Focus On
萩生田愛
AFRIKA ROSE(株式会社Asante)  
Rose Stylist/代表取締役
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or「日本の将来は明るい」と子どもたちが言う。そんな社会を実現するために、「官」と「民」の力、どちらが欠けても足りない。
国や自治体、民間企業の連携を推進していく株式会社Publink。人や情報のマッチングや、両者のシナジーを活かしたプロジェクト組成をサポートする同社では、官民が一つのチームとして日本を良くしていけるような社会をつくっていく。東京大学から経済産業省官僚というエリートキャリアから一転、エンジニアとして起業したのち、動物医療領域のスタートアップを共同創業した。異色のキャリアを歩み、現在Publink代表取締役を務める栫井誠一郎が語る「進化しつづける生き方の原点」とは。
目次
官僚でも、エンジニアとして起業したっていい。人見知りでも、テニスサークルに入っていい。物理学の研究をしていても、経済産業省に入っていい。知識や経験なんてない。けれど、ゼロから何かを始めるのに臆することはない。跳ね返すために必要なことは、目標に向かって行動することと実績をつくること。ただ、それだけだ。
20年後の日本の未来に貢献すべく、国と民間の「繋ぎ」となっていく株式会社Publink。官民が連動するプロジェクト創出のためのコミュニティ構築や、双方のニーズに応える人や情報の繋がりをコーディネートしていく同社では、官と民が一丸となりこれからの日本をつくる、新しいムーブメントを起こそうとしている。
同社代表取締役の栫井氏は東京大学工学部を卒業後、経済産業省(国家Ⅰ種)に入省した。IT、人材育成、研究開発、経済政策、法律改正など、約6年間さまざまな分野を担当するなかで、官と民の連携の重要性を痛感。キャリア官僚としての経験を活かしながら、国と民間の橋渡し役になることを志すようになる。民間でも実績をつくるため独立、エンジニアとしてシステム受託開発会社の起業を経て、2013年に獣医師向けの情報インフラをつくる株式会社Zpeerを共同創業した。2017年同社を退職し、翌年から、かねてより抱いてきた志を実現すべく株式会社Publinkとしての事業を本格的に始動した。
「挑戦していくなかで、失敗と感じることや、壁にぶち当たることはよくあります。ただ、それをマイナスと受け取るのではなく、それは『現状が見える化された』ということです。つまり(挑戦に必要なことは)前進でしかないと前向きなモチベーションで取り組むことですね」
ゼロからのスタートを恐れず、いつも道を切り拓いてきた栫井氏の人生に迫る。
官民のあいだで人材の流動が当たり前となった未来。栫井氏が描く、遠くない将来の日本の姿がある。そこでは、公務員の新卒至上主義は無くなり、中途採用の重みが増し、公務員を退職した人の「出戻り」も増えてくると栫井氏は語る。
大企業とスタートアップ企業のオープンイノベーションのように、官と民がシナジーを発揮しあう社会の実現を目指し、長期的な仕組みづくりをしていく株式会社Publink。そのために同社ではまず、プロジェクトレベルでの官民連携を支援する。政策と事業の両方を理解している栫井氏のような人材のことを同社では「パブリンガル」と呼び、官民双方の事業などに派遣、サポートし成果を積み重ねていく。
「僕はこの『パブリンガル』を一つバズワードにしていくことによって、世の中で『そういうキャリアってかっこいいね』と言われるようにしたい。そうなったら、人の循環に向かっていくのではないかなと思っているんです」
「パブリンガル」と呼ばれる彼らが一つのロールモデルとして認知されていくことで、それに追随する世の中の流れが生まれる。人材が官と民を相互に行き来するようになれば、それぞれの感覚が分かる人が増え、さらに大きなシナジーが生まれていく。同社では、そんな未来を創ろうとしているのだ。
官と民が一体となり、次の社会をつくっていくこと。その必要性は、かつて経済産業省で官僚として働き、民間での起業経験も持つ栫井氏自身が痛感してきたものだった。
「たとえば、クールジャパンとか分かりやすいと思うんですけど、『こういうものが日本の強みで、海外に対してこういうメッセージを国全体で売り込んでいきますよ』っていうことにもっと国がフォーカスしてくれたら、民間企業としてもそれに合わせたブランディングメッセージを考えたり、投資も太く長くやりやすくなるんです。でも、実際は国が何を考えていて、何をしているのか分からないと思われることも多いと思います。『クールジャパンって何なんだろうね』となっていたら、民間としては国に頼らないでやらざるを得ないじゃないですか。それって、チーム力が出てないなと思うんですよね」
国家機関と民間企業をチームと捉えるのであれば、打ち出す方針が「絵に描いた餅」のように浮いている状態では、団結して同じ方向に向いて力を発揮することも難しくなる。国がどんなことを考え、どんな制度を作るのか。それによって、民間企業はどんな影響を受け、どう連携していけるのか。日本が団結して進むためには、官と民のあいだの翻訳作業が必要であると、栫井氏は官民双方での活躍のなかで実感してきた。
しかし、翻訳も難しい作業である。片言の英語と日本語でのコミュニケーションに限界があるように、片方に属し、もう片方に単に接点があるだけで成立するものでもない。そこには、双方の感覚を知っている人でなければ把握できないことがある。英語と日本語、二カ国語を使いこなし架け橋となることのできるバイリンガルのように、言葉や文化、行動原理、すべてが異なる二つのセクター間で価値貢献できる人々が求められているのだ。
官から民へ、あるいは民から官へ。優秀な人材が循環していく社会では、これまでにない新しいキャリアの歩み方が生まれるだろう。たとえば、20代は民間企業で働き、世の中の動きを現場で感じながら専門性を身につけたり、自分を高めて稼ぐことにフォーカスする。そうしてスキルを培った人たちが30代40代になり、年収は下がってもいいので公共のために何か残したいという思いを持ったとき、中途人材として官僚になるといったものだ。
「30代40代になって、次世代のためにとか、世の中のために大きな価値を残したいと思ってくれて、『給料は下がってもいいから公務員になりたい』という人を、国として適切に評価していけるような組織づくりをしていけたらいいと思うんです」
入札のように受発注の関係ではなく、大企業同士の協業のようにお互いの価値を提供しあい、高めあう関係性を官民で築いていく。そのためには、そこで働く人のための新しい環境や仕組みづくりが不可欠である。Publinkは国と民間をつなぐ架け橋として、日本に新しい風を吹き込んでいく。
