Focus On
勝呂祐介
株式会社エリアノ  
共同代表 CRO
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or思いは堂々と貫き、圧倒的に突き詰めた方がいい。
「インタフェースの力で、テクノロジーの恩恵をすべての人へ」というミッションを掲げ、Eコマース全体にかかわるユーザー体験を再定義していく株式会社STRACT。同社が提供するショッピングアシストアプリ「PLUG(プラグ)」は、ECサイトで利用できるクーポン、キャッシュバック、最安値情報などを自動で発見・通知したり、蓄積する購買・行動データでパーソナライズを強化したり、ユーザーとEC事業者双方に価値をもたらすインタフェースとして機能する。
代表取締役の伊藤輝は、8歳より電子工作・プログラミングを始め、14歳から自作ソフトウェアの収益化、15歳からモバイルアプリの開発を始める。個人事業として開発していた音楽アプリのヒットを契機に、慶應義塾大学在学中の2017年、株式会社STRACTを法人成りにより設立。デーティングアプリ事業を上場企業へと売却後、2022年より「PLUG」を開発している。同氏が語る「技術への没入」とは。
インタフェースの可能性を追求するSTRACTは、向こう数百年続く会社として、人類を進歩させるようなことを成すためにある。そのために現在展開する事業は、「10年以内に2,000億円を調達できる企業にすること」を見据えた挑戦だと伊藤は語る。
「この会社が目指すところはビジョナリーカンパニーです。100年、200年と続く会社を目指していて、そのためにまず向こう10年の戦い方として『PLUG(プラグ)』という事業を展開し、10年後には次のインフラの社会実装に参入したいと思っています」
ショッピングアシストアプリ「PLUG」は、ユーザーとECサイトの間に立つ「エージェント」のような存在だ。通常は各ECサイトを訪れなければ知り得ないクーポンやキャッシュバック、最安値情報などを自動で発見・通知してくれる。
ブラウザ拡張機能を利用する同サービスは、ECサイト側にツールを組み込む必要がなく、あくまでユーザー側にインストールするだけで完結する点もシンプルだ。ブラウザ上で行う購買や購買検討に向けた行動を、まとめて最適化する。それにより、ECサイトの利用体験全体をアップデートしていこうとする。
「どうすれば10年という短期で数千億円規模の資金を調達できるかと考えると、既にマーケットとして成り立っていて、資金が集められる市場であることは前提になる。今のインターネット・ソフトウェア業界でも日本で時価総額3,000億円以上をキープしている会社は十数社しかない。なかでも弊社は『価格.com』『食べログ』などを運営するカカクコム社に注目し、同社のように購買の入り口となるサービスを、これからのモバイルネイティブかつデータとAIの時代に即したアプローチで提供していこうと考えたんです」
2022年3月の正式リリース以来、「PLUG」は累計150万ダウンロードを突破。週間アクティブユーザー数は55万人を超えている*(*2025年1月末時点)。さらに今後は、Eコマースの「エージェント」という概念に内包される、さまざまな機能をシームレスな体験として提供していくという。
「今はユーザーにとってお得な情報をお届けしていますが、PLUGアプリで商品検索・比較&購入を完結する『PLUGショッピング』、その先にある購入の決済を一元的にまとめる『PLUGあと払い』、旅行予約時のキャンセル保険や家電製品の修理保険など大きな買い物をより安心にする『PLUGインシュアランス』、あらゆる商品をPinterestのように保存しておける『PLUGキープ』など、幅広い領域に届く機能をリリースしていく予定です」
たとえば、Googleというサービスにメールやカレンダー、地図など数えきれないほどの機能が付帯しているように、同社はユーザーのEC体験をより良く変える新たなインタフェースを作ろうとしている。
