Focus On
緒方大介
株式会社リフレム  
代表取締役
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or広い世界に出てみれば、行動するしかない理由が待っている。
物流・建設・製造業などノンデスク産業の課題解決に向け、事業を展開するX Mile株式会社。同社では、ノンデスク業界専門のHRプラットフォーム「X Work(クロスワーク)」や「ドライバーキャリア」「メーカーキャリア」をはじめとする業界特化型エージェントサービス、さらに経営支援SaaSの開発・提供など、テクノロジーと事業創業力により包括的な顧客課題の解決に取り組んでいる。
代表取締役の野呂寛之は、国際基督教大学在学中から建設SaaSスタートアップで働いたのち、EVベンチャーのTerra Motors株式会社(現 Terra Charge株式会社)にてベトナム、カンボジア拠点立上げに携わった。卒業後、Fintechスタートアップの株式会社ペイミーの創業に参画し、取締役COOとしてシリーズBまでを牽引。事業責任者として飲食、小売、警備、人材派遣、物流などの業種へのSaaS展開を経て、2019年にX Mile株式会社を設立した。同氏が語る「行動力の源泉」とは。
会社は社会課題を解決するための存在であるという前提に立ち、課題が大きな産業を変え、社会に大きく貢献することを志し起業したと野呂は語る。
「X Mileとしては社会課題を継続的に発見し、それを解決していく機関でありたいと思っています。なかでも、まだあまり手がつけられていない産業に注目しています」
同社が変革に挑むのは、物流・建設・製造業など現場作業が発生する「ノンデスク産業」だ。ドライバー、建設作業者、警備員をはじめとする「ノンデスクワーカー」は、人口減少と高齢化の影響をダイレクトに受けている。
「たとえば、運送会社さんって最も倒産率が高い業界の一つでもあるのですが、一番多い倒産理由が人手不足なんです。要は、荷物運送の需要あるけれどドライバーがいないので倒産してしまう。もう一つ、『物流の2024年問題』が叫ばれ労働時間が短縮される動きがあるなかで、業務を効率化するITに詳しい人材が業界内にいないという課題があり、我々はそれらを外部から変えていこうとしています」
ノンデスク業界専門のHRプラットフォーム「X Work(クロスワーク)」や、トラックドライバーの2人に1人が登録する「ドライバーキャリア」をはじめとし、各領域でトップクラスのサービスを複数展開する同社。
さらに、紙やFAXをベースとした煩雑な業務をデジタル化し、経営効率を向上させるSaaSプロダクトも提供することで、「働き手不足」と「労働生産性の低さ」という双方の課題解決にアプローチしている。
「サービスを運営する上で、永続性がある状態にしないといけないということは意識しています。運送会社さん向けのソフトウェア事業も結構いろいろなサービスが参入しては撤退していて、『導入したのにサービスがなくなってしまった』というお客さんも多いんですよね。それはすごくもったいないことだなと」
顧客が積極的にお金を支払いたいと考える課題と、経営にとって解決の優先度が高い課題が必ずしも一致するとは限らない。だからこそ、同社では複合的なプロダクト展開により、たしかな売上と、必要とされる経営支援を両立できるようにする。安定的に利益を生み出しつつ、サービスを伸ばしていくための拡大投資など、顧客や社員への還元がきちんと永続する状態を生み出すことを重視しているという。
「今後はノンデスク産業全てに広がり、支援できるような存在になりたいと思っています。日本のノンデスクワーカーの方々は4,000万人くらい、労働人口の約60%ですね。グローバルだと約80%といわれていますので、その全体に対してX Mileのサービスを提供できればと思っています」