同社のロゴには、「セクター間を繋げる架け橋としての存在になる」「セクター間の流動的な交流をグラデーションで表現」「1つ1つのプロジェクトを重ねて1歩ずつ進んでいく」というコンセプトが掲げられている。
もしかしたら死んでいたかもしれない人生だった。生きるか死ぬかの経験が、生まれてすぐの小さな子どもに試練として訪れた。体重1500gという極小未熟児として生まれた栫井氏。当時の医療技術では、生存率は50%。もし命があったとしても障害が残るかもしれない。そんな命の瀬戸際から、奇跡的に健康体として成長することができた。
授かった命への感謝の気持ちとともに残ったのは、「現状で満足したら終わり」という価値観だった。危機的状況から健康体で育つことができた経験は、幼い栫井氏の意識下に、日々進化しつづける必要があるとメッセージを残した。納得できるような人生を生きていくためには、現状に満足している暇はない。せっかく授かった命であるからには、するべきことがある。
「進化しつづけないと絶対嫌ですね。何か新しいものを身につけたり、切り拓いたり、実績を作ったりみたいなことがないと。たとえば、こういうインタビューで語れるものを1ヶ月に2個台詞を増やすとか」
栫井氏は常に進化しつづける必要があった。命をもって生まれることができたのだから、何かしつづけたい。そして、何かを成し遂げたい。
生まれた家系を振り返ると、父方も母方も、社会のために何かを成した人が多くいた。母方の血筋を辿れば、カリフォルニアのワイン王ともいわれた長澤鼎(ながさわかなえ)氏。父方の血筋を辿れば、鹿児島のとある温泉街で町長を務め、当時地元でカリフォルニア移民の立役者となった栫井栄吉氏がいた。それぞれが自分なりの領域で、何かを成し遂げている。
「そういう偉大な先祖がいると、じゃあ自分は何ができるんだろうって考えるようになったんです」
父も祖父も曾祖父も、それぞれ全く違う領域で活躍していた。自分には何ができるのか。何を成し遂げるべきなのか。栫井氏はその答えを探し求めながら、進化しつづける生き方を選択してきた。
生きている限り、進化しつづけたい。そんな栫井氏が、父方の曾祖父から受けた影響は大きい。鹿児島有数の温泉街、指宿郡に位置する頴娃(えい)町という土地で、栫井氏の曾祖父は町長を務めていた。
第二次世界大戦後の荒廃した日本で、誰もが貧しい暮らしを強いられていた時代。当時の人々は生活の希望をはるか遠くの新天地・カリフォルニアに求めた。しかし、移民の許可証を発行してもらうには、災害などで家を無くしたなどの理由がなくてはならず、ただ戦災により貧しいだけの市民は、海外へと移住することはできなかった。
「当時、家はあったけどただ貧しいだけという人たちが、いろんな町長さんに掛け合ったらしいんですけど、みんな『偽造はできない』と断っていたところを、ひいじいちゃんは『じゃあ俺が一肌脱ぐよ』と偽造書類を書きまくって、みんなをカリフォルニアに送りはじめて。そこから、ほかの町長さんもあとに続いた、というファーストペンギン的な話が残っているんです」
その後、カリフォルニア移民の立役者となった曾祖父のもとには、移民先で財を築いた人々から感謝の印に石碑が送られていた。町役場の裏にたたずむ、大人の背丈ほどもある長方形の石碑には、曾祖父の功績が刻まれている。
自分が生まれ育った土地にたたずむ石碑。そこにつづられた文字を、栫井氏は小学校3年生のころから読んでいた。そこには紛れもなく、たくさんの人の感謝の思いが込められていた。そしてその感謝の対象は、自分が血を引く先祖である曾祖父その人だったのだ。
「そういう人はまさに日本のためなのか住民のためなのか分からないですけど、本当にみんなのためっていう熱い志を持って行動して、これだけ多くの人から感謝されるってすごいことだなと思いました。やっぱり、かっけーなと思うんです」
人々から感謝され、子孫からも尊敬されるような功績を残していた曾祖父・栫井栄吉。父も叔父も、尊敬する曾祖父の「栄」という名前を、どちらが子どもにつけるかで取り合いになったほどだという。
古い時代から残りつづけるものに、意味があるなんて知らなかった。そう考えると、どこかの公園にある何でもない石碑すら、いつもと違って見えてくる。たくさんの人の心が込められ彫られた石碑の意味を知ったとき、それが自分と血の繋がった人が対象となるものであることを知ったとき、栫井氏の価値観が変わった。
誰もがやらなかったことを成し、後世に残るような形で感謝されること。そんな生き方がかっこいい。いつしか栫井氏は、死ぬときに100万人に感謝されながら死にたいと考えるようになっていた。
小さいころより偉業を成し遂げる身近な人から大いに学び、自分を進化させるための糧としてきた栫井氏。幼いころの教育では、「自分で考えること」が重視されてきた。開業医だった父は昔からたくさん本を読んできた勉強家で、幼い栫井氏に絶えず考えさせる問いかけをしてくれた。
「たとえば、水車ってあるじゃないですか。あれって大きい水車と小さい水車どっちがたくさん水を運べると思うかって、急に聞いてくるんですよ。『意外と小さい水車かな』って僕が答えると、なんでって必ず理由を聞かれて。それで『水の量は少なそうだけど、早く回りそうだから』って言うと、『おお、いいじゃん』って言ってくれるんです」
祖父からは「不動産は賃貸と購入であればどちらが得であるか」と問われ、簡単な算数で答えが出ることを教えられた。家庭内で問われるものには、いつも「数」がついてきていた。だからこそ、栫井氏は自然と「数」について考えを巡らせるようになり、その世界に魅了されていく。
家族で外食に行くと、メニューに載っている商品の値段を合算するといくらになるかを計算して周囲を驚かせるほど、数字が好きだった。
「幼稚園のとき、数字の大きさの単位を『万』まで親に教えてもらったんですけど、それより大きな数字を表現する場面がきっと必要だと思って、友達とその表現の仕方を俺たちで考えようみたいなことをやっていたんです」
聞いたことのない新しい言葉で、未知の数字を創造することが楽しかった。それは子どもながらに、「数」へのあくなき探求心だったのだろう。小学一年生のときは、パズルの裏に書かれた数字を計算すると位置が分かることを発見し、パズルを裏返しで完成させる遊びを編み出したこともある。計算をすることで、絵を見なくともパズルを完成させることができる。数字と現象は表裏一体であった。
「今思うと何がおもしろいのかよく分からないですけど、学校の図書室で国勢調査とか、ぱらっと見て『人口の多い町、おー』とかやってましたね(笑)。たとえば、自分が住んでた千葉県から小6で引っ越して東京に移ったのに、市区町村の人口が減ったとか。数字は好きなんだと思います。数字の表面的なことじゃなくて、数字を支えてる何か意味だとか背景だとか」
数字には、その数字たる意味や背景がある。日頃父や祖父から問いを与えられ、思考してきた栫井氏だからこそ、その事実に夢中になった。数字を支えている意味や、その背景まで考え、自分なりの答えを探求する。進化を続ける栫井氏の素地は、そうしてつくられていった。