「自分の人生を最大限かけたときに、僕はおそらくあと60年ぐらいしか生きないとして、その60年間でまだもう2つくらい人類は進歩しそうだなと考えています。何万年という歴史を持つ人類が文明を作ったのはたった数千年前で、ここ数百年間に至っては農業革命、産業革命、情報革命と爆発的に叡智が生まれている。LLM(大規模言語モデル)ですら3~4年前はなかったじゃないですか。たかだか数十年で圧倒的に生活習慣が変わるというすごい時代に生まれたことが、僕は奇跡だと思っているんです。これはもうやらない手はない。これを社会実装できれば多くの人々の生活を根本から変えるだろうということをやりたいと思っています」
目先10年のマイルストーンを越えた先、同社が見据えるのは宇宙・衛星通信の領域で次なるインフラを社会実装することだという(「PLUG」のロゴがロケットを模したデザインであるのも、そのためだ)。
偶然にも日本というガラパゴスかつ世界有数の経済大国に生まれ、外部から参入しにくい巨大な市場で戦えること。8歳からプログラミングを始め、最先端に触れる技術者として生きてきたこと。高校生からベンチャー精神に満ちた環境で働く機会を得たこと。これらすべてが奇跡であり、事を成すべき理由であると伊藤は考える。
STRACTは100年単位で戦う覚悟とともに、革新性ある事業を生み出していく。
STRACT「Company Deck」より
子どもの頃のたわいもない夢に過ぎないが、最初は大工になりたいと言っていた。自由に材料を選び、形を変え、組み合わせて一つにする。自分の手で何かを作り出す行為の面白さを教えてくれたのは、近くに住んでいた叔父だったと伊藤は振り返る。
「僕の家系は、曾祖父や祖父の代が大工だったんですよ。祖母の家も全部うちの叔父が一人で手作りした家で、幼少期は土日になるたび祖母の家に行く生活を送っていたので、ずっとそこの物置で叔父といろいろなものを作っていたことが、工作やものづくりを好きになったきっかけですかね」
幼稚園時代から作ってきたものの数は積み上がるほど多い。たとえば、自転車のタイヤに「ガチャガチャ」で出てくるカプセルをたくさんつけて、観覧車のようにしてみたこともある。夏休みの自由研究として提出するにしても、周りとはスケールが違うものを作っては楽しんでいた。
「うちの叔父は子どもがいないんですよ。結婚もしていなくて。だから、自分の姉の子どもにもう面白がっていろいろなことをやらせるから、僕も小学校低学年で電動ノコギリとかインパクトドライバー*を使っていたんです(*圧力で木材にネジを打ち込む電動工具のこと)。ほかにもニス塗りとか研磨とか、小学校低学年にしては結構いろいろやっていたかなと思います」
言われるがままに工具を使い、できあがったものを見せると周囲が思わず驚くようなものができあがる。もっと驚かせたい、もっとすごいものを作ってみたいとこだわりだすうちに、ついつい時間を忘れて手を動かすようになっている。
当時、好きなことに好きなだけ打ち込める環境があったのは、両親がともに自営業で共働きだったことも影響していたのだろう。放課後も土日も、空いた時間はひたすら叔父と一緒か、あるいは一人で何かを作っていた。
「最初はおそらくやらされている感じだったと思いますが、それが結局楽しくて、とにかく熱中度がすごかったですね。小学生だけど徹夜するレベルでやっていました。自分が作ったものを見せると、友だちや親や兄弟が驚くという部分も、今振り返ると、一つの熱中するポイントだったのかなと思います」
初めてプログラミングに触れたのは、8歳の頃だった。ネジを留めたり釘を打ち込んだりするだけでなく、モーターと電池を繋げて動かしたり豆電球をつけて光らせたりと、それまでの工作の延長から少しずつ電子工作の面白さに目覚めていった。
「家の中にある動くものをいろいろ分解してパーツを取り出すと、電池とモーターが出てくる。そういった興味関心から、最初はラジコンショップに行ってパーツを買ってみたり。『マイコン(マイクロコンピュータ)』という部品を買うと、ロボットを動かしたりすることができるのですが、その制御のためにプログラミングとかパソコンを扱うようになったのかなと思います」
