目次

世界平和を教育から始める ― 10代をインスパイアするEdTechが伝える「問い」の価値

自分の問いを投げかけてみよう、世界はきっと応えてくれる。


「一人ひとりのウェルビーイングと世界平和の実現」をビジョンに掲げ、10代の好奇心を刺激し、世界とつなぐ教育プログラムを提供する株式会社Inspire High。主に中学高校の探究学習やキャリア教育、SDGs教育として導入される同社のプログラムには、生き方も仕事も型にはまらない多彩な顔ぶれが、世界中からゲストスピーカーとして揃う。教室にいながら日常では触れることのできない世界や視点、問いを発見する子どもたちは、他者を知り、同時に自分を知ることになる。2024年には、英IBIS Capitalが主催する「EdTechX Awards 2024」でファイナリストに選出されるなど、革新的なEdTech教材として世界からも注目されている。


代表取締役の杉浦太一は、大学在学中にCINRAを創業し、2006年に株式会社化。自社メディア「CINRA」の事業運営、官公庁や地方自治体、大手企業のブランディング・マーケティングに従事したのち、2019年に株式会社Inspire Highを分社化した。同氏が語る「世界と自分のつながり」とは。






1章 Inspire High


1-1. 世界中の10代をインスパイアする


人の心は、どれだけ日常的に新しいものと触れるかで柔軟さが変わる。明らかに自分とは異なる考え方や立場でも、好奇心で理解しようとしたり、その奥行きの存在を認めたり。そうやって知らない他者や世界のことをどれだけ想像できるかが、人のいさかいや争いが起きるかどうかの分岐点になっているのではないかと杉浦は語る。


「常に新しいものと接している状態がないと、どうしても人間は未知のものを拒絶してしまいがちな生き物だと思うんです。だから、人間には常にインスピレーションが必要で、新しい出会いや考え方を知ることが大切だということが持論としてあって、それがInspire Highの『世界中の10代をインスパイアする』というミッションに繋がっていきました」


理由のない抵抗感や敵対の背景が、実はただ「知らない」からに過ぎないことがある。最近では「多様性」という言葉で括られることもあるように、それは見知らぬ誰かの違いを認め、近くに感じ、自然と力になろうとする人間性の土台にもなっている。


「今、世界が全く逆の方向に進んでいて、YouTubeで見たい動画を一つクリックしてしまうと、もうそれしか出てこなくなるとか、ある種人間の本能を理解してアルゴリズムが設計されているんだと思うのですが、それが加速してしまうと本当に分断しか起こらない。企業なり国なりNPOなり、みんながあらゆる社会課題を解決したいと思っていても、おそらく今後そう思う土台自体がなくなってしまうぐらい、今はその分断の狭間に来ていると思うので、そこに根本からリーチできるのは教育だと思っているんです」


「Inspire High」は、今を生きる10代に向け、世界とつながる探究的な学びを届けるプログラムだ。登場するのは、台湾の元デジタル担当大臣オードリー・タン氏から詩人の谷川俊太郎氏、マサイ族長老まで、世界中でクリエイティブに生きる大人たち。まさに現代の多様な生き方や価値観の代名詞となるような人々の考えに触れ、生徒は「答えのない問い」に向き合っていく。


普通の10代が置かれている環境では見聞きできないものを届けることで、世界を広く、かつより「近い」存在として感じてもらえるようになる。そんな教育体験が、未来をもっと良いものにすると同社は信じている。


「一方で、話を聞くだけだと面白くない。学校の体育館で座って何百人が一斉に話を聞くときも、一人ひとりはその最中にいろいろなことを思うわけじゃないですか。それ自体が価値なので、話を聞く時間は15分ぐらいにして、そこで思った自分のモヤモヤやひらめきをすぐにアウトプットしてもらう。それに対してみんなで意見を言い合うという授業形式にすることで、生徒が飽きずにインスピレーションを最大化できるよう設計しています」


