Focus On
前田康統
株式会社wevnal  
取締役副社長兼 COO
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orどんな生き方を選んでも、誰もが自分の価値を感じられる社会がいい。
「教育のオープン化」をミッションとして掲げ、多様性のある開かれた学校教育の在り方を創造すべく事業を展開する株式会社クジラボ。先生向けのキャリアプログラム提供やワークショップ開催、民間企業とのマッチング支援などを行う同社では、キャリアに悩む先生たちが自己と向き合い、外の世界を知り、納得感を持って自分らしい生き方を選択できる仕組みを構築している。
代表取締役の森實泰司は、大学卒業後、ソフトバンク株式会社にて法人営業に従事。のち株式会社リクルートを経て、株式会社キュービックにて拡大期におけるITベンチャー企業の人事責任者として採用・人事企画などに携わる。独立後、2019年より家業である学校法人の事業を承継し、私学経営を行うかたわら、2021年に株式会社クジラボを創業した。同氏が語る「人生の葛藤から得た答え」とは。
目次
長年同じ環境に身を置くと、気づかぬうちに価値観が固定化してしまうことがある。新しいものを受け入れるよりも慣れ親しんだ考え方に従うことを選んだり、タブーとされるような制約に縛られたり。環境が閉鎖的であればあるほどその傾向は強まっていく。
まさに今、閉ざされた教育現場に新しい風を取り入れることが求められていると森實は語る。
「なぜ開かれていないかというと、雇用が流動化していないんですよ。学校の先生って基本的にずっと先生でありつづけるというキャリアモデルになっていて。本来組織は人間の集合体だから有機的なものなので、いろいろな価値観や考え方が入ってきたり、いろいろな人が関わり合うという状態を構造的につくっていく必要があると思っているんです」
外の世界を知らないからこそ、価値観が単一化する。だから、クジラボでは先生たちが多様なキャリアや価値観を知り、体験し、納得感を持って仕事と向き合えるようにする。
「弊社ではキャリアに悩む先生たちに対して、キャリアに関するプログラムを提供したり、イベントやワークショップを開催しています。たとえば、代表的なキャリアデザインプログラムでは、そもそも自分は何が好きで、どういう才能があり、何が大切なのか、どんな生き方をしていきたいのかを知ってもらうことを目的としています」
自分を知ることは、他人を知ることよりも難しい。一人で考えるだけでは答えが出づらい問いも、キャリアコーチに伴走してもらいながら紐解いていくことで、解像度の高い答えにたどり着けることがある。
その結果、先生を辞めるという選択をするもあり、そのまま先生を続けるもあり。あくまでそこにどれだけ能動的な意思を持ってもらえるかを重視して、同社ではそのための機会を提供する。ほかにも内を知るだけでなく外を知ることで、内に対する客観的な視点を深められるよう民間企業とも連携を進めている。
「先生を辞めようとする前に民間企業の仕事を体験してみるプログラムもあり、これはインターンシップのようなものですね。ある意味KPIを追う世界に触れてみて、それを楽しいと思うかどうかはすごく大事だと思っていて。僕自身ビジネスから教育の世界に入った時は、海外に移住するくらい遠い感覚だったんです。だから、それを体験したうえで本当にキャリアチェンジするかどうか意思決定できるようになるというプログラムも提供しています」
実際に同社のプログラムを経て、現職に残るという意思決定をする先生の割合は6~7割ほどに上るという。先生不足が叫ばれる昨今、それもまたポジティブなことだろう。
キャリアの多様性を知ることが、結果的に先生自身のキャリア形成、さらには子どもたちの将来を導いていくうえでも役立っていくことになる。特に、子どもたちの進路相談やキャリア教育といったシーンでは、心から自信を持って語れる言葉が増えていく。