市販の電子工作キットを買ってきて、説明書通りに作ってみる。一通り満足したら次第に部分的に切り出して、自分が作りたいものに応用していくことを考えるようになった。
自分の手で作れるものの範囲が広がると、日常生活の中で目にするものの仕組みも気になってくる。たとえば、インターフォンは一体どんな仕組みで動いているんだろうと疑問に思い、図書館で調べてみた。すると、電子回路や抵抗値(オーム数)まで本に書かれていると知り、早速メモしてパーツをショップで買い集め、実際に手元で一から構築してみたりした。
「今までは叔父も作れるものを触っていましたが、電子工作は周りにできる人が誰もいなかった。自分しかできないという領域にすぐ行けたので面白かったですよね。もちろん同級生もそういうことは当然やらない。当時は自由研究で嘘発見器を作ったり、当たると光るパチンコを作って持っていったりしていました」
自分で作ってみると、一見複雑そうに見えても意外とシンプルな仕組みで動いていると分かることがある。調べた情報を頼りに組み立てて、見た目も自分なりにかっこいいものに仕上げる。ものづくりに明け暮れる毎日は、それ自体が発見の連続で、いつまでも夢中になれるものだった。
作る手を止めない限り、楽しさが途絶えることはない。当時形成されたものづくりの精神は、その後の人生でも明確に自分の柱となっていた。
2-2. 純粋に技術を究める
小学校の後半からは家にパソコンがやってきて、学校に行かなくてもプログラミングができる自由を手に入れた。BASICやCなどコードを書くところからはじめ、ものづくりも本格的にデジタルの世界に足を踏み入れていく。中学に上がる頃には、すっかりWeb技術を使いこなすようになっていた。
「小学校の時から既にホームぺージを作ったり、BBS(電子掲示板)をPerlというプログラミング言語で作っては友だちに共有したりしていて、作ったものを人に広く使ってもらうという体験が面白いなと思っていたんです。その状態で中学に上がったので、中学校生活はもうひたすらプログラミングでしたね」
PHPを使ったソフトウェアやWordpressのプラグインのようなものを自作してインターネット上で公開したり、自分でアンテナサイトを立ち上げて運営したり、興味の赴くまま仕組み化を進めていると、中学生にしてはかなりの金額を稼げるようになった。
「稼ぐと言っても銀行口座は持っていないので、アドネットワークというバナー広告のようなもので収益化して、それをEdyのポイントに変換する機能があったので変換してガラケーにチャージしていました。Edyの残高で遊戯王カードを買って、リサイクルショップでお金にするみたいなことをしたり。かっこよく言うと"ビジネス"とも言えますが、要するに小さい商売をひたすらやっていたんです」
当時は自分が好きなことをやった延長に、しっかりお金が手に入るということ自体が面白かった。明確にお金を稼ぐことがモチベーションになり、一人でプログラミングを突き詰めていく。ニッチなIT技術に詳しいことで周囲からは頼られる機会も出てきたが、そこでは同時にコンプレックスのようなものも感じていた。
「まず人と少し違うなと自覚しはじめたんです。みんなが興味を持つことに僕は一切興味を持たないし、みんなが楽しいと思ってやっていることを理解できなかった。それに合わせるのも苦痛だし、自然に合わせられないから違和感がある。一緒に過ごす友だちはたくさんいたのですが、どちらかと言うと当時は孤独感も強かったですね」
人と違うことをやっているから「すごい」と褒められる一方で、その本質的価値まで理解してもらえているわけじゃない。葛藤はありつつも、やはり好きなことに没頭している時間は何ものにも代えがたく、高校は自由を重んじる校風の学校に進学した(公立にはめずらしく、学校のパソコンがすべてMacだったことも決め手になった)。
「やっぱり僕はコンピュータばかりやっていて。基本はチャイムが鳴ったら速攻自転車に乗って帰ってきて、汗だくで家の前のスーパーでコーラと60円ぐらいの特売お菓子を買ったら、夜中の2時までずっとプログラミングをするみたいな生活を毎日続けていました」