とある私立校では、「Inspire High」の授業がある日だけは、学校に来られるようになった生徒がいるという。テクノロジーが発達し、誰もが簡単にデジタル環境へアクセスできるようになった。海外では子どものSNS規制も進んでいるように、現代の子どもたちは新たな生きづらさに直面している。


「SNSでは人の劣等感や優越感をくすぐるような情報が多すぎて、自分と向き合う時間が本当に取りづらいと思うんです。そのなかで未来を考えていくとなると、かなり難易度が高い。だから、できるだけじっと黙って考える時間を届けられるサービスにできればと考えています。やっぱりそこから生まれてくるものこそが、その人にとっての学びや価値になると思うので」


「Inspire High」のセッションに登場するガイドたち


ある人とある人の人生を媒介することで、その人の人生を豊かにしたい。同社の根底に流れる思いは、長年運営してきたメディア「CINRA」とも通ずるところがあるという。


「Face to Faceで適切な話をしてくれるメンターのような人がいて、その人たちに勇気づけてもらえたり、こういう世界もあるんだよと教えてもらえたり、悩みを聞いてもらえる。そういうことが本当に至高の教育体験だと思う一方で、それってスケーラブルではないとも思うんです。つまり、そういう体験にアクセスできる人とできない人がいる以上、永久に教育格差が広がって、それが社会の分断に繋がる悪循環になってしまう可能性があると」


素晴らしい教育が世に生まれるたび、その機会を得られるか否かで格差が生じてしまう。逆説的だが、社会はそういう構造になっている。だから、メディアのようにできるだけ広くアクセスできるサービスを作り、届けていく。


「私たちとしては、ある特定の人たちに至高のものを提供する事業を作るというよりは、やはり社会とか教育というもの、何か根本的な概念や基盤自体を突き動かせるようなスケーラブルなモデルを生み出そうというイメージを持っています」


短期的には国内市場で「Inspire High」を定番化させていくこと、同時にグローバルマーケットへの展開を進める同社では、中長期的には教育そのものをアップデートしていくことを目指している。


「AIやテクノロジーが発達していくことで、私たちは何か不得意なことをやらなくても、自分はこういう形で社会に貢献したいとか、人の役に立ちたいと思ったら、それを突き詰められるようになっていく。そのために必要な勉強を頑張って、その頑張りに対して評価されていくという、もっと人間中心な教育像がこれから2~300年かけて徐々に作られていくだろうと思うんです。Inspire Highはその先駆け的存在、世界のトップランナーになりたいと思っています」


社会が変わるとき、教育もまた変革を迫られる。テクノロジーとともに加速度的に進化する現代社会でも、一人ひとりの子どもたちが力強く生きていけるように、Inspire Highは世に広くインスピレーションを届けていく。




2章 生き方


2-1. 自分で選択し、自由に生きる


ごく自然に外へと連れ出してくれた両親をはじめ、何かを始めたり興味を持つきっかけは、いつも些細なものだったと杉浦は振り返る。


「父は会社を経営していまして、いろいろなところに連れて行ってくれる人で。狩猟の免許を取ったと言って狩りに行くとか、釣りに行くとか、とにかく自分の知らないところに連れ出してくれるような存在だったと思います。母はものすごくパンクな人だったので、ショッキングピンクの車に乗っていたり、二人とも破天荒だと友だちからは言われていましたね。すごく明るい家族だったように思います」


直接言葉にされたわけではないものの、両親から強烈に受け取ったメッセージがあるとするならば、それは「生きたいように生きろ」ということだった。もちろん「勉強しなさい」なんて言われたことはない。逆に子どもながら心配になってきて、自主的に勉強したりするほどだった。


「たまにきちんと勉強して、いい点を取って帰ると『変わった子ができたもんだ』くらいの感じで不思議がられて(笑)。勉強することに関して周りに合わせてこうしなければとか、親に褒められたいからやらなければという感覚が1ミリもなかった。最初から学ぶことは自分のためのものだったし、常に学びの主導権が自分にあるという感覚を持たせてくれたことにはすごく感謝しています」


