Focus On
前田紘弥
株式会社アーバンエックステクノロジーズ  
代表取締役
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or常に真剣勝負だからこそ見えてくる世界がある。
「創造力に国境なんてない」をビジョンに掲げ、世界126か国以上、約6万2,000点のアート作品を取り扱うグローバルマーケットプレイス「TRiCERA ART(トライセラアート)」を運営する株式会社TRiCERA。同社では、言葉や距離、煩雑な流通の手続きなどアートの海外進出に伴い生じる障壁を取り払うとともに、アーティストのキャリア形成をも支援する。
代表取締役の井口泰は、10代の頃、子役としてドラマやCMで活躍。大学卒業後は老舗音響機器メーカーやドイツ最大手医療機器メーカーでのキャリアを経て、ナイキへとジョイン。サプライチェーンや国際物流領域にて複数グローバルプロジェクトを手掛けたのち、2018年に株式会社TRiCERAを設立した。同氏が語る「挫折がつくった生き方」とは。
目次
無から有を創造する行為には、挫折がつきものだ。制作過程そのものや評価、経済的問題など、さまざまな理由から道半ばで歩みを止めてしまう人は多い。才能を秘めたアーティストたちが、あきらめずその創造性を十二分に開花させ、羽ばたける環境をつくりあげること。そこにTRiCERAの根幹となる思いがあると井口は語る。
「ビジョンである『創造力に国境なんてない』、これは英語で言うと『Creativity has no boundaries』なんですが、性別や年齢含め、アートやアーティストたちの前に立ちはだかるさまざまな障壁をなくしていきたいという思いも込められているんです」
アジア最大級を誇るグローバルアートマーケットプレイス「TRiCERA ART(トライセラアート)」では、2022年7月現在、6,500名以上のアーティストが登録し、その国籍は126か国以上。絵画・写真・彫刻などアート作品約6万2,000点が購入可能となっている。
通常、国境を超えたアート取引においては、多言語での作品説明や価格交渉、出荷や配送、決済、返品手配など数々のハードルがある。アーティスト1人でそれら全てに対応することは現実的とは言えない。
「TRiCERA ART」では8か国語に対応し、翻訳やカスタマーサポートなどを一気通貫で担うほか、真贋証明書付きで全世界送料無料という明瞭なシステムを提供する。アーティストは出品するだけで活躍のフィールドを広げられ、あとの時間は制作に集中できるというわけだ。
「変に鎖国する必要はなくて、もっと外に目を向けてマーケットを伸ばしていく。英語ができないならできるようになったらいいだけであるように、無意識に自分に制限をかける必要はないと思うんです」
アートの市場規模が小さい日本では、限られたごく一部のアーティストを除き「アートで生計をたてること」は難しい。それならはじめから国内という枠組みにとらわれず、日本も含めた全世界へと流通させる仕組みをつくればいいのではないか。そんなシンプルな発想から、TRiCERAの事業は生まれた。
さらに今後は、アーティストが中長期的に飛躍していくための支援体制を構想しているという。
「TRiCERAのマーケットプレイスはステップ1に過ぎません。我々がつくりたいものはただのマーケットプレイスやプラットフォームではなくて、エコシステムそのものなんです。今後はTRiCERAに参加してくれているアーティストのキャリアをどう作っていくか、ここを足掛かりに成長してもらえるような形にしていきたいと思っています」
アーティストにとって、1回の展示に勝る経験はないと井口は語る。たとえば、TRiCERAが世界中にギャラリーをつくり機会を創出する。成長を促進させるために教育の受け皿を整える。
それにより1人でも多くのアーティストが成長すれば、経済効果もついてくる。質の高い作品がより活発に流通することでマーケットが成長し、社会でのアートにまつわる認識が変わる。そうなれば本気でアーティストを志す人も増えていくだろう。
アートとアーティストのためのエコシステムを創造する。社会に眠る可能性と本気で向き合うTRiCERAの挑戦は、まだ見ぬ才能を世に解放していく。
「TRiCERA ART」より
かつて日本中の子どもたちがテレビの前に集まって、待ち遠しく思っていた時間がある。毎週水曜夜7時、全盛期の人気漫画『ドラゴンボール』のアニメ放映だ。