祖父の生き方も栫井氏の中にある。最も尊敬する人物であると敬する祖父は、第二次大戦中、優秀な航空エンジニアとして航空機開発の最前線で活躍し、戦後は起業家として地元鹿児島で会社を経営していた。一時期は従業員数800名規模の企業に成長させ、地元でも有数の財閥グループを築いた名士だった。
「かっけえなと思いましたね。実際会社の従業員の人たちが、いろいろ雑談している話を聞いていたんですけど、祖父ってすごく尊敬されていて。1990年とか昔から『必ず上司と部下はさん付けで呼び合いなさい』という社内ルールがあったりとか」
ゼロから起業し、家族のような会社を創り上げた祖父。1人1人を尊重し「さん付け」で呼び合う組織をつくっていた。お互いを人として認識しあう祖父の会社では、親子2世代で社員として働いてくれている人もいた。
「その人たちは人生を捧げてくれているのだから、人生を支える義務がある」
小学生の栫井氏に、祖父は会社の在りようを教えてくれた。実際、祖父が社長職についていた間は、1人もクビにした従業員はいないという。家族のクビは切れない。祖父はいろいろな人の思いを受け止める人だった。そんな祖父の背中を見て育った栫井氏も、さまざまな人の思いを受け止めていきたいという思いをもつようになった。
人との関わりを教えてくれたのは祖父だけではない。小学3年生のときには、母から、喧嘩のときに持つべき視点について教えられた。
「喧嘩してるときには必ずそれぞれの気持ちに立って、考えてから判断するようにしなさいって言われて。それで絶対的な正しさとかないんだなって、小3くらいのときに気づけたことがものすごく大きくて、そうすると人に興味をもつじゃないですか」
より多くの人と繋がりをもち、その多くの人の思いを受け止められるよう進化を続ける。そうして、死に際には100万人に感謝されながら死んでいきたい。「あなたがこの世に生まれてくれたおかげで、100万人が幸せになれたよ、ありがとう」そんな言葉をかけられながら死にゆくことができれば本望であると、栫井氏は語る。
生きている奇跡を実感しているからこそ、そして尊敬する祖父の生き方を見て育ったからこそ、栫井氏は人との関わりを、人の生を大切に生きるようになっていた。
祖父の家の庭(2000坪)にて、祖父母とともに。
大きな岩や、それに負けない生命力を持つ木が好きな祖父だったという。
かくいう栫井氏にも、黒歴史と語る過去がある。中学時代のことである。
親が選んだ進学塾や受験勉強、小学校までは誰かがやるべきことを決めてくれていた。与えられた課題をこなせば「進化」することができた環境から一転、中学受験を経て入学した中高一貫校は自主性を重んじる校風だった。言い換えれば、自主性がなければ何もできないという環境であった。
身体が弱く、スポーツは全くできなかった。勉強はサボり、成績も学年で下から5番目くらい。強制されるものは何もない環境で何もしなかった結果、当時栫井氏はいわゆるスクールカーストでいえば最下層にいる生徒だった。
「ひたすら塾はサボって休んで、ゲームセンターに行ったりとか。誰からもそんなに強く文句も言われなかったし、言われてもそんなに気にしていなくて、どんどん駄目な自分にしちゃってたんですよ」
勉強にもスポーツにも向かうことなく中学時代を過ごした栫井氏は、学校の中で存在感を放つこともなかった。しかし、高校1年生にもなると、そんな自分の現実に悩みはじめる。気がつけば、祖父の背中を見て思い描いていたような100万人に感謝される理想の死に方とは、ほど遠い状況だった。
「理想は追求したい派だったんですよね。ずっと追いつづけていたので、何か嫌だと。(本当は)友だち常時100人ほしいとか、そっちのタイプだったんです。さみしがり屋だったんですよね。いろんな人と仲良くして、その人たちを受け止めていきたいっていう感覚のなかで、そこからほど遠い状態にいるっていうのが、自分の中では大きなストレスになっていたんです」
友達は何人かいたが、いつも大きな集団の中で孤立し、周囲の同級生や先生からも遠巻きにおかれる寂しさのようなものがあった。どうにか理想の状態を追求すべく、一年間悩みに悩んだ結果、栫井氏のなかで一つのひらめきが生まれた。
「『周りの人に好きになって欲しいって思ってるけど、その前に自分が自分を一番好きになってないじゃん。そのくせに他人に好きになってもらおうなんて虫がいいよね』と。じゃあ、自分が何で自分を好きになれないのか考えて、それを直そうみたいなことを何故かひらめいたんです」
生まれてから常に進化しつづけたいと願う心が導いてくれたのかもしれない。周囲に好きになってもらえない理由は、自分自身にあった。心のどこかでは、現役で東大くらい受かってやると思っていたくせに、そこに対して何も努力もしていなければ、結果も出していなかった。理想に反し中身の伴っていない自分を、好きになれるはずもなかったのだ。
心を入れ替え、本気で勉強に取り組む決意をした栫井氏。親に頼んで、ハードな塾に週6日で通わせてもらった。学年で下から片手で数えられるほどの順位だった成績は、2年後には東京大学に現役合格を果たすという結果にまで繋がった。
「死ぬほど後悔して、脱皮して、自分を好きになるためっていうモチベーションで自分からようやく行動しだすようになって、そのときに自分を変えられるみたいな経験したんですよ。そうすると、ほんと周りの見る目も変わってきて、『あいつ頑張ってるやつだよね』と言われるようになったし、音楽祭とか文化祭のときもリーダーのような役割に推薦してもらえるようになって。昔の自分なら考えられないですね」
自分自身を好きになるために、自分を変えることができた。実績を残すことができた。そしてそこには、周囲の評価もついてきた。勇気をもって踏み出した結果得られたものは大きく、自分を進化させることができた。その時の快感が、今でも忘れられない。
勉強に励み、東京大学に合格することのできた栫井氏は、次なる挑戦へと踏み出していく。
社交性ゼロだと自覚していたからこそ、交流が必要であると考えたテニスサークルに飛び込んだ。学業面では、大好きだった数学の世界をつきつめるべく、量子力学の研究室に所属。ノーベル物理学賞を取るような研究者を志し、寝袋とカップラーメンを研究室に持ち込んで寝泊まりするほど研究に没頭していた。
当初は研究者を目指していたが、卒業後の就職先には経済産業省を選んだ。理系の研究室から一転、マクロ経済の政策をつくるという、畑違いのポジションへ飛び込んだのだ。
「『ずっと大学にいて研究者を目指すよりも、一度社会に出て、まずは世の中の仕組みを知った方がいい。大学はいつでも戻れるのだから』と父に言われたんです」