ちょうど時代はガラケーからスマートフォンへとシフトしつつあり、高校時代はスマホアプリを作るようになっていた。Pinterestで海外のかっこいいUIのアプリを調べ、それをトレースしながらひたすら作る。ほかにもプログラミング言語はPythonやJava、JavaScript、C++など、次々と新たに身につけていった。
「その頃になると、プログラミングコンテストやハッカソンの全国大会に出たりするようになっていて、自分のプログラミング能力というものが同世代でも負けないなという自負を持つようになったタイミングでした」
自信を持つこともあれば、落ち込むこともある。いずれにせよ全国規模の舞台に出場してみると、比較にならないほどの出会いがあった。ともにコンテストの決勝で対戦した相手とは、今でも親交が続く関係になった人も多くいる。
一人で孤独を感じていた頃よりも、ますますプログラミングが楽しくなっていく。加えて高校時代は実家から離れ、父の会社が保有する物件に1人暮らしをしていたこともあり、とことんプログラミングに打ち込める環境があった。
「誰からも干渉されずにひたすら自由でしたね。だから、高校時代はすごく成長したと思うんですよ。技術的にも成長したし、ビジョンとか自分の視座も上がったし。中学校の時のようにお金を稼ごうとか、周りの人を見返してやろうとか、そういうネガティブな感情よりも、目の前のプログラミングをもっと究めていくと、こんなに面白いことができるんだという思いになっていて、ものすごく楽しかったですね」
技術を突き詰めることで好奇心が満たされるだけでなく、新たな人や世界との出会いに繋がっていく。自分と同じように没頭している同世代は、ライバル心を燃やす存在であり、切磋琢磨する良き仲間でもあった。目の前の技術を究めた先には、きっとますます面白い未来が待っているのだろうと確信できていた。
高校時代、出場したハッカソンの舞台にて
プログラミングがビジネスに結びつくものだと教えてくれたのは、高校時代に偶然見たテレビ番組だった。どうやら社会にはベンチャー・スタートアップ企業というものがあるらしいと知り、ビジネスの世界に興味が湧きつつあった。
「テレビで大学生起業家特集みたいな番組をやっていて、プログラミングでプロダクトを作ってビジネスを立ち上げたり、いろいろな人の生活を変えていけるということを初めて知って。それを見て、『これぐらい自分でも作れるな』と思ったんですよ」
早速何かやってみたいと思ったが、ベンチャーやスタートアップといった世界については何一つ分からなかったので、ひとまず札幌にあるコワーキングスペースに行ってみることにした。
「そしたら高校生なんて来ないからびっくりされたんですよね。制服だから目立つし。フリーランスのエンジニアとかデザイナーとか、いろいろな大人の人と仲良くなって、名刺の渡し方を学んだりしながら仕事に混ぜてもらえたんですよ。そこである日、大学生ぐらいの男の人3人組にいきなり話しかけられて、『今度オフィスに遊びに来て』という話になって」
Webデザインの会社をやっていると話す彼らのオフィスに足を運ぶと、そこはボロボロのアパートの一室だった。下請けの下請けの下請けのような仕事だったが、誰もが名前を知る大手企業のWebサイト制作を手伝ったり、アパートに寝泊まりしながら夜な夜なプロダクトを考えたり、ほかにもIVSなどスタートアップイベントの映像配信を一緒に観たりした。
初めての社会経験を積ませてもらいながら、スタートアップのような熱気に包まれた日々を楽しんでいた。
「今までやってきたことは、お金を稼いでみたり、いろいろな人に使ってもらったりという経験で、じゃあその次ってなんだろうと思った時に、ビジネスは社会に大きなインパクトを与えられる、社会に対して冒険できたり貢献できるという次のステージが見えた感覚でした。これはおそらく面白いし、終わりがないと思ったんですよね。ずっと追っていられるなと思ったし、自分の若さがアドバンテージになりそうだなと」