当時はまだCDもない時代、テレビの前にラジカセを置いて、兄と姉が録音したテーマソングをカセットテープが擦り切れるくらい再生し、一緒に歌っては楽しんでいた。3兄弟の末っ子だった井口は、2人の真似をして歌うことが好きだったと振り返る。
「兄と姉がいると、やっぱり真似しますよね。当時から歌うことは結構好きで、今はカラオケが大好きなんですけど(笑)。たぶん歌うと褒められたり、人が喜ぶ顔が見たかったんじゃないかな」
父は生え抜きで立身出世したサラリーマン。母はもともと劇団員として人前で演じていた人だった。ダンスや舞台の経験があり、一時はダンスの先生をやっていたこともある。3人の子を産んだあとも舞台に立っていて、よく父と2人で足を運んだという。
「母の舞台の発表会があると、毎回僕と父とで観に行っていました。姉とか兄はほとんど行かなくて。そのあと僕は子役をやることになるんですが、母の影響だったのかもしれないですね」
意外にも小さな頃は、比較的おとなしい子どもだったと井口は語る。しかし、その後小学校に入学し、家族以外の友達との出会いのなかで本来持っていたであろう創造性を表に出せるようになっていく。
「小学3年生くらいのとき、運動会でダンスを披露したりすることがトレンドだったんですよ。そこで僕は母がダンスをやっているし、先生だし、子どもながらに『ダンスは俺やろ』みたいに思っていたんでしょうね。今思うと恥ずかしいんですが、先生の代わりに振り付けを自分で考えて、クラスのみんなにリーダーシップを取っていた記憶があります(笑)」
母が演じ、多くの人の心を動かす姿に影響されたのかもしれない。ダンスの経験はなかったが、やってみたいと自ら手を挙げていた。
踊りには当時流行っていたJ-POP、TRFの『EZ DO DANCE』の動きを取り入れた。子どもなりの振り付けでたいしたものではなかったが、親からすれば可愛くないわけがない。みんなで披露すれば歓声が上がり、予想通り喜ぶ人たちの笑顔を見ることができた。
当時から何かにつけて、「やってみたい」と心沸き立つような気持ちがあった。
「好奇心旺盛なタイプだったんです。なんでも知りたいと思うし、なんでも首を突っ込みたい、なんでもやってみたい。昔から、チャンスがあるならどんどんトライしていくところがありました。子役をやりたいと思ったのも自分からで。多くの子役はお母さんとかに言われて応募することが多いんですが、僕は自分からだったんです」
小学校の運動会にて
新聞のテレビ番組表の左下、そこに子役を募集する芸能事務所の広告を見つけたのは、小学4年か5年になる頃のことだった。おそらく母が舞台の仕事をしていたことも、背中を押してくれる一因だっただろう。気づけば好奇心が抑えられなくなっていた。
「母に『応募したい』といきなり言ったら、『なんやこれ』って(笑)。当時、応募するのに1万2,000円かかったんですよ。しかも、オーディションに合格したら入学金が20万で、月謝が1万4,000円。まだ金銭感覚もない頃でしたが、いまだにその金額を覚えているくらい、子ども心にも高いなぁと思いましたね。でも、基本的にやりたいことはやらせてもらえる環境だったと思います」
あとから知ったことだが、実際入り口のオーディション自体はそこまでハードルが高くないようだ。大変なのは、そのあとである。
レッスンを受け、めげずにオーディションに挑戦しつづける。そう簡単にドラマや映画に出演できるわけもない。本気でやれない人は自ずと脱落していく過酷な世界が待っていた。
「常に真剣勝負です。厳しい世界なので、真剣に勝負していない人たちは視界に入らなくなってくるんですよね」
いつも真剣に、本気で勝負する。オーディションも本番も、それが自分にとって自然な状態になってしまうくらい、手を抜ける瞬間は存在しなかった。それでも成功が約束されることはなく、発声や演技のレッスンにひたすらに打ち込んだ。
なかでも演技の基礎として無意識の癖になるほど叩き込まれたのは、人の心理を洞察し理解する技術や、自分を印象づける技術だった(思ってもみなかったが、それは将来、働くうえで糧となる学びになっていく)。
加えてその道数十年のベテラン俳優たちとの共演は、人生に大きな影響をもたらした。
「300メートル先にいても分かるくらい本当にオーラがすごいし、かっこよくて。よくスーパースターが来たときにファンが失神するとかあるじゃないですか、あれも分からなくないなと。それくらい圧倒的な存在でした。そういう人を間近で見たり共演したりするうちに、役者の道に進みたいという思いは強くなっていって」