中学校は地元を離れてみたいと思い、受験を考えた。親からは「お金のかかることなのだからきちんと自分からお願いするように」と言われ、その通り受験したい理由を説明し、選択させてもらう。小学6年生の途中からは塾にも通い、受験に向けて勉強しはじめた。


それまでは机に向かうより、もっぱら外でサッカーをして遊んでいるような学生だったので、はじめは当たり前のように最下位に近い成績を取った。しかし、自分なりに努力していくと、次第に学力は右肩上がりで伸びていく。


「そこからすごく勉強が好きになっていきましたね。やっぱり成績もついてくることで、頑張れば上がるんだと思えるようになってくるじゃないですか。しかも、受験で自分の行きたい学校に入りたいとか、目的や目標が常にそこにはあったので、何か目的があってそのために稼働しているという感覚の原体験は、もしかしたら今にも繋がっているのかもしれません」


希望通り入学したのは私立の中高一貫校で、通学には片道1時間半かかる。周りからは物好きだとも言われたが、毎週髪の色を変えても怒られないくらい突き抜けて自由な校風は肌に合っていた。


「学校中がみんなものすごく楽しくやっているのですが荒れてはいなくて、自由が保障されている。その代わり、自由を受け取ったのならその責任は自分たちで負いなさいというスタンスの学校だったので、それも親の教育方針に近しいところがあって。勉強は別にしてもしなくてもいいけれど、自分の生き方だからと。自分の人生のベースは、本当に中高で作られたなと思っています」


自分の意思で選択するから、自分の人生を生きられる。自由を当たり前にしてくれた両親と環境が、そこに伴う責任と楽しさ、何より可能性を教えてくれていた。


幼少期



2-2. 社会に問いを発する意味


思い思いに過ごせる空気感のなか、中学ではひたすら好きなことをした。小学校から続けていたサッカーはもちろん、音楽好きな両親に触発されて始めたギター。言うまでもなく、友だちと遊ぶ時間はあっという間に過ぎる。中学3年になる頃からは本の面白さに目覚め、むさぼるように本を読みはじめた。


「授業中もだいたい教科書に隠して読むのは漫画だと思うのですが、僕はずっと本を読んでいて。本を通じていろいろ社会について分かってくると、そもそもなんで戦争は終わらないんだろうとか、平和ってみんなが願っているのにたどり着けない、そこにはどういう難しさがあるんだろうということにすごく興味が湧きはじめたんです」


これほど多くの人が平和を望んでいるにもかかわらず、なぜ人間は歴史を繰り返してしまうのか。社会の授業でも、戦争の歴史は人間がやってきたことのどうしようもなさを物語る。知れば知るほど、自分の中に純粋な疑問が湧き上がってくるようだった。


「当時すごく好きだった『STUDIO VOICE』という雑誌があるのですが、ある時その雑誌にすごく良いインタビューが載っていて。『ぼくらの智慧の果てるまで』というタイトルで、内容は20世紀に人類がやってきたことが、今の言葉で言うといかにサステナブルではないかとか、そこに対して自分たちが人類の叡智をもってどのように立ち向かうべきなのか。そんなお話を小説家の方が、ご自身の言葉で語っていたんです」


そこで語られていた内容は、当時自分が抱えていた社会への課題意識とまさに合致するものだった。戦争も環境破壊も止まらない。人類には変えられない過去がある。それでもなお、今を生きる人間は何をすべきで、何ができるのか。自分の中になかった解釈に触れ、さらに自分の中の問いが深まっていくような、心に残るインタビューだった。


「その後、高校で生徒会長をやっていた時に、先生から『外部から人を呼んで講演会をやるんだけど誰を呼びたい?』みたいなことを聞かれて。だいたいそういうものって卒業生の誰かとか、先生が勝手に決めてしまうじゃないですか。でも、聞いてくれる学校だったので少し考えさせてもらって、あのインタビューで語っていた小説家の方に来てほしいなと思ったんです」