「先生ってある意味短期的な成果を追うのではなくて、長期的な目線で純粋に子どもたちと向き合える仕事なんですよね。それはすごく幸せであり、豊かな仕事なんだということに気づいてもらって、そのうえで私はやっぱり先生という仕事が好きなんだとか、これを続けたいんだという意思を持って続けるのか、なんとなく続けているのかでは大きな差があると思っていて。そのためのメッセージを発しつづけることに、僕たちが存在している意味があるのかなと思っています」
SNSを開けば、教育の仕事や労働環境にまつわるネガティブな情報はいくらでもある。インターネットを介して手軽に情報に触れられるようになった代償なのかもしれないが、それを見て先生になることを諦めてしまう人もいるだろう。だからこそ、今後もクジラボはフラットな情報発信を続けていきたいと森實は語る。
さまざまな仕事をする人がいるから、社会は成り立っている。そんな人たちへの感謝やリスペクトの心を根幹とするクジラボは、目立たずとも粛々と仕事と向き合う人たちの世界をより良くすべく、機会を創出していく。
クジラボのメンバーと
指先で鍵盤を鳴らし、歌うように曲を弾く。たった一つの響きさえ、思い通りに操れるまで何日もかかることがある。感性を磨き、表現を追求する道のりは長い。自身の幼少期を形成するものと言えば、何よりピアノだったと森實は振り返る。
「小学6年生の時に、広島交響楽団と一緒に演奏会をやったんですよ。コンチェルトという、ピアノが僕1人で後ろにオーケストラの大人たちがいる形式で、モーツァルトの『戴冠式』という曲を演奏して。たかだか小6の男の子の演奏会で、1,000人くらいの観客がいるわけです。あの時がおそらく人生のピークで、当時はずっとピアニストになると思っていましたね」
姉もやっているからと幼稚園から始めたピアノだが、どうやら才能があったらしい。
小学校低学年で初めてコンクールに出場して以来、市のコンクール、九州・山口地方のコンクールで相次ぎグランプリを獲得。小学6年生でプロの交響楽団と共演するに至るまで、着実に実績を積み上げた。
「発表会に向けて、練習して練習して磨き込んで本番を迎えるわけじゃないですか。そのなかで最高の表現をする、全てのエネルギーが向かうここでの表現が心の底から美しいと思えるとか、自分自身がもう泣きそうになるくらい感動できるとか、そういう感覚があったと思います」
はじめは親に言われるがまま練習するだけだった。しかし次第に、自分が心から美しいと思える表現を探求したり、オーディエンスを感動させるにはいかに表現すればよいのかと考えるようになっていく。
磨き上げた表現が、人々の心を強く揺さぶっている。そう実感するほど、表現するという行為自体に喜びを見出すようになっていった。
「今会社をやっていることにも繋がるのですが、究極的には自己表現をするということが自分の喜びとしてあって、起業はその表現の手段なんですよね。事業として成功する喜びよりも、ミッションとして掲げている『教育のオープン化』がなぜ必要で、どういうことを大切にしたいのかというメッセージが社会に伝わっていくことの方が圧倒的に喜びが大きい人間なんですよ。自分を表現したいという、おそらくそれが完全に根付いたのがピアノですね」
幼少期、母と、ピアノコンクールにて
小学校生活最後に臨んだコンクールは、ピアニストを志す人にとっての登竜門と言われているものだった。しかし、その大事な本選でまさかの脱落という結果に終わり、何かの糸が切れてしまったような感覚に陥った。
「だんだんそれくらいになると、ピアノの練習が本当に好きなわけではないという自覚が芽生えるんですよ。要は、本当にすごい人はピアノがものすごく好きなんです。ひたすらそれを愛せるような感じなんですよ。自分はやっぱり親から言われて強制されてやっていた側だったので、『自分はこの道じゃないかもしれない』とおそらく少し自覚をしたんでしょうね」
毎日遊ぶ間も惜しんで努力できたのは、純粋にピアノが好きだからというより、ただ親の期待に反したくなかったからだった。その限界がなんとなく見えてしまったのかもしれない。ピアノを心から愛し、それでいて才能あふれる同年代の子どもたちは山ほどいる。
幼いながらに現実を痛感し、ピアニストになる夢を諦めることにした。