理系の研究室では周囲の友人はメーカーに就職する人が多かったが、栫井氏は、世の中をよく知らないうちにその後のキャリアが限定されてしまうことはリスクだと考えた。その点、経済産業省では担当する業界を1、2年ごとに代わっていくので、さまざまな経験を積むことができる。
「経産省ではフェアな立場にいながら、いろいろな業界の人と付き合っていくことができる。そのなかで、本当に自分が官僚でいいのか、こういう業界のこういうポジションがいいのかとか分かるんじゃないかなと思って。それを含めて社会を知って、人生の選択を先送りできる。賢く先送りできるならその方が良いと思ったんです」
各省庁の説明会では講義形式がほとんどであるなか、経済産業省だけはグループディスカッションの形式を取り、個人の意見の発信を大事にするようなプログラムが行われていた。一対一で質問に答えてくれる現役の職員も、熱意を持って日本の未来を語ってくれる優秀な人ばかりだった。人への関心が強かった栫井氏だからこそ、社会に向けて熱意をもつ人たちの存在に強く強く惹かれていた。
「好奇心ですね。官僚って世の中でこんなに叩かれているのに、実際には優秀な人たちが夜中まで働いて、国を動かしている。『この世の中の報道とのギャップって何?』みたいな。好奇心はもともと強くて、研究していた物理もちょっとした違和感をどう追求するかみたいな学問だったので、同じく感じた違和感の正体を知りたいと思ったんです」
何もないゼロの状態からのスタート。新しい一歩を踏み出すにあたって、リスクを伴うように思える挑戦も、どれも怖くはなかった。かつての経験と同じで、むしろそれによって新しい自分が出てくることもあるのだから、やりたいことならどんどんやればいい。どんな環境であっても、自分で自分を変えることができる。だから、物理の研究とかけ離れたように思える世界でも、迷わず飛び込んでみようと思えた。
ゼロの自分から飛び込むことは、何も怖くない。将来自分が成し遂げる何か。社会に向かい、歩みを進める。そこに至る道を、栫井氏はいつもそうして切り拓いてきた。
新卒で官僚になった当時は、不純な動機だったと振り返る栫井氏。成長したい、好奇心を満たしたい、世の中を広く見た上で一生コミットできる仕事を選びたい。すべては自分自身のため。そんな気持ちばかりが先行し、国のためになんて思いは1ミリも持ちあわせていなかったという。
けれど、経済産業省で働いた約6年という歳月は、栫井氏の思いに変化をもたらした。そこにいる人たちは、誰もが社会の未来を当たり前に考えていたのだ。
「多くの人の感覚からすると国ってコントロールできなくて、国から与えられているなかで自分はどう生活するかと考えるじゃないですか。官僚は一人一人が当事者意識を持ったなかで、この国をどうしたいかを考えるんです。たとえば電気代ひとつ取ったって、『電気代最近高くなったね』って発想はありえなくて、『電気代って長期的にどうあるべきだと思う』っていう発想なので、スタートが違うんですよね」
国の未来を自分事で考える優秀な人々が、昼夜を問わず必死に働いている。国を良くするため、その真摯な思いを胸に、社会を変えようと奮闘している。しかしながら、「日本はもう長期的に衰退する」といった悲観論までが叫ばれる世の中も目にしていた。
「(官僚として働きながら)どうやったら国がよくなるのか考えたときに、国と民間っていう現場が上手く連動していないと、簡単には世の中変わらないなってすごく思ったんですよ。国は法律とかを作れるんですけど、その法律に乗って本当に世の中が動くには、民間の活動が連動しなきゃいけないんですよね」
国の将来を本気で憂う官僚の仲間たち。彼らの描くビジョンを実現していくためには、民間との連動が欠かせない。日本をもっと良くするために、官と民をつなぐ新しい仕組みづくりが求められている。優秀な彼らの力を最大化するためにも、組織や環境を変える必要があると考えた。
世の中を良い方向に変えるムーブメントを作っていきたい。行政と民間の効果的な連携を推進していく、官と民の架け橋としての役割を担っていきたい。それは、第三の公共という選択肢だった。
新たなる理想の実現に向けて、元霞ヶ関キャリアという自身の経験やネットワークは活かすことができる。しかし、世の中でより多くの人に目を向けてもらい、共感してもらうには、民間のなかでもある程度実績を残す必要があると考えた。自分がそこまでレベルアップする最短ルートとは何か、栫井氏の心に浮かんだのは、独立起業という結論だった。
経済産業省で働いて6年、新たなるゼロからのスタートを切る、決意のときだった。
官僚時代に得られたものは、人生をかける志だけではない。民間企業で働く際にも役立つ、多くのスキルやマインドセットを体得することができた。
「経産省にいたなかで身についた能力で、『アドリブ力』ってすごくあるんですよ。それこそ1、2年目ってどんどん部署が変わって、業界も全然関係ない部署にいくなかで、1人の代表者として大企業の役員クラスにプレゼンしないといけない。いきなりゼロから新しい企画に参加して、そのなかで急速にキャッチアップして、アドリブ力を活かしながら柔軟に対応する、それってベンチャーマインドと似ているなと思って」
配属1年目だとしても、自分が信じる社会の姿に向けて意見をまとめる。社会を支える大企業の役員にすら語ることのできる力を培ったことが、スタートアップ企業で社会を変えていく説得力へと繋がっている。
自らが信じるものの大切さ、それは栫井氏が経済産業省を退職するときもらった言葉でも再確認されたものだった。
「いろいろな人からいろいろな言葉をもらったんですけど、同期の一人にもらった言葉の一つで、『初心を忘れないでね』と言われたんです」
官僚になるということは、公のための組織に入るということ。そこに対して自分がどう向きあうか、官僚になる人であれば少なからず意識する。その心、国に対しての気持ち、自分の初心に対し、官僚を離れ起業したあとも向き合いつづけることが大切だと、栫井氏は気づかされた。
「全然違う職場に移っても、ゼロにリセットされるのではなくて、掛け算にしたいじゃないですか。それをするための連続性、そこって最初からの初心を忘れないで、軸を貫くってことだと思うんです」
新たな環境で道を拓こうとするとき、挑戦をするにしても、やみくもに手を出せば良いというわけではない。一つの軸があり、そのなかでいろいろな掛け算になることをやってみることが大切だ。その際、自分が生きてきた軌跡にある初心や軸といったものに立ち戻ることも欠かせない。
「たとえば、自分が何を成し遂げたいか、何をするとワクワクするか、立ち止まって考えるときがあるじゃないですか。そういうときは(同期にもらったその言葉を)思い出します。立ち止まる時間は3時間くらいですけど(笑)」
信じているものが見えなくなったときや、自分の方向性に悩んだとき。直感を信じることで、なんとなく大事だと思うものを選び取る。初心に立ち返り、自分に問いかける。その方向に向かう自分のことを、本当に好きといえるだろうかと。