消費者の生活と経済活動のインフラを担う巨大産業だからこそ、課題を解決することが経済成長に大きなインパクトをもたらす。ノンデスク産業に特化した事業展開を拡張していくX Mileは、包括的な経営支援により不透明な未来を切り拓く。
未知への好奇心は、今ないものを作りだす原動力になる。発泡スチロールで工作してみたり、漫画を描いてみたり。気づけばひとりでに何か生み出している一つ上の兄に感化され、幼少期は新しいものを作ることに興味があったと野呂は振り返る。
「結構ものづくりは好きで、図工とか美術とか、夏休みの宿題でも自由研究みたいなものがあるじゃないですか。アイスの棒をひたすら溜めて、ピラミッドを作ったり。貯金箱を作った時も、2つのタワーをつけて片方に入れたらもう片方に流れるようにしたり、今考えると変なものを作ったりしていましたね(笑)」
多彩な兄のあとを追うように、習い事も塾も疑問を抱かずやってきた。学習意欲が高く、いつも集中して勉強していた兄と比べれば、必ずしも全てに熱中していたわけではないが、当時はほかにやりたいことも見つかっていなかった。
「とりあえず兄がやっているので、兄の背中を追いかける。それが当たり前なんだと、当時はあまり自分の頭で考えるということをやっていなかったと思います。身の回りに情報がなくて、何かやりたいけれど選択肢が分からないような状態でしたね」
生まれは札幌からほど近いベッドタウンであり、病院を経営する父をはじめ、親族はみな医療関係の仕事に就く人がほとんどだった。小学校が終われば毎日16時から塾に通い、家ではテレビのバラエティ番組は禁止されている。ほかにはサッカー少年団に所属していたため、ほとんど空いている時間は埋まってしまう。
「父親が医者なので、『医学部に行きなさい』とずっと母親から言われていて。やっぱり家族経営だったので、できれば継いでほしいという思いもあったのだと思います」
自分の将来についてはあまり深く考えず、高校1年生くらいまではなんとなく医学部を目指していた。しかし、結果的にそうはならなかった。
「医学部に行って医者になるまで大学に6年通って、研修に2年かかるじゃないですか。少なくとも8年くらい、自分がそこに集中してコミットできるだろうかということは思いましたし、僕の目からするとずっと同じ病院で、同じルーティンで働くように見えていて、どうしてもそれをやりたいという思いは正直なかったんです」
父が働く姿を間近で見たことはない。家でも仕事の話はしない人だった。ただ分かるのは、毎日家から近い病院に通勤しては、帰ってくるということ。どこか単調にも見えるそんな生活を繰り返す。それよりも自分は、日々新しく知らない世界と触れていたい。漠然とだが、そんな風に思っていた。
中学生の頃、映画を観ることが好きだったことも影響しているのかもしれない。
「映画って誰かの人生を見られる機会というか、追体験できるじゃないですか。人生の体験を先に積んでいるような感覚を得られるのがすごく面白いと思っていて。そういう波乱万丈ではないですが、自分で映画を1本撮れるくらいの体験をする方が、単純に人生として面白いだろうなと思っていたんです」
家に両親のいない時間帯、ひっそりと観る映画は色とりどりの世界を映し出す。見知らぬ国で、見知らぬ生活を送る登場人物たち。刺激に満ちた人生の数々に憧れていた。
幼少期
2-2. 「生徒諸君に寄せる」
全国模試で1位を取るような兄と違い、中学受験では北海道で一番の学校には合格できなかった。改めて学力では勝てないことを実感しつつ、切り替えて別の方向性を模索していた時期だったともいえる。
「中学受験では悔しさもありましたが、割とポジティブに『まぁ、これでいいか』と感じるような楽観的な性格でもありましたね。そっちの選択肢がなくなるなら、新しい選択肢のことを想像しはじめて『なんか面白そうだな』と」