「少なくとも幼少期は何をやってもみんなから可愛がられていたし、結果を出して『素晴らしいね』と言われて承認されるし、自分はなんて素晴らしく特別な存在なんだと本当に思っていたんですよ。それがピアノをやめて、ある意味アイデンティティクライシスのような状態になっていくんです」
学校でも親戚の集まりでも、褒めてもらえて誇らしかった。いつの間にかピアノは、自分の存在証明と等しいものになっていたのだと、失ってから気づくことになる。
「要はピアノという存在が、自分の最強の武器だったんです。『あいつはピアノがすごいやつだ』ということで、ブランディングを得ていたわけじゃないですか。おそらくそのピボット先で、中学ではオーボエという楽器を選んだんですよね。『まだ自分は価値があるんだ』と、子どもなりに思いたかったんだと思うんですよ。そしたら中学校ってヒエラルキーがあるから、吹奏楽部の男子はみんなの中心にいられなくなっていく。中高は思春期の葛藤でつらかったですね」
ピアノの代わりになるようなものをと無意識に探し、目を付けたのはオーボエという楽器だった。オーケストラと一緒に演奏した際、ひときわ美しい音色に感動したことが印象に残っていたからだ。習い事として練習に通いつつ、学校では吹奏楽部に入り、「オーボエで音大を目指す自分」というブランディングを手にしようとした。
しかし、学校で目立っていくのはサッカー部やバスケ部、野球部などスポーツ系の男子たちだ。それまでクラスの中心にいたはずの自分が、みるみる存在感の薄い存在になっていく。
客観的に見れば、何も問題はなかったのかもしれない。けれど、一度手にしてしまった価値の証明は、失ってしまうと途端に耐え難いものだった。なんとか自分の価値を示したい。周りより優れた自分でなければと焦り、葛藤を抱えながら過ごした時代があった。
2-2. 何者かでありたかった
自分はやればできるはず。そんな風に思っていたので、勉強は大して力を入れていなかった。高校受験にあたっても最後に少し腰を据えて勉強したくらいで、当然と言うべきか、第一志望への合格は叶わなかった。
「高校も変わらずですね。やっぱりその裏では自分が価値のある人間だと思えていたけども、兄弟間でも相対的に価値が下がったとか思うんです。弟は久留米大学附設中学という、堀江貴文さんや孫正義さんが通った学校に合格して。姉は修猷館という福岡で一番いい高校へ通っていて。そういうところからも気づいたら自分がヒエラルキーの下層に落ちているような、そんなこと誰からも言われないのですが、本人はそう思ってしまうという感じでしたね」
合格した男子校は進学校で、そのうえ特進クラスだったので偏差値は決して悪くはない。けれど、どうしても過去の自分と比較して、自身の価値に悩みながら3年間を過ごした。
「オーボエは高2の途中ぐらいまで続けましたね。でも、それもなんか中途半端で、ピアノほど楽しくなかったんですよ。ピアノは両手を使って一人で演奏できるので、自己表現が自分の幅で決まるじゃないですか。オーボエはやっぱり単独ではなくオーケストラの中でこそ輝くという世界だったので。だから、勉強も大してせずに、オーボエも真剣にやるわけでもなく、ぎりぎり特進クラスで自分のアイデンティティを保つような感じでした」
現実的にも音大受験は難しい。しかし、ほかに将来やりたいことがあるわけでもない。歯科医だった父からは、いわゆる「先生」と呼ばれる仕事に就くことが価値だと昔から言われていたものの、そこに何か具体的にイメージできる未来もなかった。
「本当にやりたいことがなくて。もちろん当時は起業するなんて発想は一ミリもないし、結構悩んでいましたよね。結局、現役では医学部を受けるのですがあまり意図はなくて、父が歯医者で母が薬剤師だったからぐらいの本当に短絡的な気持ちですよね。それで余裕で落ちるというのが現役時代の話です」
一度目の受験に一区切りがついた頃、久しぶりに再会した友人からかつての同級生たちの進路について耳にした。名だたる有名大学に進学していく人もいるという。
それに比べて改めて自分を見直すと、成し遂げたことよりも後悔の方が多かった。ここからは気持ちを新たに人生をゼロからやり直したいと、本気でそう思った。