講演依頼は自分ですることになったので、早速雑誌に書かれたメールアドレス宛に連絡してみることにした。


「当時は1996年ぐらいで、まだインターネットも始まりたての頃だったので、本人のメールアドレスが普通に載っていたんですよ。それで直接メールをしてみたら、ご本人も『高校生がメールを使うのか』と驚かれて、その新鮮さに心動かされたということで来てくださることになったんです」



雑誌の中の人物だった本人から返信が来ただけでなく、わざわざ自分たちの高校に来てくれる。それだけでも信じられないほどの感動だが、それ以上に開催された講演会は素晴らしく、同級生たちからも好評だった。


「みんながすごくインスパイアされて、その場の話も盛り上がった。そういう出来事を通じて、自分が学校の外に一歩アクションを起こしてみたら、社会が応えてくれた。それでみんなが喜んでくれた原体験というか、自分にとって自己効力感に繋がる体験だったかなと思います」


関心があるテーマについて問いを持ち、多くの人と共有する。そこから生まれる何かに夢中になっていき、その後もインターネットへと向かうようになった。


ちょうど講演会に来てくださった小説家の方のホームページに、誰でも自由に書き込める掲示板があったので、かねてから抱いていた疑問の一つを投げてみた。


「僕はすごく世界平和を求めている一個人なのですが、もし仮に自分の愛する人が横にいて、その人が目の前で殺されてしまったら、殺した人を何も考えずに殺そうとしてしまうんじゃないか。それはつまり戦争を容認し、加担することだと思うのですが、どうしたら僕はこの問題を乗り越えられますか?という、そんなもの答えられるかという問いを掲示板に書いたんです」


自分の中で戦争と平和の問題は、本能と理性のぶつかり合いにどう折り合いをつけるかという問いに近しい感覚だった。もし自分がどうしようもなく空腹だったなら、目の間の人より一つでも多くの食べ物を欲して争いが生まれるかもしれない。一方で、理性では平和が大切だと信じている。それらのバランスがどう成り立つのか、自分の中で考えるだけでなく無数の解釈を知りたいと思った。


掲示板上では、さまざまな反応があった。当然「そんな問いに答えが出せれば苦労しない」といった声もある。しかし、どうやら掲示板の管理者である小説家の方は、その問いを誰より真摯に受け止めてくれたようだった。


「高校生が発した問いであるということに対して、きちんと立ち止まって考えて言葉を用意するべきなんじゃないかとご本人は仰って、ちょっと待ってくださいと。それから本当に1か月ぐらい経ってから、ある文章をネット上に掲載してくださったんです。『杉浦太一君へ』と、彼なりの答えをそこに書いてくださって、今読み返すと当時以上に本当に素晴らしい言葉をくださったなと感じるものでした」


その文章はのちに書籍になり、一時期そのまま国語の教科書にも載ることになったらしい。それだけ普遍的なテーマだったのかもしれない。当時はそうした人間や世界に対する解釈を、いろいろな人や本に求めていた自分がいた。


「なぜなぜ君だったんだと思います。学校でも好きな先生は放課後ものすごく忙しそうにしているのに捕まえて、読んだ本のここはどうしてこうなんだみたいな話をさせてもらったり。やっぱり自分が思った問いに対して答えてくれる大人がいたということは、自分にとっては本当にありがたいことだったと思っていて。おそらく誰もがそうだと思うのですが、そこにきちんと向き合ってくれる相手が周りにいるかどうかということが、すごく大事になるんじゃないかと思うので、その点で僕は当時の学校に感謝しています」


個人は世界の大きさに比べれば小さな存在でしかない。しかし、そこから生まれた問いやアクションは、一滴の水が波紋を起こすように社会に広がる可能性を秘めている。予想もしなかった反応が起こったり、共鳴してくれる人が現れる。そうして応えてくれる社会がある限り、自ら発しつづけることには意味があるとなんとなく思えていた。