中学入学以降は、正直あまり勉強しなくなっていた。熱心に取り組む目的も見つからないし、一貫校のため受験の危機感もない。中学2年の後半になり、定期試験の順位が発表されるようになって初めて、自分が思った以上に下の方にいると知る。
さすがにまずいと机に向かいはじめ、順位を取り戻そうと必死になるうちに、意外にも楽しさを見出している自分がいることに気がついた。
「最初は友だちに勝つのが楽しくて、そこから定期試験のたびに順位が上がることが楽しいなと思うようになって、どんどん順位が上がっていったんです。最終的には学年で30位くらいまでになり、高校の1番優秀な特待クラスにギリギリ滑り込みで入ることができました」
負けたくない、勝ちたいという思いは原動力になる。そう実感し、高校ではより成績上位者が集まるクラスメイトと競い合うように勉強できる環境を楽しんだ。
さらに視野が広がりはじめたのは、16歳の冬だった。
「高校1年生の冬休みに一人で米国に行かせてもらう機会があって。それも兄が前年に英国に一人で行っていたからなのですが、じゃあ自分は米国にしようと。何も分からないなか交通手段も自分で調べて、ボストンの語学学校に1か月くらい行く経験をさせてもらったんです」
語学学校では同じように日本から来た人たちもいた。同じ国同士で固まってグループができていたが、せっかく遠く離れた国に来たのだからと、そこには加わらず積極的に国籍の違う人と交流していった。
「中国や韓国から来ている人はものすごく意識が高くて、勉強も真面目にしているし、国に帰ったらこれをやるんだという目的意識もすごく高かったんです。日本人は遊びに来ているような感じの人が多くて、危機感を持ちましたね。それを経て帰国後はとにかく外へ行こう、北海道から出ようと考え方ががらりと変わって外向きになったと思います」
16歳、一人で渡った米国にて
狭い世界で生きるだけでは分からないことや、知らずに終わる価値観というものがありそうだ。そんなことを考えていた折、ちょうど担任の先生が紹介してくれた一編の詩が真っ直ぐ心に入ってきた。
「担任の先生がすごく強烈な人で。国語の先生だったのですが、宮沢賢治とかの詩を1時間くらいかけてずっと読むという授業をしたりするんです。その中で『生徒諸君に寄せる』という詩があって、『未来こういう可能性があるのになぜもっと行動しないんだ』という若者に対するメッセージなんですが、それがすごく印象的で。それこそ当時は自分の机に貼ってずっと見ていましたね」
有名な詩ではないようだが、不思議と心揺さぶられるものがある。なぜ行動しないのか、新たな時代をその手でつくれ。力強く語りかけてくる詩の一節一節に、背中を押される思いだった。
「自分はもう少し行動的にやっていく方が相性がいいのかなと思いました。クラスにはもっと集中して勉強ができる人もいたのですが、その人たちには勝てないなという思いもあって。行動力だったり『負けない』という精神のようなもの、それなら勝てるんじゃないかと」
昔はなんでも兄がやることを追いかけてきた。しかし、兄と自分の人生は全く違うものだった。そうして自分なりの選択肢を考えはじめたところから、少しずつ将来についても自分の頭で考えるようになっていったのかもしれない。
行動は自ら起こすもの。誰かの真似をしたり、周りに言われたことを鵜呑みにするばかりではなく、広い世界を見渡して自ら選んで行けばいいものだった。
とはいえ、当時はやりたいことが明確にあったわけじゃない。大学受験の段階で文系理系を選択することにも違和感があったので、リベラルアーツを掲げる大学に進みたいと考えて、国際基督教大学(ICU)へ進学することにした。
念願の東京行きが叶ったものの、入学してみると大学の勉強は想像とは少し違っていた。アカデミックな学びとしては価値があるのだろうが、期待していたのはもっと人生の選択肢に繋がるような何かだったのだ。仕方なくアルバイトをしたり、友だちと旅行に行ったり、しばらくたわいもない時間を過ごしていた。