「自分は何をしていたんだと、心の底から3年間を後悔したんですよね。ピアノ時代の栄光にすがり、自分はやればできる人間だと勝手に勘違いしておごっていたけれども、実際は何者でもなく、落ちるところまで落ちたと。人生をやり直すために、自分のことを誰も知らない場所で浪人生活を過ごそうと思って、熊本にある予備校の寮に入ったんですよ」
実家のある福岡から離れ、心機一転始めたいのだと両親に説明して入らせてもらった。新しく立ち上がったばかりだというその予備校では、携帯電話やテレビは禁止されている。世の中の情報と触れられるものといえば新聞だけ。隔絶され、軍隊のような管理下に置かれているが、その分朝から晩まで集中できる環境がある。
「ものすごく厳しい世界なんですが、素直だったからそれにハマったんです(笑)。もう人生あとがないと思っているから、ここに懸けるしかないと」
環境を変えたいと思っていたため、九州にある大学は一つも受けなかった。なかでも当時読んでいた受験本に感化され、慶應義塾大学1本に絞ることにした。のちに選び方が安易だったと反省することになるのだが、試験当日の数学でつまずいてしまい、最終的に滑り止めだった横浜市立大学へと入学することになる。
「もう絶対頑張ろうと思って。たくさんサークルを立ち上げたり、友だちを作りまくったりという生活を謳歌しつつ、過去と同じ失敗を繰り返してはいけないという思いがあって、大学1年生から企業のインターンシップに行ったりしていましたね。あとは米国への交換留学プログラムに参加したり、中国やフィジーに語学留学したり、テレビ局で働いたり、いろいろな経験をしました」
とにかく自分から動いて、機会を掴みに行く。たしかに一定の手応えはあった。しかし、求めていたのはもっと揺るぎない何かだった。
「ひたすらに自分の将来に対する漠然とした不安がずっとあって。要はピアニストという道がなくなったとはいえ、何者かになりたいわけですよね。特に、そのくらいの年齢とかってまさにそうだと思うのですが、答えをずっと見つけたいんですよ。でも、結論その答えはずっと見つからなかったですね」
当時は常に、周りよりも一歩でも先んじなければという焦りがあった。やみくもに行動しても、不安や焦燥は消えない。「自分の夢はこれだ」と言える何か、人に示せる何かが欲しかった。
大学時代、友人たちと
ソフトバンクで働く従兄弟から話を聞いていた影響で、就職活動では旧態依然とした企業よりも、勢いのあるベンチャー企業に興味を持っていた。とはいえ、当時は親や周囲からの目線や評価も気になっていて、大企業でありながらベンチャーマインドという軸でソフトバンクへ就職することにした。
「同期が300人くらいいて、最初は一斉に研修をやるんです。その最後に新卒代表プレゼン大会というものがあって、5~6人のチームが組まれていって、その中で僕のチームが優勝したんですよね。おそらくそのチームで圧倒的リーダーが僕だったんですよ。そこが新卒のピークで、『やっぱり俺できるな』となるんです。過去の失敗を忘れて(笑)」
オーディエンスの前で自己表現し、感動させる。その1点のみに集中するという意味において、プレゼンとピアノは似ていた。大学時代には神奈川県が主催する産学連携プログラムで最優秀賞を獲得したこともあるほど、プレゼンは得意で自信があった。
「それを経て孫さんの前でプレゼンする機会もいただいて、アフリカに進出しましょうとプレゼンしたら、『そのダイナミックさがいい!』みたいなことを言われて、一緒に写真を撮るんですよね。その時は『社会人最高だ』みたいなことを思っていたのですが、いざ研修が終わって営業の現場に配属されると、毎日戦士のように働いている大人たちがたくさんいるわけです」
現場では泥臭い通信営業の世界が待っていた。他社の回線を使っている法人に対し、回線を切り替えてもらう。そこではプレゼンがいくら上手くても、仕事のパフォーマンスに比例するわけじゃない。ひたすらテレアポや訪問を続けるなかで、性格上営業が向いているとは思えなかった。
「その時に、自分は何をしたいんだろうとキャリアについて考えたんですよね。当時の仕事はゼロをプラスにする仕事で、要は今不満はないけれど回線を切り替えたらコストを安くできるというものだったのですが、それよりは自分はマイナスをゼロにする仕事の方が好きかもしれないということを思ったりして」