将来ああなりたいと憧れを抱かずにはいられない。追いかけたい背中は明確で、そこに妥協はないのだと物語る何かがあった。
「子役時代の経験があったからこそ、僕はなんでも150%力を出しにいく気質になっているんだと思います。自分がやることに対してなんでも150%の力を出す。そうすると好きじゃなかろうが好きになるんですよ。やったら楽しいし、どんどんやってきて。行き過ぎることもあるんですけどね、子どもと遊ぶときも本気だし、それはやめとけよという話で(笑)」
人生の大先輩であり、成功を手にした大御所たち。その輝きに10代の少年期から影響を受けてきた。
だからこそ、確信できた1つの真理がある。何事にも本気で挑むのは当たり前だということ。望む未来を手にするためには、本気で行動する自分が必要不可欠なのだ。
子役時代
「上には上がいる」とはよく言うが、想像と現実のあいだのギャップは予想以上に大きいものだ。井口の場合、15歳になる頃に圧倒的な才能を持つ子役と出会い、打ちのめされたという。
「よく言われることではありますが、役者って2つのタイプがあると思っていて、技術の役者と天性の役者です。後者は憑依型なんですよ。台本を見なくても魂が乗り移っているように演技する。僕はどちらかというと前者で、テクニックでカバーするタイプだったんです」
役者として必ずしも憑依型が優れているという話ではない。けれどどうしても、テクニックを磨くには時間がかかる。経験が少ない10代の子役においては、やはりロジックで計算された演技よりも天性の能力がものを言う。
大俳優とNHKドラマでダブル主演を果たすなど、それなりに築いてきたものがあるつもりだった。けれど、その自信が無に帰るほど力の差を見せつけられた。
「壁にぶち当たって。今でも思うんですが、勝てないと思ったら終わるんですよ。勝てないと思ったら折れるしかない。その時に『今は勝てない、でもいつかは』と思えるかどうか。僕はその時思えなかったんです。今でも後悔しています」
無力感を味わい、夢をあきらめる。1週間ほどは何もする気が起きず、寝込んでいた。表現者としての挫折を経験したことがある井口だからこそ、「続けること」の尊さを知っている。
「続けることにすごく価値があると思っていて、そこがTRiCERAの根本に繋がるんです。TRiCERAに参加しているアーティストは続けている人たちなので。あきらめた方が楽なことは多いなかで、続けるって実はすごく勇気がいるし、本当にとんでもなく尊敬されるべきことで。それをどうやってサポートしていくかがTRiCERAの挑戦なんです」
最終的な選択はどうであれ、子役としての活動には本気で前進していく充実感があった。一方、中学生だった当時の本分である勉強はあまりうまくいっていなかった。授業中は机の下で本や漫画を読むのが好きで、せっかく小学校では良かった成績も下降の一途をたどっていた。
「先生の話が面白くないと、授業を聞きたくなくなる拗らせている中学生で(笑)。そういう教科だけ明確に下がるんです。話が面白い先生の教科は成績がよくて。思えば常にエンタメ性を求めているのかもしれない。『話面白くてなんぼやろ』と」
再起をかけて、高校は全国でも唯一の演劇科がある兵庫県宝塚北高校を受験した。試験はダンス・歌・演技で行われ、筆記はない。勉強の成績が悪かったとしても十分に合格可能性がある。
ただし、受験者300人に対し合格できるのは30人程度。競争率は10倍ほどで、限りなく狭き門だった。
本気で臨んだが、結果は不合格。挫折に挫折が重なり、目標を見失ってしまった。
「ドロップアウトして腐っていたんですが、当時従兄弟のお姉さんがカナダに留学していて、そのホームビデオを見た時にこういう道もあるよねと思って。当時馬が好きだったのでニュージーランドに留学することにしたんです。でも、行ったら羊しかいなかった(笑)。羊5千頭に対して馬が1頭くらいの比率感でした」
高校時代、留学先のニュージーランドにて
ニュージーランドでは都市部以外に鉄道網が発達していないため、都市間の移動手段は基本的にバスだった。広大な緑の平原に、連なる山脈。空は見渡せないほど広い。
高校の試験を受けるためバスで舗装されていない田舎道を進むと、羊の大群に囲まれ2時間立ち往生したこともある。大好きなカラオケもなく、代わりに遊びは崖の上から湖に飛び込むことだった。日本とは何もかもが違う世界だ。