2-3. 音楽、インド、そしてCINRAの始まりへ


高校では音楽好きな仲間が集まり、バンドを組んでいた。最後はよくある理由で解散してしまったが、有名なライブハウスでライブができたりしたこともあり、将来は何かしらの形で音楽に関わりつづけたいという思いがあった。


「音楽がとても好きだったので、当時はもうそれで食べていけることを目指していて、卒業後も専門学校で音響のことを勉強したり、もしくは現場の方が学べることも多いと聞いていたので、そのままどこかのスタジオに入るのもいいかなと考えていたんです」


自分なりに情報を集めていた頃、ちょうど教育実習で来ていた先生と偶然進路についての話になった。どこかあっけらかんとして人間的に素敵だったその人は、将来自分が音楽をやりたいと思っていることを伝えると、素直に何気なく視点を広げてくれた。


「その道って、もしかしたら今すぐ行かなくても良かったりするかもしれないと。『もし大学に行くことを許される環境にいるのなら、4年間大学に行っていろいろな空気を吸って、いろいろな世界を見てみてもいいんじゃない?』と言われて。それで大学に行ってみるかと思えたので、ある意味その方の何の気なしの言葉がなければ人生が変わっていたかもしれない。人にとって何が人生のきっかけになるのかは分からないなと思っていて。今、教育の事業でプログラムを作る上でも、何かを押しつけてはいけないという感覚は大事にしています」


重みのあるメッセージばかりが人の心を動かすわけじゃない。何気ないきっかけ一つで人は変わることがある。だからこそ、「こうしなければいけない」と強制したり押しつけたりはせず、置かれたものの中から好きなものを取ってもらう。選択肢の豊かさこそが大切であり、その方がむしろ人にとっては心地よい場合もあるのだと学んだ経験だった。


人生は何気ない意思決定の連続だが、あとから振り返れば重要な岐路にいたと思えることがある。卒業が迫る高校3年の冬、大学には推薦で合格をもらい時間ができたので、ふと思い立って一人で1か月間インドを旅したこともそうだった。


「沢木耕太郎さんの『深夜特急』という世界中を旅する小説があるのですが、その中に出てくるインドのパートが面白すぎて。興味をもって調べていくと、本当にいろいろな方がインドについて語っていたし、数学、哲学、宗教、いろいろなもののルーツを感じました。当時ちょうど、『自分はどうやって死に向き合っていけばいいんだろう』という問いをずっと考えていて。インドに行ったら何かが分かるんじゃないかと思ったんです」


釈迦が悟りを開いたブッダガヤの寺院では、ただお経を唱えつづける人たちを見た。ガンジス河のほとりに広がる街・バラナシでは、目の前で焼かれていく死者たちを見た。そこにあったのは、人類が誕生した2~300万年前から連綿と繰り返されてきたのであろう生と死の往還という大きな人の営みだった。


「言語化できる何かというより、自分もその長い歴史の一員なんだなとすごく腑に落ちたような感覚があって。そういう経験から、どうすれば良い社会になるんだろうとか、どうすれば世界が良い方向に向かうだろうと自分で考え行動することと、仕事をするということが僕の中では地続きのものだという感覚が築き上げられていったように思います」


18歳、インドのタージ・マハルの前で


進路はあまり深く考えず、オープンキャンパスで直感的に惹かれた大学を志望した。見知った東京を離れ、自由な一人暮らしを手に入れる。思い描いた理想の大学生活は、入学した途端に安易な夢だったと知ることになる。