新卒時代、同期と孫さんと
翌年転職したリクルートでも、1年ほどは成果を出せず苦しんでいた。
「結局自分の本質は変わってないんですよ。当時は基本的に他責性がすごく強くて、要は自分は本当はできるのにみたいなことを思っているんです。おそらく大学の時はごまかせたんですよね。でも、社会人になったら自分が作ってきたメッキみたいなものは秒で剥がれるから、先輩方はそれを秒で見抜くわけです」
特に、同社では入社3か月後に受けるJDP研修というものにより、強制的に自分と向き合う機会があった。仕事における言動や姿勢について30ほどの項目を、同僚や上司から採点・評価してもらい自己評価とのギャップを可視化して、最後にはギャップを埋めるための自己開発計画を立て、先輩方の前で2時間ほどかけプレゼンしなければならないというものだった。
「その中で『他責の神』とか、そういうことを書かれるわけですね(笑)。ほかにも仕事で自分本位なやり方をしてクレームに繋がったりして、当時の上司で今でも恩人である方に『もう辞めたら?』と言われるんですよね。『お前が売れるとか結果が出るとか、俺にとっては心の底からどうでもいい、お前誰のために仕事してんの?』と。それがすごく良いメッセージで、きちんとお客さんの方だけ見て仕事しようと、生まれ変わらないとやばいな自分と思ったんです」
慢心して結果を出せず、いよいよ自分もあとがない。上司に言われた通り、お客様の方だけを見て死ぬ気でやってみたいと思った。3か月本気でコミットして、だめなら辞めようと腹をくくる。
その結果、見える世界が変わってきた。
「やっぱりそこで大きかったことは、変化=成長なんだと完全に思えたことですね。やっぱり人間誰しも変わることは怖いし不安だったりするじゃないですか。それが変わるということに対してポジティブさしかなくなったし、変わったら自分が幸せになった。だからこそ、仕事って面白いんだと心の底から思えるようになった期間でしたね」
3か月後、会社でMVPとして表彰され、それ以降トップセールスとして活躍できる自分になっていた。何より仕事が心の底から面白い。初めてそう思えるようになったのは、やはり変化し、成長している自分を実感できたからだったのかもしれない。
リクルート時代、同僚や先輩と
リクルーティングアドバイザーとして企業の採用課題と向き合い数年が経ち、「仕事ができる自分」だと胸を張れるものを手に入れた。しかし、気づけば29歳で、会社の看板で仕事をしている自分に対し、もやもやとした感情が生まれつつあった。
「対外的には一番誇れる自分だったりするわけですよ。でも、だんだんそれを手放せない自分に気づいていくんです。給料がいいからってこのまま会社にしがみつく大人になりたいのかなとか、気づいたら年を取っていたりするのかなと思うと、それがとても恐ろしいなと、逆に不安を覚えるようになったんですよね」
そんな時スカウトを受け、出会った会社がキュービックだった。組織拡大に向け、人事として採用の仕組みづくりから入ってほしいと、代表自ら熱心なオファーをもらったことがきっかけで、新しい挑戦へと踏み出すことを決心した。
「当時福岡にいたのですが、代表の世一さんが3回ぐらい会いに来てくれたんですよね。そこまでしてくださることに対しての恩義もあったし、自分も外から採用の支援をやっていたのですが、企業人事として中でやるのは全く違うじゃないですか。人事としてキャリアを積むのもありだなと思って」
人事という仕事は、思った以上に楽しく向いていた。自分自身働くことやキャリアについて長年苦しんできたからこそ、テーマとして関心があるうえ、相手に合わせて心動す表現を考えていくことは何より得意な領域だ。
組織としても、当時は特にプライベートと仕事を分けずに自然体な自分でいられるカルチャーがあり、不必要に取り繕う必要がない心地よさがあった。
「自己表現の話に繋がるのですが、おそらく自分を表現するということに対して好きであると同時に臆病でもあるから、臆せず全部出せるとなるとパフォーマンスがものすごく上がるタイプだったんですよね。だから、自分が信じるがままに会社の未来に向かって全力でやることができたんです」