留学の手続きはエージェントを頼ることもできたが、お金がかかる。ほかに道はないからこそ奮起した。Google翻訳のように便利で無料のツールもない時代、英和辞書と格闘しながら自分でメールを書いて、諸々の申請をする。おかげでかなり費用を安く抑えることができた。
最初の3か月は語学学校に、その後はホストマザーの薦めで現地の高校で学び、初めての海外生活を思いっきり楽しんだ。
「この時の原動力は、単純に好奇心ですよね。演技や役者の世界から、外の世界への好奇心がどんどん出てきた時期でした」
2年間の留学生活を終え、帰国してからはマクドナルドでアルバイトを始める。当時は海外生活の影響をもろに受けていたという。
「いわゆる意識高い系に変わっていて、中学や高校が狭い世界だと感じていたんです。実はニュージーランドはもっと狭いんですが、とはいえいろいろな文化に触れていると、日本は単一文化なので視野が狭くなってくるんじゃないかと思って、大学に入ってもしょうがないよなと。17~21歳くらいまで、本当に僕の中ではモラトリアムですよね。遊んでチャラついてこそいなかったんですが、青春の時代でした」
アルバイトで同年代の友だちをつくり、青春を謳歌する。しかし、次第に周囲が大学受験を意識しはじめるにつれ、焦りも生まれてきた。このままでいいのだろうか、大学には入った方がいいのかもしれないと思える。
仕方なく英語の点数のみで受験できる甲南大学を選び、ようやく晴れて大学生となった。
「大学では自治会に入っていました。自治会というのは学生の自治組織で、基本的には大学側から降りてきた予算を体育会とか文化会に配分する役目なんですよ。学園祭の運営・統括をしたり、イベントを取りまとめたりする。気軽な気持ちで入ったものの、やるからには150%力を注ぐようになって」
たとえば、あるとき学内で喫煙所以外での喫煙が問題になったことがある。大学からは、なんとかしてほしいと自治会に依頼が来る。無茶ぶりとも思えたが、真剣に考えた。
ちょうど当時アニメ『攻殻機動隊』が流行っていたことから着想を得て、作中に登場する治安維持の公安組織「公安9課」にちなんで「甲南9課」をつくろうと企画した。テクノロジーを駆使して喫煙者を特定し、見つけ次第逮捕する。実際に企画が実現することはなかったが、そうして何事も真面目に楽しく向き合ってきた。
「常に本気じゃないとやっぱり楽しめないんですよ。仕事でも遊びでも、余裕を持ってやっていて何が楽しいねんと僕は思うんです。そこまで自分をコミットさせる。やると決めたら絶対やりきる」
本気でなければ面白くない。面白くないから本気になれないのではなく、自分自身の在り方として、常に本気であるからこそ楽しく刺激に満ちた世界と出会える。好奇心を満たしてくれる世界は、そうやって見つかるのだと当時から信じていた。
子役の夢をあきらめて以来、あまり真剣に将来を考えたことはなかったが、モラトリアム期間の終わりは近づいていた。大学卒業、そしてその前に就職活動に取り組む必要があった。
ひとまず興味のあることから考える。昔からアニメや漫画は大好きだった。そこから自然とテレビ局や広告代理店などエンタメ系に興味を持った。
「面接では子役時代の経験が悪い方に出たんです。笑いを取ったらいけるという意味の分からないロジックが自分にあって。とりあえず初回面接では面接官を笑わせることを自分に課して、ほかは何も準備せずに行ったんです。それは落ちますよね、オーディションじゃなくて面接だし」
どれだけ真面目な質問が来たとしても、全てボケで返すと決めていた。印象は残せるが、二次面接以降はさすがに通用しない。笑いを取るだけではだめなのだということに、就職活動を始めて半年ほど経ってようやく気づく。
なんとか軌道修正し、最終的には老舗音響機器メーカーであるD&Mホールディングスから内定をもらい、入社することした。
「D&Mというのはデノン・アンド・マランツの略で、老舗のメーカー同士が合併している会社なんですが、僕はマランツが好きだったんですよ。それなのにデノンチームに配属されたんです。当時のボスが『君はデノンっぽい』と言って。なんでやと思いながら(笑)」
グローバルに展開する同社のなかでも、配属されたのはアジアパシフィック統括本部だった。管轄はオーストラリアを含むアジア太平洋地域。同社のマーケットとしては最も小規模だったが、数でいえば日本以外のAPAC加盟国を中心とする30か国ほどにものぼる。