当たり前ながら、中高6年間とは人も土地も全てが変わる。急な環境変化にとまどい、当初はうまく周囲と関係構築ができなかった。


「ある種逃げるように音楽に没頭するし、それも大学1年の途中で終わってしまったのでどうしようと思って。人生のバイオリズムがあるとすると大学は一番落ちていたというか、もうこれ以上は上がるしかない、浮上しないと息ができないという状態でした。比較的鈍感で楽観的な人間だとは思うのですが、珍しくしばらく眠れない日も続いたりして。そういう中で、ぱかっと海面に浮かぶかのように始めたものがCINRAだったんです」


当初「CINRA.NET」は才能を秘めたアーティストたちが、各々の表現を発信する場として始まった。数年間音楽をやってきたなかで出会った素敵なミュージシャンや表現者たち、それから中高の友人で芸術系に進んだ人たちなどの作品を、文章・音楽・絵・映像と形を問わず載せていく。はじめはメディアというより、ポートフォリオサイトのようなものだった。


一人、また一人と友人を口説き落としては仲間にし、サークルのような団体にしていく。その中には、ともに取締役として歩んできた柏井万作や、現在CINRAの代表を務める加藤修吾、それからライターとして幅広く活躍する武田砂鉄も含まれていた。三人とも、同じ高校に通う友人だった。


「僕の中では周りの人たちをネットワークすることで、何か新しい次の時代にフィットした考え方や文化を自分たちで練り上げたり、発信したりすることができないかという思いがあって。やはりその背後には、僕が中高時代に見てきた課題意識、つまりこの地球はサステナブルではないとか、これだけ人権が侵されてきた歴史があるだとか、そういうことの上に今この資本主義経済が成り立っていることの脆さみたいなことをすごく思っていて。そこに対して次の100年、200年のOSを自分たちの世代で作れないかという意識がありました」


さまざまなカルチャーと、表現者一人ひとりが切り取る世界を俯瞰する。今の時代を生きる自分たちはどこへ向かい、より良い世界のために何ができるのか。問いを投げ、思考や言葉を交わせるような場をつくるべく、できることから始めることにした。




2-4. もっと若者のために


社会をより良くすることへの思いが原動力になっていたことはたしかだが、当初はそこまで高い抽象度で言語化できていたわけじゃない。どちらかと言うと、各々好きな分野を持つ同世代の仲間が集まって、表現者にとっての登竜門的存在になることや、自分たちの手で新しい文化やムーブメントをつくっていこうと熱く語り合っていた。


活動を始めてからは、そう簡単に世に広まるほど甘くないということも痛感した。しかし、せっかくやるなら大学生の内輪ノリにはしたくないと思っていた。


「自分たちのあいだで口酸っぱく言っていたのは、内輪盛り上がりは絶対にやめようと。学生同士がわいわいやっている吹き溜まりみたいな場所には絶対したくないよねと、最初から話していたんです。どうすればこれが全国に届くのか、あとは広告を取れるようになるのかとか、そういったことを大学の頃からすごく研究しはじめていました」


調べていくと、どうやら営業には名刺というものが必要らしいと知る。作った名刺を携えて、映画館や音楽レーベルへと足を運んでは、1万円からでもと協賛を求めていく。すると、心ある大人はどこにでもいるもので、応援してくれる人が集まり、メディアは少しずつ成長していった。


しかし、大学も3年目になると就職活動という選択肢が見えてくる。一度きちんと就職し、CINRAは気心の知れたメンバーと続けていくという道もあるかもしれないと悩んだ。


「企業のインターンシップに参加したりしながら就職も考えたのですが、結局『自分はいずれ起業するから』と、それを成果や結果が出ないことに対する言い訳にしてしまったら、ものすごくかっこ悪いだろうなと思って。まぁ2~3年やって失敗しても、誰かしら拾ってくれるだろうと思って、じゃあ就職はせずにやろうということになりました」


比較的公益性が高い事業となりそうだったため、株式会社ではなくNPOにすべきだろうかとも考えたが、最終的には、当時の日本での非営利団体の運営の難しさを考え、より社会に影響力を持てるようにと株式会社を選択することにした。