「高校生まで全く遊んだりしていなかったので、いわゆるザ・大学生といった過ごし方で2年くらいずっと遊んでいましたね。そのうち遊び過ぎて結構飽きてきて、なんのために北海道から出たんだろうと思うようになり、もう一度将来のことを考えはじめたという感じでした」
高校に比べれば時間は無限にあった。好奇心に従い遊びつつ、ビジネスコンテストに出てみたり、大使館でインターンしてみたり、とにかく将来に繋がる何かを求めて面白そうだと思ったものに片っ端から飛び込んでいく。
大学2年の夏頃にはもう少し精神を鍛えないといけないのではないかと思い立ち、きついと聞いていた富士山の山小屋アルバイトをやってみたりもした。
「富士山って5合目まではバスで行けるのですが、そこから頂上までのあいだの8合目くらいに宿があって、登山客は1回泊まってからご来光を見に行くんです。結構大きい300人くらい入る施設で、お客さんの接客をしたり食事を出したり、砂埃もすごいので寝床を掃除したりする仕事をやっていて。週7で朝5時から夜の8時くらいまでずっと働きつづけるし、かつ上下関係がすごく厳しいので修行僧のようにハードなんですよ」
大変だが、その分給料はいい。1か月間休みなく働きつづけたことで30万円ほど貯めることができた。何か始めるには十分な資金だ。調べていると、偶然にもビジネスの世界に目が向いた。
「その頃孫正義さんの本や動画に触れて、初めて『起業』という選択肢を知ったんですよね。いずれ社会人になって、ビジネスパーソンのトップレベルを目指すとしたら経営者なので、ちょっと面白そうだなと思って」
富士山でのアルバイトにて
当初は起業塾なども参加してみたが、やはり実務経験を積むのがいいだろうと思えたので働き先を探すことにした。ちょうど大学の単位は1~2年でかなり取りきって3年以降は時間があったので、早速スタートアップ企業にインターン生として飛び込んだ。
「最初は社員数3名のスタートアップ企業に入りまして、そこで平日泊まり込みで働いて土日に大学へ行くという、真逆の生活をしていましたね。周りからすると一切遊びとかも断るようになったので、急にノリが悪くなったような感じだったと思います」
建設SaaS事業を展開する企業だったので、仕事は施工会社へのテレアポから商談など営業から始まった。まだ商品がないところから受注し、お金をいただきつつエンジニアと一緒に企画開発する。いわゆるPdM的な仕事も任せてもらい、学生ながらにビジネスとはこうして成り立っているんだということを身をもって体験することができた。
「やりながら楽しいなという感覚と、自分って全然仕事ができないなという感覚があったので、とりあえず目の前の仕事をきちんとやろうと思っていました」
営業もやったことがなければ、資料作りもマネジメントも、とにかく新しいことだらけの毎日だった。起業が2回目だという代表は経験豊富で、ほかにも周りには優秀な人が多い環境で学べることは多かった。
1年ほどのあいだに社員は数名から30名ほどまで増えた。組織が成長し、事業としてできることが広がっていくさまを見ていると、自分もいつかは起業したいと思うようになっていた。
「そこからもう1社、Terra Motorsというスタートアップ企業で働いたのですが、ドローン事業の想定で面接に行ったら、『ドローンの事業じゃなくてベトナムに行かない?』と言われまして。大学を休学して、1週間後にベトナムへ行ったんですよね(笑)。ベトナムではジョイントベンチャーをつくって全国を飛び回って営業したり、そのあとカンボジアに一人で行って拠点を立ち上げたりと、大学4年の時期はずっと学生社員のような形で働いていました」
同社では学生インターンから叩き上げで役員になった人もいるほど、若手に任せてもらえる文化があった。コミットや結果次第だが、学生という身分に関係なく仕事を振ってもらうことができる。おかげで海外で働いてみたいという願いも叶ったうえに、グローバルな交渉や海外事業の難易度の高さを肌で感じられたりと貴重な経験をさせてもらえた。