経済産業省で培った心の在り方が、社会を変えうる力に変わっていく。
官僚として働きはじめて1、2年目にお世話になった経済産業省の同じ課のメンバーと。
栫井氏の社会人としての出発点となった思い出深いチーム。
官僚を辞め、民間で起業する。ある程度世の中に認められる実績を残してから、官と民の橋渡しとなる仕組みづくりに貢献したい。
描く理想への最短距離は、とにかくやってしまうことだった。ゼロからプログラミングを勉強し、システム受託開発を営む企業を立ち上げた。1年目はエンジニアとして、翌年はプロジェクトマネージャーとして仕事を回せるようになった。
「最終的に官と民の架け橋を生み出す経営者になる、世の中にインパクトを与えたい。やりたいんだったらさっさと起業しようと思ったんです」
ちょうどそのころ、社会人と学生の交流会である「クロスメンターシップ」で運命的な出会いが訪れる。席を隣にしたのが、のちにZpeer共同創業者、COOとなる藤本氏だった。その場で意気投合した2人は、1週間後には共同創業の準備をはじめることとなる。
藤本氏の人柄、動物医療領域における情報インフラを担うというZpeerのビジネスモデル、国と民間が連動する新しい可能性。栫井氏がそこに飛び込むに足る理由がそろっていた。
「民間として動きながら、現場に対して本当に良い影響を与えて、世の中を良くしていける。民間だけどパブリックなもの(『第三の公共』)って絶対あるよなと思っていたので、Zpeerの事業構想にはそういった可能性がすごくあると感じたんです」
2013年に設立された株式会社Zpeer。同社のサービスは、日本のペットの獣医師の過半数が登録するまでに成長した。事業として成立するだけでなく、社会の視点から業界全体を良くしていく。第三の公共としても社会に価値をもたらすことに成功していたのだ。
社会のための良い活動であるが、決して儲からない「社会貢献」。あるいは、企業のブランディングの一環であり、収益化は見込まれないものとして利用される「社会貢献」。そんなイメージを払拭したいという思いがあったと、栫井氏は語る。
本当に世の中を良くしていけるサービスは、社会から求められつづけ、継続的にビジネスとして存在することができる。世の中に価値をもたらすからこそ、多くの人に好きになってもらえるし、ファンが増えて事業としてさらに伸びていく。ビジネスとして成り立ちながら、社会にしっかりと価値をもたらす。そんな良い「掛け算」が絶対にある。Zpeerはそれを証明してくれた存在であった。
次世代の仕組みを生み出し、次の社会をつくることを志してきた栫井氏。28歳で経済産業省を辞めたときには、人生のマイルストーンを置いていた。
「経産省を辞めたのは28歳だったんですけど、30歳まで修行して35歳までに世の中に認められる実績を作って、35歳から官民を繋ぐ仕事をやりたい、というのが経産省を辞めたときから思っていたことなんですね。まだ詳しいことは全然決めていなかったんですけど、35歳からは新しい動きを仕掛けていきたいなというふうに思っていたんです」
2017年に35歳となった栫井氏。共同創業者である藤本氏とは、かねてから話していたとおり、次の社会をつくるための道を一人歩みはじめた。Zpeerを退職し、2018年初頭からは株式会社Publinkとしての事業に本格的に乗り出した。
いつか動物医療業界にも恩返しがしたいと語る栫井氏。官と民で新しい社会を共創していく未来は、きっと創ることができる。官民どちらも経験した栫井氏だからこそ、心からそう信じられる。
栫井氏と藤本氏が出会った「クロスメンターシップ」は、学生と社会人が、世代やキャリアを超えて対話・フィードバックを繰り返すことで、「自分の情熱をどこに傾けるのか」を模索する約1ヶ月間(計4回)のプログラムである。
いつの時代も、栫井氏と同じような志を掲げてきた人はいたようだ。しかし、これまで幾度となく組織の壁に阻まれてきた。
2005年の小泉政権時代、来たる2030年の日本に向けて、経済財政諮問会議がまとめた一つの提言がある。
「21世紀ビジョン」と呼ばれるその内容は、日本が国家間の架け橋となり、国際舞台でプレゼンスを発揮していくこと。そして、健康寿命80歳といわれる人生のなかで、個人が性別や年齢、時間、場所にとらわれず働ける環境を整え、自己実現できる社会を目指すことなどであった。今でも通じるようなビジョンが、2005年当時すでに掲げられていたのだという。
「ちょうどこれを作ったときに政府の有識者として活動をされていた有名な大学の先生がいて、その方が当時内閣官房で僕の上司だったんですよ。もう病気で亡くなられてしまったんですが、その方が以前これについて語っていたのは、『省庁の縦割りを何とかしないといけないので、あえてこれは省庁の縦割りを突破しないと達成できない目標になっている』と言っていたんです」
日本の将来のため、省庁横断や官民連携がなければ、とても実現できないようなビジョンを掲げた人が過去にもいた。けれど、省庁横断や官民連携は今でも課題が山積みであり、21世紀ビジョンも達成にはほど遠い。その意味では、今はとてもチャンスがあると栫井氏は語る。
「働き方改革とか公務員の兼業解禁だとか、『組織のための個』じゃなくて『個のための組織』という風潮に社会が変わりつつあるので、今こそ一人の官僚だったり、国に興味のある民間の一人のサラリーマンが、どうやってこの社会の中で自己実現していくのかという文脈の中で、どんどんオープンになっていくためのムーブメントが高まっていると感じています」
「人生100年時代」といった言葉が広まり、個と組織の関係は変容しつつある。
そんな時代に適合した新しい組織の在り方として注目を集めているのが、いわゆる「ティール組織」である。上下の関係をなくして共通の目標を定義し、それぞれが自律的に目標に向かっていく組織。それは一企業内での組織論にとどまらず、官と民というセクターを越えた組織の関係性についても応用できるものであると栫井氏は語る。
「(国を上で民間を下と見るのは良くないですけど、)仮に官と民のセクターを同じ会社組織の上司部下に置き換えると、今は部下が『上司は何を考えてるんだろうな』と思いつつ意思疎通もできず、とりあえず様子見しながら動いているみたいな感じですね」
官と民においても、共通の目標を明確化できれば、それぞれが互いにリスペクトをもちながら自律的に価値を発揮し合うことができるはずである。Publinkでは、官民のコラボレーションが生まれるようなインタラクティブな議論を活性化させるイベントを主催している。
「現在も『官民コラボセッション』というイベントを開催することで、それぞれ組織を動かすような立場の人材が少数精鋭で集まって、次の社会のために議論してプロジェクトを生み出すための場をつくっています。政策サイドと事業サイドって、短期的な話をしちゃうと結構目線が合わないことがあるんですけど、これからの社会をどうしていきたいかっていう話をするとお互い目線が合うんですよね」