高校3年生の時には、個人事業主として初めて自分の会社を登記した。スタートアップというものに出会い、大人に囲まれ、日本最大のハッカソンでは最年少で決勝進出もした。よりリアルにビジネスに対する手触り感や可能性を感じるとともに、根拠のない自信のようなものも生まれてくる。自分自身でプロダクトを生み出して勝負したいと、思いは強くなるばかりだった。
高校時代、さくらインターネットの田中社長と
高校卒業後は、知り合いから薦められた慶應義塾大学SFCへの進学を考えていた。学生起業家を多く輩出していることに加え、以前から関心のあったユーザインタフェース(UI)研究の第一人者である増井俊之氏のもとで学びたいと考えていたからだ。
「中学校の時からプログラミングをしてきたので、周りの人から『Facebookのアカウントを作ってほしい』とか簡単なことをよく頼まれていたんです。やり方を教えてあげるときちんとできるようになるし、これは分かりにくいだけなんだろうなと。インタフェースを分かりやすくしてあげたら誰でも使えるのになということは、ずっと思っていたことだったんです」
世の中には便利な技術があふれているが、どうやら一般の人の苦手意識や使いにくさから嫌厭されているものがたくさんある。それら技術の恩恵を、老若男女誰もが受けられる形で社会に実装できないかというテーマは、小中学生の頃から自分の中にあるものだった。
だから、自分で作るソフトウェアに関しても、一貫してシンプルで使いやすいことにこだわってきた。そんなUIについて、大学ではより深く研究したいと思っていた。
「UIについて調べるなかで、慶應義塾大学の増井教授の研究室が発表していた『GoldFish』という論文と出会って。どちらかと言うとそこではソフトウェアというより、実世界を巻き込んだインタフェース(実世界指向インタフェース)について語られていました。たとえばスマートフォンで写真を撮って、それを金魚すくいみたいにピッとパソコンに振りかざすだけで、データがパソコンの中にコピーされる。そんな風に実世界を巻き込んでコンピュータを動かすというアイデアで、技術的にはものすごく簡単なんですよ。これは新しいし面白い、世界が変わるぞと思ったんです」
いちいちクラウドにアップロードしたり、メールを送ったり、煩雑な操作も必要なく、ただ金魚すくいのような動作だけで済む。これだけ簡単であれば、子どもやお年寄りでも直感的に使えるし、忘れないだろう。これこそ自分が作りたいインタフェースだと運命的なものすら感じ、SFCを志望することを決めた。
プログラミング1本で勝負できるAO入試で受験することにして、志望理由書には「ICTの恩恵をすべての人が享受できるようなものを作りたい」と書いた。それは、現在STRACTが掲げるミッションとほぼ同じである。10年近く経っても思いは変わらない、間違いなく人生で追求すべきテーマだと信じてきた。
SFCの入学試験で書いた志望理由書
初めて足を踏み入れた研究室で、増井先生の第一声は「お風呂でプログラミングしたくない?」というものだった。
天井にはプラレールの線路が張り巡らされ、ぐるぐると車両が走っている。机の上にあるプラモデルのようなロボットは、おでこにカメラがついていて、OBがリアルタイムに遠隔で操作する「OB降臨システム」だと説明された。一見するとへんてこなものばかりだが、それはまさに実世界指向インタフェースの世界への手引きだった。
「最初の一発目で面食らって、ここで良かったのかなと少し悩んだんですよね(笑)。でも、その時先生が言いたかったことは、『実世界指向インタフェース』あるいは『ユビキタスコンピューティング』とも言われるもの、つまり常にどこでもコンピュータが存在し、かつ人間が意識していない状況こそが究極のインタフェースであり、コンピュータ環境なんだと。お風呂でプログラミングができるくらい、コンピュータが意識されないほど当たり前にある状態こそが究極のインタフェースだと、そういう深い話だったんです」
初日の衝撃も過ぎれば、研究室の環境にも慣れていく。UI研究の面白さにますます魅了され、どっぷりと浸かるように研究する生活が始まった。