「当時、『ビジョナリーカンパニー』シリーズやドラッカーを読んだりしていて、顧客や市場を創造するとはどういうことなのかを学びはじめていたんです。そのあたりから僕の中で経済やビジネスというものが、社会を変える原動力になるんだということに気がついて。やっぱり経済を回さないと人の生活様式や価値観は変わらない。本気で文化を作りたいんだったら株式会社だろうと思って、選んだという経緯でした」


CINRA初代オフィスの屋上にて


2003 年に「CINRA.NET」を世に出してから早20年以上、Webメディアは多くの人に支えられながら成長してきた。その間、いくつか派生的なサービスも生まれつつ、構想に終わったものの一つに「学校」があった。


「いつか学校を作りたいとかねてから話していましたし、そもそも教育をやってみたいという思いは、高校大学ぐらいからあって。やっぱり自分自身を形成してもらえた中学校時代を振り返ると、教育というもので人間の生き方が変わるということを身に染みて感じていましたし、自分の経験としても10代の頃だったからこそ柔軟で変われたという感覚が強烈にあったんです」


アーティストなど社会で活動する人たちの声を聞き、その熱量や問題意識など心の内を人々に届けていく。メディアとして広く実現しようとしていたことは、以前から自分が教育でやりたいことと重なっていた。


「メディアとしていろいろな人に取材をさせていただくなかで、それこそ昨年亡くなられた谷川俊太郎さんもそうですが、こういった言葉をもっと若い人たちに伝えた方がいいんじゃないかと思うようになってきて。特に中高生に広げたいなと思った時に、やっぱり教育をやりたいと思うようになっていったんです」


同時に、CINRAの一機能として、企業や官公庁のマーケティングやブランディングの支援も行ってきた。あらゆる産業で働く人々と交流していると、楽しそうに仕事をしている人がいる一方で、そうではない人もいる。しかも、それは特定の業界業種に限った話ではなく、どうやら普遍的かつ根深い問題であるようだった。


いわゆるキャリア教育など、個人が幸せになる手段として教育があるならば、何かできることがあるのではないかと考えるようになった。


「自分はこう生きたいとか、こういうことに幸せを感じるということを理解して、それを実現できる仕事ができているかどうかの方が、どんな職業に就くかよりもずっと大事だよなと思って。つまり、メディアでいただいた素晴らしい言葉をもっと10代に届けたいという思いと、みんなが活き活きと働くためにどんな体験ができていたらいいんだろうという思考がミックスしていって、プロダクトとして落とした時にInspire Highという形になっていったんです」


当初はCINRAの新規事業として立ち上げる想定で、1年半ほどの準備期間があった。漠然としたキーワードとしての「教育」、そして「10代をインスパイアしたい」という思い。決まっているものはそれだけで、具体的にどうやって実現するのかは、実際に国内外の優れた教育機関を回ってリサーチしながら固めていった。


素晴らしい教育者たちから直接意見をもらい、なかにはその場で口説いてアドバイザリーボードになってもらった人もいる。世界各国からの助力を得つつ、Inspire Highのプログラムを開発していく。将来的にプロダクトとしてPMFを達成し、広げていくことを考えるなら、かなり大きな動きになりそうだった。


「20年、30年かけてじっくりやっていく想像はあまりしていなかったので、一気にスピーディーにやるとしたら、スタートアップとしてアグレッシブに資金調達をしてやっていきたいと思いました。CINRAとは進むペースが異なることもあり、同じ法人の中で事業運営していくことに限界を感じ、スピンアウトして、独立した会社にしました」


2019年、株式会社Inspire Highを分社化する。未来、より良い世界のための教育を、ゼロから構想し、形にしていくことにした。




3章 いい人生を歩みたい人へ


3-1. より良い社会のために力を行使できる場所


人生という時間をいかに過ごすかは、人それぞれの自由だ。しかし、それが有限であり、あっという間に過ぎていくものであることは誰しも変わらない。


いつか立ち止まり、ふと振り返った時、いい道を歩んできたと思える人生を歩みたいと願うなら、自分以外の他者や社会のためにしてきたことの積み重ねが、きっとその道を彩るものになるのではないかと杉浦は考える。