今こそ、官と民は目線を揃えて連携しあえる時代である。
海外では、すでに官民連携の好例も生まれている。車文化でありながら燃料を輸入に頼るしかなかった米国ハワイ州と、電気自動車の普及を目指すテスラ・モーターズが連携しインフラ整備を進めたというものだ。
官と民が、真のwin×winの関係を築いていくこと。今まさに変化しつつある時代のうねりのなかで、これまで実現できなかった社会をつくりあげる、かつてないチャンスが巡ってきている。
2018年6月にSENQ霞が関にて開催された「官民コラボセッション」の様子。
国と民間の「繋ぎ」となるPublink。栫井氏は、自らを官庁街のコンシェルジュと表現している。
行政と民間企業のあいだで、さまざまな人や情報の繋がりをコーディネートしていく同社。民間企業から官僚に出向経験を持つ人や、官僚を辞め民間で事業に携わってきた人、そんな貴重な「パブリンガル」人材をコミュニティとしてまとめ、そこから情報・人の接点を繋げたり、業務委託のような形でプロジェクトへ派遣する。それにより、同社は人材の流動化に向けた足がかりをつくっていく。
すでに大手コンサルティング会社、事業会社、ベンチャーを顧客としたプロジェクトが複数成立し、目下進行中であるという。社会的な政策サイドの感覚と、事業的なビジネスサイドの感覚、両方のバランスを取ることができる人材がいることで、官民それぞれの目的意識を理解し、両立するプロジェクトを企画できるようになっている。
「官は自分たちが考えたビジョンとかアイディアに対して、世の中が答えてくれるとすごく嬉しいので、『こういうニーズのある人がいるから繋ぎますよ』と言うと喜んでくれるんですね。Publinkはそういういうところを埋めていく、官庁街のコンシェルジュとしてやっていきたいなと思っています」
実際、さまざまな業界業種でそのニーズは高まっているという。現在、同社がオフィスを構えるシェアオフィス「SENQ霞が関」に入居した翌日にも、官庁街に立ち寄った企業関係者から当日3件の相談が舞い込んできたという。
「大企業向けのオープンイノベーションをコンサルされている企業の方たちとも、シナジーがあればいいなと思っています。僕はオープンイノベーションをやろうと言ったときに、官が入らないってどうしてなんだろうと思うんです」
短期的な収益ではなく、官民でのオープンイノベーションの場作りに焦点を当て、20年後の社会作りのための試みを積み重ねていく。その一つ一つが、将来官民連携の成功例として、世の中を動かす種となり芽吹くかもしれないのだ。
そこでは、人だけでなく情報を繋ぐこともコンシェルジュの役割である。
「この前『プレミアムフライデー』を作った方と飲んだりもして、『あれって何のために作ったんですか』ということを聞いたら、彼がもともとやりたかったことって、会社や業種によって好きな休日、休む曜日や時間を選んだりっていう、自由な働き方の制度として経産省のなかで提案していた。だけど組織の中でいろんな人と調整していく過程で、『とりあえず最終週とか決めた方がわかりやすいんじゃないの?』とか言われて、ちょっと不本意な形になっちゃったんだということを言っていたんです」
世の中に流れているニュースのなかには、官僚としても誤解されたくない部分がある。それらを的確にキャッチし、世の中に伝えることができる。Publinkは人だけでなく、情報すらもつないでいくことができる。
民間にとって、国や自治体と連携したくても、前例がないのでやり方が分からない、そもそも官公庁のどのセクションにアプローチすればいいのか分からないという場面は多い。官庁街のコンシェルジュとして、唯一無二のコミュニティを擁するPublinkだからこそ、第三の公共として価値を発揮することができる。
第1回「官民コラボセッション」では、「経産省×人材」をテーマに、上場企業の社長、内閣府、人材の実務のプロ、広報・PR専門家含め、少数精鋭のメンバー20人が議論。終了後アンケートでは、4割が「会社としてコラボレーションを進めたい」と回答。
これから生まれてくる子どもたちが物心ついたとき、『日本ってすごく良い国だね、日本で生まれて良かったね』と言えるようにしたい。日本のために、20年かけてそこまで持っていきたいと栫井氏は語る。
「社会人になって2、3年目ぐらいのころ、僕が東大とか筑駒の出身なので、周りの友だちが外資の金融とかコンサルに行くんですよ。そういう優秀層のなかで結構よく聞くのが、『日本ってもう長期的にシュリンクするのが目に見えていて、少子高齢化だし、政治はイケてないし。だから今後子どもはアメリカで生んで、アメリカ国籍を取らせようと本気で思ってるんだよね』っていう考えの人がちょくちょく周りにいたんですよね。彼らも正しいとは思うんですけど、その日本をなんとかしたいと強く思うんです」
20年後の日本の未来をつくる、そのためにPublinkという存在がある。現役の官僚をはじめ、思いに共感してくれる仲間は続々と集まっているという。
Publinkの設立にあたっては、直近数ヶ月で1日4、5件、計400人以上と名刺交換をしてきたという栫井氏。そこで得られた知見や思いを、会社の理念や事業内容にひたすら落とし込んできた。その際、意外にも多くの人が味方になってくれ、次々に人を紹介してくれたという。
なぜ、そんなにも多くの人がPublinkの思いに賛同しているのだろうか。
「2種類あって、一個は僕の思いに共感してくれる人とか、『僕もそう思ってたんだよ』と言ってくれる人ですね。もう一個は、官民とかよく分からないけど栫井さんのやることは面白そうだと思ってくれる人です」
栫井氏が企画する総務省、経済産業省のアラムナイ(OBOG)ネットワーク、通称「そうけい戦」の飲み会にて。
仲間を募り、組織をつくっていくということについて、栫井氏が最も尊敬する祖父からの心に残る教えがあるという。
「じいちゃんに教えてもらったことで、『組織には三階層があって、それぞれで適性が違うんだよ』という話があって。一番下の人たちはシャカリキに仕事をこなせる人がよくて、中間の人たちはすごく優秀でどんどんゼロからイチを生み出していける人たちで、一番トップは、中間にいる優秀だけどアクが強い人たちを全部包み込んであげられる器の大きさだけが大事なんだという風に言っていたんです」
経営者であった祖父の教えは、同郷である京セラの稲盛和夫の経営哲学にも通じていた。トップがいなくても回る組織を作ること。たとえトップに近い一人が幅広い業務を担っていたとしても、下にいるそれぞれが責任を持ってその仕事を担っていると自負している。そんな状態をつくり出すことこそが重要であり、究極的な組織づくりであると栫井氏は考える。