会社が素晴らしいと心から信じていたからこそ、人事という仕事もやりがいあるものになる。採用候補者との面談でも、相手を口説くというスタンスではなかったため、純粋な思いで相手と対話することができた。
全力で答えのない問いに向き合いつづけるうちに、採用から組織づくり、会社づくりへと目線の抽象度は上がっていった。
「代表の世一さんという方が、もともと塾講師をやっていて人に何かを伝えたり教えたりすることがすごく上手な方で、世一さんから学びを得るということがものすごく嬉しかったですね。のちに会社をやるうえでエッセンスになったことがたくさんあって、今でも感謝しています。会社で雇われるのではなく、作る側に回った感覚になったのもその頃でした」
キュービック時代、代表の世一さんと
2年ほどの期間を経て、組織は30名から300名規模へと成長。その過程で人事として採用や組織づくりに携わることができたことは得難い経験だった。
だからこそ、のちに親族が経営していた幼稚園を手伝うことになった時も、当初は自信に満ちていた。けれど、ビジネスの論理は教育現場では通用しないと気づかされる。
「いざ最初に職員室で挨拶をした時に、『これからは変化が必要です』とMacBookを持ってプレゼンしたんですよ。そしたらしーんとして、全然世界が違うわけです。先生たちからしたら『何言ってるんだこいつは』という状態ですよね」
仕事に対する価値観の違いから、先生たちとなかなか理解し合えない。ビジネスと教育では、人も文化も組織の在りようも全てが違う。当時はそれが分からずに、空回りしては悩んでいた。
変化を求めてコーチングを受け、1年ほどかけて向き合いつづけた結果、分かったことは自分が無意識に人をジャッジしているということだった。
「素晴らしいパフォーマンスを発揮している自分、つまりピアノの演奏を周りから褒めてもらえた、認めてもらえたという過去の体験から、パフォーマンスを上げている人間は価値があり、そうではない人間は価値がないんだと。心理学の専門用語で言うところの『価値なしモデル』が自分の中にできあがってしまっているんだということに気づいたんです」
結果が出ても出ていなくても、誰もが存在そのものに価値があるはずだ。けれど、人をジャッジすることにより、相手の「ありのまま」を受け入れられなかったり、心を開く相手を限定している自分がいたと知る。
他者だけでなく自分自身に対してもそうだった。パフォーマンスを出せていない自分に焦り、否定し、苦しんできた人生だった。長年の葛藤を解消する答えは、自分の内側にあるものだった。
「自分の本質は自己表現にあって、美しいと思うもの、素晴らしいと思うものを表現したいと思っている。でも、そうやって人をジャッジすることは、小学6年生の時の自分に置き換えると、演奏を聞いてくれる観客を半分にする行為なんだと。それは子どもの時の自分に対してものすごく失礼だし、悲しむよねと認識できてから、本当の意味で内発的なリスペクトの感情が出てくるようになりました」
心が変われば世界の見え方が変わる。何よりパフォーマンスにかかわらず、どんな自分でも素晴らしいと100%思いきれている。必要以上の自己否定から解放されたことにより、自分が何を大切にしたいと思うのか、何に幸せを感じるのかが分かってきた。
ビジネスが好きな自分もいれば、子どもと遊ぶことが好きな自分もいる。ロジカルに数字の成長を追う自分と、人間力で勝負する世界を楽しむ自分、両方あるからこそ豊かな人生なのだと思えるようになった。
「教育現場で感じた課題がたくさんあって、その課題はどうやらうちの学校だけではなくてほかの学校でも同じなんだと気がついて。もっとこうすべきだよねと掲げるもの、『教育のオープン化』というミッションを社会に発信する手段として、2021年にクジラボを始めました」
「教育のオープン化」は、クジラボが創業時から掲げているミッションだ。開かれた園を運営していくことと、事業を通じて「教育のオープン化」というメッセージを発しつづけること。両者の目指すところは同じである。
