかといえば、やはりそこに至るまでの努力が伝わってくるからだろう。4年に一度の大舞台、全てを捧げてきた選手たち。前人未踏の記録が成し遂げられる瞬間は、何より人の心を揺さぶるものがある。
そんな挑戦は、もちろんスポーツに限らずビジネスの世界にも存在する。
自分がそれほどの努力を捧げられるものは何なのか。人並みの努力ではない、誰にも負けないくらい努力して、誰も到達したことのない地点を目指したいと思える何か。これからの時代、そんなものが一つでもあればいいのではないかと眞木は考える。
「もう苦手なことはやらない、好きなことだけやればいいと。ただ、それで何かしらチャレンジする。逆に、そんないい時代になっていくんじゃないかと思います。日本って体育ができるなら数学もできて然るべきというような考え方がありますが、何か一つでいいじゃないですか、輝くものが一つあれば。あとは最低でもいいんじゃないですか」
Make Houseでも、全ての設計を一人が担うことはない。間取りには間取りのスペシャリストが、構造には構造のスペシャリストがいる。互いにリスペクトを持ちながら意見を出し合い、前例にとらわれず一つの設計をつくりあげる。たとえ巨匠と呼ばれる建築家でも、一人で全てを一流に仕上げることは難しいからだ。
「通信簿でオール5が取れる設計士はいないと思っていて。苦手な分野は苦手でいい。何か際立つ分野で5を取ってもらえば、あとは1でいいと。それぞれのプロフェッショナルがチームを組むことでこそ、一流の設計が実現できるんじゃないかと思っていますね」
大事なのは、そうして価値ある家をつくること。そして、守りつづけることにある。だから、Make Houseでは家づくりにおいて追求すべき分野一つひとつを大切にし、そこに誰より情熱を注ぐ人材が集まっている。
真摯なこだわりは小さくても輝き、人を感動させる。そうしてつくりあげられた家こそ、長く愛され世に残るものになると信じている。
2025.4.9
文・引田有佳/Focus On編集部
人が生きつづける限り、家は存在しつづける。時代が変わっても、文化が変わっても、それだけは変わることのない本質なのだと、住職とのやりとりをきっかけに気づいたと語る眞木氏。
この世界から「家をつくる仕事」がなくなることは、きっとない。だからこそ、それを人生の生業にすると決めた眞木氏の覚悟は、穏やかな語り口ながら伝わってきた。
Make Houseがつくるのは、残りつづける家である。良質で適切な建材を使い、技術ある職人の手で守られる。自然とともに循環し、人とともに生きる家こそが、かつての日本にあった家の姿だった。
変わりゆく社会のなかで、原点に立ち返り、変わらない価値を形にする。その挑戦はただ一つの事業としてだけでなく、人の営みにおける、確かな礎としての意味をも持つのだろう。
文・Focus On編集部
▼コラム
私のきっかけ ― 『「原因」と「結果」の法則』著:ジェームズ・アレン
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
Make House株式会社 眞木健一
代表取締役
1967年生まれ。福岡県出身。米国留学後、東京で不動產販売を経験し、1990 年注文住宅を中心としたMAKIHAUSを立ち上げる。福岡にて1600棟以上の注文住宅の実績。また、casa projectを創業し『casa cube』をはじめとした企画住宅を全国に展開。その後2社を売却し2016年、技術ある職人や工務店の設計サポートを行うMake House株式会社を立ち上げる。