「高校までは自分に何も秀でたものが無くて、これからサッカー選手になれるわけでもないし、アーティストになれるわけでもない。かつ、周りの学生と比べてすごく優秀だったりするわけでもなかったので、何を目指そうかと悩んでいたんです。だからこそ仕事が本当に楽しくて、そこでコミットすることでトップレベルを目指そうと本気で思えたんです」
大学生らしく遊んだり、アルバイトに励んだり。いわゆる普通とされる過ごし方をしていたら、刺激に満ちたビジネスの世界とこんなに早くは出会えていなかったかもしれない。
常識や周囲の声は一旦脇に置き、好奇心に従い挑戦してみる。やりたいことは、人とは違う行動の先に見つかった。
大学時代、Terra Motorsベトナム拠点で働いていた頃
そのまま大学を中退して入社しようかと真剣に考えるほど、当時はスタートアップや0→1の面白さに魅了されていた。
「ベトナムで初めて売ったバイクが街を走る姿を見かけたりしていて、やっぱり強烈なビジョンだったりミッション、目標に対して泥臭くやってお客さんに何かを届けたり、今までなかった価値をつくるということがすごく楽しくかったんです」
日本に帰国してからは、同じスタートアップでもさらに違った環境を見てみたくなり、3社ほどの企業でプロジェクトや新規事業を手伝ったりもした。就職の選択肢もそれらの仕事の延長で考えていた。
「結果的に卒業したタイミングで4つくらい選択肢があって。大手IT企業の経営者育成コースと、ブロックチェーン系のスタートアップ企業のモンゴル支社代表、それからMTGの新規事業室、あとは当時Fintechスタートアップとして立ちあがろうとしていたペイミーの2人目社員というオファーがあって、悩んだ結果ペイミーに行くことにしました」
それぞれ魅力的な環境があったためかなり迷ったが、決め手となったのは創業者である後藤道輝氏の存在だった。DeNAの投資部門出身である後藤氏は、メルカリやCAMPFIREなど名だたるスタートアップ企業で働いてきた経歴を持つ。さまざまな事業に携わり、数多くいる起業家の中でも誰より0→1に詳しい人物と一緒に働ける。
さらに、まだ代表とCTOしかいないフェーズだからこそ、セールス・マーケティング領域で経験を積んできた自分はバリューを発揮しやすいのではないかと考えた。
「ペイミーでは事業責任者から組織のマネジメントまで、いわゆる会社づくりの0→1に携わらせてもらいました。当時22歳で取締役COOになってからは、著名VCのパートナーに毎月取締役会で事業報告をするというチャレンジングかつ責任の重たい経験も積ませていただけました」
起業はなんとなく30歳ぐらいでできればと考えていたが、ゼロからコミットしてきた事業がある程度の成長を遂げるにつれて、そろそろ自分で何か始めてみるのもいいかもしれないと考えるようになっていた。
「起業を決めてからは社長と毎週土曜日に事業の壁打ちをさせていただいたりもしたのですが、仕事が忙しかったこともあり明確なものは決まっていませんでした。だから、ペイミーを辞めて1か月後くらいですぐに会社だけつくって、最初の半年間はずっとリサーチをやっていましたね」
インターン生を雇い、毎日オフィス兼自宅に来てもらいリサーチを手伝ってもらう。実質半年間家がない状態で、貯金は全て会社のために費やした。報酬もなく、ひたすらリサーチだけを続ける日々のなか、自分の精神状態が持つまではなんとかやってみようと決めていた。
「背水の陣です(笑)。でも、根拠のない自信があったんですよね。自分だったらできるかもと。なぜかというと、それまでにスタートアップの現場で急速な事業拡大や組織崩壊など、いろいろ衝撃的な修羅場を経験させていただいて、事業がハマれば伸ばせる自信があったんですよ。ただ、ハマるまでは時間がかかるだろうとは思っていたので、あとはそれがどのタイミングで来るかだなと」