「僕はもう井の中の蛙状態だったので、『俺こそが高校生最強のプログラマーだ』ぐらいの自負で来ていたのですが、やっぱり院生とかを見ていると技術力が段違いで、一から勉強し直しましたね。毎日研究室と図書室にこもって、コンピュータサイエンスや数学の線形代数を勉強し直して、大学2年生からはずっと研究室で寝泊まりしていました」
サークルにも入らず、一人で研究室にひたすらこもりつづける。キャンパスの立地は田舎だったので、夏休み期間中は食堂もやっていなければ近くにコンビニもない。仕方なく最寄り駅にあるコンビニで3食分の食糧を買い込んで、夜はそのまま机で突っ伏して寝たりしていた。
「大学では『MagicKnock(マジックノック)』というものを作ったのですが、これは机の上に貼っておくと机全体がタッチセンサーになるというプロダクトでした。リモコンだとボタンが多くて操作が難しい。でも、手の届くところが全部コンピュータになれば、手元を叩くだけでテレビをつけられる。これも作るまでにいろいろな研究を重ねて、ハードウェアもそうですし、ソフトウェアでも自然言語処理とか機械学習とか音響信号解析とか、そういったことを大学の研究を通じて体得していきました」
2017年当時、大学在学中に創業したSTRACTのオフィス
ひたすらアウトプットと研究に時間を捧げつつ、並行して個人で受託開発の仕事をしたり、アプリ開発も進めていた。
「研究とは別に、まずは自分のプロダクトでしっかりビジネスを当てるということは目標としてありました。当時は研究の中で音楽の推薦エンジンを作りたいと思っていて。音楽再生アプリって、一度バラードを飛ばしているのにもかかわらず次もバラードを流してきたり、もっと精度を高められるなと思って、音楽視聴データを集めるために音楽再生アプリを作ったんですよ」
3日ほどで作ったAndroidアプリだったが、Google Playストアに出すと翌朝3,000ほどのダウンロードがあった。広告も出していないにもかかわらず、みるみる数字は伸びていき、最終的に600万ダウンロードを記録する大ヒットアプリになる。大学3年になる頃のことだった。
「ポイントとしては、誰でもすぐに音楽が聴けるように無駄な導線を全部省いて、お年寄りでも分かるようなシンプルな作りにして出したんです。そうしたらGoogleのアルゴリズムってユーザーが使いつづけている時間や起動率といった指標でストアの順位が決まると言われていて、その評価に繋がったようで、何もしなくても音楽アプリの1位という状態が4年ぐらい続いたんです」
大きな収益が入ってくるようになったので、大学4年の時にはSTRACTの前身となる会社を作った。得られた潤沢なキャッシュを使ってエンジニアやデザイナーを業務委託で雇いつつ、新規のアプリ開発にも惜しみなく投資していくようになる。そのなかで生まれたものの1つが、「dately」というデーティングアプリだった。
「これはローンチしてからTechCrunchとかにも載ったし、初速も良くてかなり伸びたんですよ。面白いなと思ったのですが、マッチングアプリの勝ち方ってものすごくシンプルで、ユーザー数なんですよね。どれだけ洗練された機能やコンセプトを作ろうが、ユーザーがいるかどうかが重要になる。今後広告費をたくさん打っていかなければいけないというフェーズになって、2019年に上場企業に売却することにしました」
プロダクトとしては区切りをつけることにして、改めて自分が本来作りたかったものに立ち返る。思いを馳せたのは、やはりインタフェースの可能性だった。
果てしなく長い人類の歴史のなかで、さまざまな発明が社会を進歩させてきた。そのなかで自分が何を成し遂げたいかと考えると、新たな技術そのものを生み出すよりは、既に世の中で発明された素晴らしい技術の数々を、誰でも使いこなせる形で社会実装する(インタフェースを作る)ことでインフラを構築していきたいと思えた。
そのためには、やはり資金がいる。「どうすれば10年以内に2,000億円調達できる企業を創れるか」という問いを起点に、「PLUG」を開発。ベータ版からの試行錯誤を経て、2022年3月に正式版リリースへと至った。
2022年7月、高校時代から憧れたIVS(IVS2022 LAUNCHPAD NAHA)へ出場