祖父の教えにある組織の三階層でいうと、真ん中にいる人たちが、それぞれこれをやりたいと思うものに向けて全力で動いていける環境を作ること。その人たち同士がぶつかったときに、自然と調整できる、うまくいかないときのバランサーになるのが、経営者としての理想であるとPublinkの行く先について語る。
「Publinkでは、コミュニティという考え方を大事にしています。コミュニティ運営になると、中心の人が良い意味で黒子にもなれることが大事で、僕もそうしたいと思っています。僕自身がわかりやすいモデルとして出てきた方が世の中にとって訴えやすい場面であれば出て行こうと思うのですが、その先の社会の仕組みを変えるというときには、『栫井くんの下でやるんでしょ?』となると絶対に失敗します。そうではなくて、タレント集団みたいなすごく素晴らしい人たちがいて、僕はそのマネージャーとか運営事務所でいいので、みんなで社会を変えに行きたいんです。そうじゃないと社会の仕組みは変えられないと思うんですよね」
理念やビジョンに共感し、長期的に思いをともにしてくれる人は多くいるはずだ。そんな人たちを一人でも多く集め、社会のための力に変えていきたい。そのために、少なくとも10年は変わらないだろうと思える組織の背骨(ビジョン)をつくり、陰から支えていく。
栫井氏が幼いころから、経営者としての背中を見せてくれていた祖父。先日、そんな祖父がこの世を去った。その日はちょうど100歳の誕生日の二日前、親族一同で集まりお祝いをしようと地元鹿児島に帰ろうとしていた当日の朝のことだった。栫井氏を驚かせたのは、亡くなる前日の金曜日まで、祖父が経営する会社に毎日欠かさず出社していたということだ。
「人生で一番尊敬している人だったので、僕が死んだあとおじいちゃんと会えるか分からないですけど、『よくやったな』って言われるような大人になりたいですし、そういったことをやりたいです。子どものときから『大きくなれよ』みたいなことをよく言われていたので、大きくなりたいなと思います」
祖父のように、多くの人の多様な生き方を受け止めながら、それに応えていくものをいかに作りつづけるか。いかにそんな人生を歩むことができるか。死ぬときに100万人に感謝されるような価値を創造すべく、栫井氏の目は20年先、100年先の日本の未来を見据えている。
2018.09.20
Publinkの本格的始動から約1年、過去歩んできた人生が、今、周りを巻き込む大きな力となっている。思いの深い部分から共感してもらえる、数多くの賛同者を集めることができていると栫井氏は感じている。
組織の壁を越え、同じ志を持つ人同士が連携していく新しい日本をつくりたい。2019年2月、その思いの奔流は今まさに動き出した(最終取材当時)。
「2017年に経産省の若手たちがまとめて話題になった『不安な個人、立ちすくむ国家』ペーパーみたいなものを、これまで各省庁がばらばらにやっていたんですが、もっと省庁横断で連携してやらないかと声をかけたんです。11省庁の若手キーマンが集まるワークショップを開催したらすごく盛り上がって。ここからまさにコミュニティをつくっていこうという話になっています」
そこでは各省庁の若手が集まり、共通の課題意識やテーマについて議論を交わす。内容を共通資料として落とし込み、各組織に持ち帰ってもらうことで、それぞれ課題解決に向けた意思があることや共通認識を作っていければと考えた。
「初回のワークショップでは、まず自己紹介のあと、そもそも官の理想的な姿ってなんだろうねと、自分が国家公務員になったときの動機も思い浮かべながら、理想の官について話しましょうということをやったんです。その上で、理想の官にするために、どういうプロジェクトをこのコミュニティでやっていけばいいんだろうという順序で意見を出し合いました」
一つの机を囲んで顔を突き合わせ、思いを語りあう。その場の空気は、予想以上に熱気を帯びていた。
「最近、目の前の問題に対処する政策が増えているけれど、そうではなく本当は、国家100年の計、30年後の日本のことを考えていきたい」
「国家公務員をもっと子どもに誇れる職業にしていきたい」
「世の中一般では叩かれることが多い仕事だけれど、本当は日本にとってものすごく大切で、かっこいい仕事をしているのだということを知ってもらいたい」
それぞれが日々仕事と向き合うなかで感じていた違和感や、心に秘めていた思い。でも、複雑な組織のなか、一人で声を上げるのは難しかった。これまで行き場がなくくすぶっていた思いが、堰を切ってあふれ出したようだった。
「みんなすごく熱い思いを持っていて、特に『ゆとり』以降の若手の人たちって、ある省庁の中だけで仕事をすることに、檻を破りたい感覚を持ってる人がすごく多い。何か一個の中に押し込められるのが好きじゃないというか。いろんなところに視野を広げていって、掛け算的に動きたいというマインドの人が、官に限らず多いんじゃないかと感じているんです」
一人の力では日本は変えられない。けれど、一人一人の思いが集まれば、いずれ組織を動かし、社会を動かしていけるはずだ。その場に集まった有志の若手官僚たちも、栫井氏のその思いに共鳴してくれていた。
国を憂い行動する情熱を、個人の思いをもっと発信していくことで、各所に共鳴を生み出す。そうすればきっと世の中を動かしていくことができる。各省庁の若手たちのあいだから、まさにその胎動が大きくなりつつある。
情熱を持つ有志のコミュニティがハブとなり、組織と組織のあいだの障壁をなくしていく。今までにない新しい動きを創り出していく。
そんな活動を進めて行くうえで、栫井氏には手本とする人物がいる。長野県塩尻市で「スーパー公務員」と呼ばれる、山田崇(やまだ・たかし)氏だ。
「山田さんはいろいろな活動をされてるんですが、いわゆる自治体×企業のコラボレーションをばんばん作られていて。彼は早朝とか夜に自分でやっていた活動が、1年くらい経ってから所属する自治体に認められて、昼間の仕事でもその部署がつくられてアサインされて。そしたら夜はまた別の活動をはじめて、また組織に受け入れられて……という流れを、ひたすらここ数年繰り返している。彼みたいな流れを霞が関で起こせたらすごいと思いますし、個人から広がり、組織にまで思いを共鳴させていけたらと思うんです」
組織というものはどうしても制約が多い。小さな変化を起こすのに1年以上もの時間がかかることもある。しかし、有志のコミュニティであれば3秒後には実行できているかもしれない。
時代とともに社会が変化していくにつれ、組織は変化を迫られる。そうなったとき、組織が対応しきれない部分を、まずはコミュニティで試行する。良い結果が生まれれば組織で採用し、結果が芳しくなければ今度は別のアイディアを試す。それにより、社会の変化のスピードに合わせ進化していく組織を創ることができるようになる。
時代の流れのなか、それでも新たなひずみが生じれば、また別のコミュニティが必要とされ創られていくのだろう。