数えきれないほどのアイデアを出し、試行錯誤を繰り返した末、たどりついたのが「ノンデスク産業」という領域だった。
人口減少という差し迫った社会課題と直結し、社会に大きなインパクトを与えられるうえ、新しく大きなことを成し遂げられる。ゼロから価値を生み、働く人が誇れる会社になるために、X Mileは事業を創造しはじめた。
16歳の時、一人で米国行きの飛行機に乗り込んで以来、心に浮かんだ選択肢は実行に移し、知らない世界へと踏み出してきた。そうすることで得られたものが多くあると野呂は振り返る。
「日本って結構挑戦すると叩かれるような風潮があるじゃないですか。それが本当になくなるとよいなと思っていて。日本に足りていないものは新しいことを推進していく人材だと思っているので、まずは小さな一歩からでもいいので新しいことをやっていく、これが非常に重要かなと思っていますね」
勉強が終わったら、あるいは準備ができてから始めよう。そうやって不確実な状況を避ける理由はいくらでも生み出せる。初めてスタートアップ企業に飛び込んだ時も、自分がそこで何ができるかは分かっていなかった。それでも目の前のことに真剣に向き合っていれば、進む道は自ずと見えてくるものだった。
「何かからはみ出して発言をするという部分が日本人は弱い。これを言ったら怒られるんじゃないかとか、ものすごくあるじゃないですか。ルールを疑わないというか、既存の枠組みの中では動けるのですが、その枠組み自体を疑うクリティカルシンキングとか本質的な思考能力が本当に弱いなと、世界に出て痛感したんです」
100点や95点を取ることが評価される日本社会。一方で、米国ではチャレンジして120点、130点を取る方が評価される。
結局はリスクに対する捉え方なのかもしれない。実際に経験から言えるのは、日本で暮らす限りそこまでリスクはないということだと野呂は語る。
「起業とかそういうことだけでなく、会社の中の仕事でも『自分がどう思われるか』とかは考えず、どんどんチャレンジしていくことはできると思うんです。それが一番大事なことなんじゃないかなと」
チャレンジする限り、絶対に評価してくれる人はいる。だからこそ、迷いを捨てチャレンジしつづけることには意味がある。
2024.6.13
文・引田有佳/Focus On編集部
新しく変化を起こす人は、しばしば否定や無関心にさらされる。「出る杭は打たれる」という言葉が存在するように、日本人は特にその傾向が強いことを、世界に出て実感したと語る野呂氏。
新しいものは未完成であったり、未熟だったりすることが多い。そこには親しみのないものに対する違和感や、予定調和がもたらす安心感を求める無意識も生じてくるのかもしれない。しかし、そのような見方が数の威力を持てば、社会が進歩しなくなることは想像に難くない。
今ない価値を生み出そうとするスタートアップ企業もそうだろう。だからこそ、野呂氏は絵空事を掲げるのではなく、現実的な一歩を積み重ねていくことにこだわる。事業として売上が立ち、永続していく前提を築きつつ、着実に発展していく道を選んでいる。
それはノンデスク産業の課題解決を担うという責任感のようなものでもあるのかもしれない。未踏の挑戦に向かうX Mileは、さまざまな逆境をくぐり抜けながらも進化を遂げていくのだろう。
文・Focus On編集部
X Mile株式会社 野呂寛之
代表取締役CEO
北海道出身。国際基督教大学卒業。在学中から建設業のDXスタートアップで働いたのち、Terra Motors(現 Terra Charge)にて製造業(EVメーカー)のアジア拠点立上げを行う。卒業後、FinTech企業ペイミーにて2番目社員として創業に携わり、取締役COOとしてシリーズBまでを牽引。飲食、小売、警備、人材派遣、物流などの業種へSaaSを事業責任者として展開。人口減少社会の中でノンデスク産業のデジタル化を志し、X Mileを創業。