クジラボを通じて、自分のように生き方やキャリアに悩む人を支援したい。教育という尊い仕事に携わる人たちの思いが報われる世の中にしたい。そのために多様な人や価値観、キャリアが交差し、有機的に発展していく社会をクジラボは描いていく。
ロジカルに数字を追うビジネスの世界から、純粋に人間力を高め子どもたちと向き合う教育現場という正反対の環境に身を置いてきた森實は、双方を経験したからこそ、どちらにもリスペクトされるべき価値があるとする。
かつては誰もが認める成功や誇れるキャリアを追い求め、葛藤してきたが、結果的にそれらが人生の全てではないと気づいたと振り返る。
「やっぱり学校現場に関わって思ったことは、どう考えてもこの競争の世界の中で全員が勝ちつづけるなんて無理だし、その中に入ることが幸せではない子どもがいることは間違いないということなんですよ」
たとえば、簡単な片付けがうまくできずに、人より時間がかかってしまう子どもがいたりする。生まれつきの得意不得意や育った環境など、本人の努力ではどうしようもない違いというものは常にある。同様に人それぞれ輝ける場所も違えば、豊かさを感じられる生き方も違う。
けれど、社会ではしばしば競争を勝ち抜き、勝ちつづけることが正義であるとするメッセージが発せられている。
「間違いなくお金がないよりはあった方が豊かだし、競争に勝った方が豊かになる確率は上がるんだけれども、でもおそらくそこにハマれなかったときでも、お金がなくて貧しくても、仕事の報酬がすごく高いわけではなくても、自分は幸せなんだとみんなが思える社会の方が豊かだなと思ったんですよね」
幸福で豊かな人生とは、必ずしも成功者のことを指すものではない。格差が広がる時代だからこそ、改めて自身の生き方や幸福の物差しを見つめ直すことの重要性が増していると森實は考える。
「僕たちの競合に『年収を100万アップします』というコンセプトで先生のキャリア支援をしている企業もあるんです。それも一つの価値ですよね。その方が分かりやすい価値ですが、僕たちの立ち位置としては『みなさんには素晴らしい価値がある』という前提で支援したいと思っているんです」
幸せや人生の豊かさは、他人との比較のなかには見つからない。それらを形作るのは、何より心の在りようだ。自分にとって価値あるものが明確になるからこそ、他人や環境に左右されない揺るぎない意思が芽生え、自信を持って歩めるようになる。
どんな自分であれば幸せか、自分にとって大切にしたいものは何なのか。内省し、問いつづけること自体に価値がある。
2024.7.23
文・引田有佳/Focus On編集部
豊かさの尺度が多様化し、生き方の正解がない世の中では、子どもを導くはずの大人たちさえしばしば迷いの中にいる。ビジネスと教育現場の最前線を経て、自身も長年葛藤しながら、現在はどちらにも属する生き方に豊かさを見出しているという森實氏。
かたやビジネスマンとして努力し、ときに競い合い、成果をつかみ取る。いわゆる自己実現を通じて幸福を得る世界がある一方で、純真無垢な子どもたちの世界はただただ可能性に満ちている。
ミッションとして掲げる「教育のオープン化」も、2つの世界を行き来する思考や経験があったからこそ生まれてきたものと言えるだろう。
多くの子どもにとって、先生とは人生の序盤で出会う数少ない社会との接点だ。大人の価値観が変われば、子どもの未来が変わる。価値のない人なんていないと心から信じられる、その土壌を育む重要な仕事に就く人々が、より誇りや納得感を持って生き生きと働ける社会を、クジラボは創り出していく。
文・Focus On編集部
株式会社クジラボ 森實泰司
代表取締役
1986年生まれ。福岡県出身。大学卒業後、ソフトバンク株式会社にて法人営業に従事。株式会社リクルートにて採用コンサルタントとして多数MVPを獲得したのち、株式会社キュービックにて拡大期におけるITベンチャー企業の人事責任者として採用・人事企画などに携わる。独立後、2019年より学校法人の事業を承継し、私学経営を行うかたわら、教育現場における構造的な課題に直面した経験から、2021年に株式会社クジラボを創業。