「自分だけの欲を満たすことで満足できる人って、実際はあまりいないんじゃないかと思っていて。やっぱり人に喜ばれたり、社会に貢献できることによって、自分の人生自体が豊かになっていくという側面があると思うんです」


ある程度社会で経験を積み、一定の力を身につけることができた人には、環境を選択する余地が生まれてくる。引き続き組織に身を置いてもいいし、転職や独立を選んでもいい。ただ、この先どこで力を発揮すべきかと迷う人がいるとすれば、その力をより良い社会をつくるために使うという選択肢がある。


「弊社だけではく、今、本気で社会をより良い場所にしようとしている会社はたくさんあります。せっかく何か力をつけてきたのであれば、その力をさらに大きくすることだけでなく、それをより良い世界をつくるために行使できる場所に身を置いてもいいんじゃないかと思うんです」


昨今、いわゆる「社会起業家」という言葉が浸透しているように、社会をより良くする手段としての起業という概念は多くの人に受け入れられ、応援されるものにもなっている。なかでも教育業界は、かつてない追い風が吹いているという。


「コロナ禍を経て、学校がオンライン化して、学校の中にもEdTechというマーケットができあがり、文部科学省だけでなく経済産業省までもがかなりの予算をつぎ込んで後押しをしている。今は官民学が力を合わせてやっていくぞというフェーズなので、おそらくここから5年はこの先数十年の教育がどうなるのかを決める潮目になると思っています。そこで自分の力を行使していくことは本当にやりがいのある仕事なんじゃないかなと」


インターネットや広告のように素早い意思決定を繰り返す業界に比べれば、教育は決して変化の早い業界ではない。けれど、それが1ミリでも動くとき、社会に与えるインパクトは大きい。


あらゆる産業の未来の担い手を育む教育は、社会の地盤のような役割を担っている。その分、根気と力が求められる仕事ではあるものの、覚悟を持つ人には何より挑戦しがいのある道となる。




2025.2.28

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


地球の大きさは昔から変わらないにもかかわらず、テクノロジーは私たちが見聞きできる範囲を広げたり、狭くしたりする。何か知りたいことがあった時、「正解のようなもの」を教えてくれる情報はあふれているが、自ら問いを持ち、社会へ発することを教えてくれるコンテンツは少ない。


世界に対する態度が定まりきっていない10代は、良くも悪くも周囲の影響を受けやすい。生まれてから目にする世界や触れる情報が、その人の思考や価値観の糧となるならば、教育の重要性はますます増している。


未来の担い手である10代にとって、世界は今、どんな場所に見えているのだろう。本当はもっと多くの人がそれを想像してみるべきなのかもしれない。


恐れず社会にアクションを起こせる人が増えるほど、より良い未来に繋がる可能性は広がっていく。Inspire Highが創造する教育体験は、新たな時代の主役たちのため、希望を示していくものになるのだろう。


文・Focus On編集部



▼コラム|2025.3.4 公開予定

私のきっかけ ― 『竜馬がゆく』著:司馬遼太郎




株式会社Inspire High 杉浦太一

CEO / Founder

1982年生まれ、東京都出身。学生時代にCINRAを創業し、代表取締役に就任(2024年に取締役会長に就任)。芸術文化を扱うメディア運営や、官公庁や大手企業のマーケティングやブランディングに従事。2019年、中学高校向けの教育事業『Inspire High』を立ち上げCINRAから分社化し代表取締役に就任。Business Insider主催の『BEYOND MILLENNIALS 2021』のCulture x Business部門でグランプリ受賞。第18回日本e-learning大賞にて経済産業大臣賞受賞。東京都文化政策部会専門委員も務める。

https://www.inspirehigh.com/


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