人生をかけて何かを成し遂げたあと、あえて再びスタート地点に戻ってゼロから新しい山に登ろうとする人がいる。同社には、いわゆる「2周目」の人材が多数集まりつつあるという。
「やはり皆さん、この事業のTAM*の大きさに惹かれてジョインしてくださる方が多いです。Googleやヤフーのように大きく、国内だけでも1兆円規模のサイズがある。かつ、ここからグローバルに展開すればさらに広げていける。そういった市場を狙えるチャンス自体がそう多くないですし、そこにビジョンもある。登るにはものすごく珍しい山だと思います(*Total Addressable Marketの略。ある事業が獲得できる可能性のある最大市場規模のこと)」
ある人は一つの領域でトップを取るサービスづくりに携わり、ある人はスタートアップの創業期から上場を経て、1,000名を越える組織の役員を経験している。
一度高い山に登りきったことがあるならば、年齢的にもタイミング的にもより高い山に登りたいと思う人が多いだろう。STRACTが相対するビジョンや市場は、それに値する稀有なチャンスに恵まれていると伊藤は語る。
これまでは競合優位性を保つため比較的ステルスで動いてきた同社だが、2025年2月にはシリーズA 2ndクローズの資金調達を完了。累計調達額は14.1億円となり、採用活動にもアクセルを踏むフェーズとなっている。
「今はピラミッドの1段目を作っているメンバーを採用していると思っていて、30人まではそういうメンバーで固めたいと思っています。1段目を決めると、あとから大きくできないじゃないですか。つまり、1段目を作るとピラミッドの大きさが決まるんですよ。100年、200年続くビジョナリーカンパニーの土台として、最初の1段目はものすごく重要であり、絶対に妥協できないと思っています」
各分野のプロフェッショナリズムと息の合ったチームワーク、そして共有されたビジョンの存在があってこそ、革新的と評される仕事は生まれる。100年、200年先の未来を見据えるSTRACTには、そんな挑戦の意義を信じるメンバーが集まり、熱狂を創り上げている。
2025.3.13
文・引田有佳/Focus On編集部
好きなことを好きなだけ貫くのは、決して楽な道のりじゃない。普通の枠組みから外れることで、(善意と悪意を問わず)何かを言う人がいるかもしれないし、いつも理解してもらえるとは限らない。それでも構わず突き詰めることで、その領域に対する揺るぎない自信と自分だけの深い洞察が得られる。
信念を持って圧倒的にやることで初めて得られるものがあるのだと、伊藤氏の人生は物語る。堂々と胸を張れるのは、それだけの努力や情熱を捧げてきた自負があるからであり、誰にでもできることじゃない。
全てを投げ打ってでも、絶対に成し遂げたい未来がある。そんな人の熱狂は、どこか理由もなく人を魅了する部分があるのではないだろうか。それはきっと、同じように自分なりの信念に熱狂した経験がある人ほど、大きな共鳴を呼び、一つのムーブメントと化していく。だから、STRACTには「2周目」の人材が集まり、事業と組織を力強く牽引していくのだろう。
文・Focus On編集部
▼コラム
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
この時代に生まれた奇跡と、挑戦すべき理由|起業家 伊藤輝の人生に迫る
株式会社STRACT 伊藤輝
代表取締役社長
1995年生まれ。北海道出身。ソフトウェアエンジニア。8歳より電子工作・プログラミングを始め、14歳から自作ソフトウェアの収益化、15歳からモバイルアプリの開発を始める。個人事業として開発していた音楽アプリのヒットを契機に、慶應義塾大学在学中の2017年、株式会社STRACTを法人成りにより設立。開発したアプリはシリーズ累計国内500万DLを達成。事業売却後、2022年よりショッピングアシストアプリ「PLUG (プラグ)」を開発。大学の研究室ではユーザインタフェース(実世界インタフェース)の研究に従事。IoTデバイス「MagicKnock」を開発。