「いつの時代も、アジャイル的なところはとにかくコミュニティで走りつづけて組織を進化させて、あわせてコミュニティも進化していく。きっと将来も、それが繰り返されていくんじゃないかと思うんです」
組織とコミュニティが有機的に関わりあいながら、進化していく社会。自由度が高く、アジャイル的に動けるコミュニティだからこそ、組織の限界をうまく補完していくことができる。組織を動かし、社会のためにできることがある。
それは将来、当たり前の機能として社会から必要とされてすらいるのかもしれない。
組織を横断し、志を同じくする人々が集うそのコミュニティは、新しい社会の在り方を体現していく。
社会を変える力は、きっと巻き込む人の数に比例する。多くの人の思いが重なれば重なるほど、それだけ大きなことを実現できると栫井氏は考えている。
そのための一つの布石として、2018年から栫井氏が事務局長を担っている「官民交流国力倍増塾」というコミュニティの存在がある。
かつて池田内閣が達成した「国民所得倍増計画」、すなわち「日本のGDPを2倍に」という目標を再び実現しようとするその団体は、東証一部上場企業の社長とつながりの深い創立メンバーが発起人となり、8年前に設立された。
そこでは、次の10年20年に組織のトップになるであろう大企業の中堅エースたちに向け、1年間の講義と官民の交流を行っている。これまで40期以上、1100人以上の塾生が学んできた。日本を良くしていきたいという情熱を持つ人材たちばかりだ。8年の活動の中で、塾生の中からは、大企業の社長に就任する人財も出てきている。
「まず官僚のコミュニティで、ある社会課題についてプロジェクトがスタートしたときに、大企業のキーマンとなるミドルに一気に呼びかける。これが実現したら、きっと日本は変わると思うんですよね」
官と民の垣根を限りなく低くすることで、社会全体としての化学反応を最大化させていく。目指すビジョンを形にしていくために、Publinkは触媒として機能する。
一人の力では変えられない。でも、多くの人の情熱と行動が共鳴すれば、きっと不可能ではないはずだ。さまざまなコミュニティの掛け合わせで日本を変えていく。未来を見据えるPublinkは、これまでにない掛け算を社会に生み出しつづける。
2019.02.14
文・引田有佳/Focus On編集部
「ゼロイチは自分との闘いなのだ」
ゼロから生み出す。企業の精神性、経営者の精神性を表す言葉として企業活動に用いられている「ゼロイチ」。今では、それが一つのスキルであるかのように用いられている。
それは、先人たちの創り上げたシステムの上で皆が同じ方向に向かう大量生産大量消費の時代には、語られることのなかったスキルであろう。かつては、何もないところから何かを創造するスキルよりも、既存のフレームに則り、生産を最大化する。それこそが、価値であった。だからこそ、生産が最大化され、産業が日本に育っていった。
しかし、今はそれだけでは日本は発展しない。
安倍政権によって、2007年に閣議決定された「イノベーション25」。そこでは「イノベーション」は技術革新としてのみならず、これまでと全く違った新たな考え方、仕組みにより新たな価値創造、社会への変革をもたらすことと定義され、日本にイノベーションが起こるような土台を創り上げるための長期戦略が宣言された。
その中に、こんな一節がある。「かつて、有名な科学者が『空気より重いものは空を飛ぶことは不可能である』と言ったわずか8年後の1903年に人類の初飛行が実現している。」と語り、その歴史変革の原点には、「困難に立ち向かいそれを現実のものにしようとするチャレンジ精神旺盛な人」、そして「高い志を持った人たち」の存在があると言及されているのだ。
不可能だと思われることを可能にし、何もないところに何かを生み出すことのできるこの「ゼロイチ」の力が、現代の日本人個人に備わることは急務なのである。確かに今、変革の精神と力が求められている。
数十人規模のノーベル賞受賞者を輩出するマサチューセッツ工科大学にて教鞭をとっていた石井裕氏の体験記には、未来を生み出す精神性について述べられている一節がある。
私は、真の革新者は、一つの大成功で終わり燃え尽きる短距離走者ではなく、過去の自分を乗り越え、次々と革新を重ね続けられる長距離走者でなければならないと思う。その長距離走において、乗り越えるべき敵は、過去の成功にしがみつき、新たな挑戦の失敗を恐れる自分自身にほかならない。―石井 裕
未来をつくりあげることの真の意味は、短期的な成功のことをいうものではない。幾重もの困難なプロセスを越えながら、未来の基盤を創り出し続けることにある。そうであるのであれば、安住の地に居座ってしまうことは、未来を手にするためには、ある種の「敵」といえる。一つの成功にしがみついてしまえば、次なる未来は待っていない。
栫井氏の目指す「官と民の融合」という第三の場は、かつての私たちの概念にはないものである。ゼロから始める、ある種発明的側面を持つ挑戦である。そして、この挑戦は短期的な成功で得られる未来でもない。
幸い、栫井氏には「進化」を求めて生きる姿勢がある。これまでの自分でいつづけてはならない。過去の自分を乗り越えつづけて生きることこそが人生。このゼロをも恐れぬ姿勢こそが、真の未来を招き入れる先駆者となりゆくのであろう。
挑戦するほうが面白い。真の革新を遂げるために向かう栫井氏の姿は、「官と民と第三の公共」、それ以上の意味を私たちにもたらしてくれる。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
内閣府(2006)「イノベーション25」,< http://www.cao.go.jp/innovation/index.html >(参照2018-9-19).
石井裕(2009)「米国MITの独創・協創・競創の風土」,『電気情報通信学会誌』92(5),pp.327-331,電子情報通信学会,< https://www.ieice.org/jpn/books/kaishikiji/2009/2009052.pdf >(参照2018-9-19).
株式会社Publink 栫井誠一郎
代表取締役
1982年生まれ。東京都出身。東京大学工学部卒業後、2005年に経済産業省(国家1種)入省。マクロ経済政策、外国人留学生と日系グローバル企業のマッチング、研究開発政策、法律改正、内閣官房への出向時は政府のIT・情報セキュリティ政策を担当。2011年退職。退職後はWebサービス企画/開発を中心に活動した後、2013年6月、株式会社Zpeerを共同創業し、CTO兼CFOを担う。2017年末に退職後、経済産業省時代より長年抱いてきた官民連携への思いを形にすべく、2018年6月に株式会社Publinkを設立した。人や情報をつなぐコミュニティ「Publinkパートナー」を運営。現在、理念やビジョンに共感してくれる賛同者を募っている。