仕事は近隣のアジア諸国の支社とも連携しながら進む。外資系の社風のなかで先輩にも恵まれ、新卒として鍛えてもらうことができた。
「ヨーロッパ、ノースアメリカ、日本、APACとあって、1番売上が小さかったので人員も少なくて。マーケからファイナンス、オペレーション、ロジスティクス、総務含めて全部やらなきゃいけなくて、当時の経験が会社を経営する今すごく役立っていますね」
新卒の頃、D&Mホールディングスの先輩たちと
環境が様変わりしたのは2008年、世界経済を震撼させたリーマンショックが契機だった。
市場は混乱し、多くの労働者が職を失った。全世界でブランドを展開するD&Mも、業績への深刻な打撃を免れなかった。
「リーマンショックって体験組からすると本当にすごくて、それを皮切りに全てが変わってしまったんですよね。採用は停止になるし、誰かがリストラになるし。早期希望退職の募集もあって年1回が普通なんですが、当時は四半期に1回でした」
いわゆる肩たたきに遭う光景を、現実に目撃したりする。気づけば20人いた部署が3人になっていた。
上司も同僚もいないなか、グローバルプロジェクトが発足する。そうなれば自分しか担当する人がいない。平社員ながら懸命に仕事と向き合ううち、ついに過労で倒れることになった。
「人生で1番きつかったですね。人って働きすぎで倒れることもありますが、それでも光が見えていたら頑張れる部分があると思っていて、僕はこの時に全く何も見えなくなっていたんです。ただ、そのときもどれだけ本気でいくかだと思っていたので、フルコミットしつづけていました」
会社自体は素晴らしかったが、終わりの見えない経済不況はあまりにも過酷だった。自分の弱さを悔やみつつ、過労で倒れたことをきっかけに転職を考えはじめていた。
「BtoCビジネスでリーマンショックの影響をまともに受けて、結構下がるときは下がってしんどいなと。今なら真逆で、そのダイナミズムが面白いと思えるようになったんですが、当時はBtoBの方が安定しているし給料も高くていいなと思ったんですね」
転職先として、ドイツ最大手電機メーカーであるシーメンスで働きはじめる。担当したのは医療機器の受発注にかかわる業務だった。
長時間労働で体を壊した前職の反省を活かし、フルコミットしながらも効率を追求。それにより、仕事のスピードを上げるためには、オペレーションにおける判断スピードを速めることが肝心だと気がついた。
「それが変わると日常のタスク処理スピードが2、3倍変わってくるんです。おかげで通常1人で月に60オーダーのところ、僕だけ250オーダーさばくことができるようになって。これを仕組み化するシステムを作ったら、ベストプラクティスとしてグローバルでも展開されるようになり。オペレーショナルな部分は、仕事の進め方でこれだけ差が出るんだなと思いました」
残業している人よりも、残業なしで効率よくオペレーションを処理できる。それを仕組み化して組織に展開した。コミュニケーションや判断速度においては、属人性を完全に排することはできないものの、それでも大いに貢献できた実感があった。
厳しい環境でも逃げずに本気で向き合った経験が、その後の成功に繋がったのかもしれない。約3千人いる日本支社でも限られた数人しかもらえない表彰を受ける。その頃から、仕事で見える景色が変わってきた。
「150%力を出してみないと分からないことの方が多くて。本気で取り組んだものが形になって初めて見えてくる次の世界がきっとあるはずだと思っています」
仕事上でも「本気」が道を拓く。光の見えない暗闇のなかでも、あきらめず続けた挑戦の先、たしかにそこには次なる世界が広がっていた。
純粋にビジネスマンとしての成果を追い求めていた当時、起業へと繋がるきっかけは新天地となるナイキで見つかった。
「実はシーメンスに行く前にもナイキを受けていたんですよ。そのときはご縁がなかったんですが、それから人事の担当が変わって、『井口さんのことを評価していた人がいるので、一度会ってみませんか?』と、リクルーターの方からお声がけいただいて」
そこでは「この人の下で働きたい」と思える人の存在が、転職の意思決定を大きく後押しすることとなる。
プロフェッショナルとしての鋭い思考と、包容力を併せ持った人。現在同社の経営陣の一員でもあるというその人は、のちに上司部下の関係でともに働くことになる。その背中に憧れた。
給料は下がることになるが、下がった分の給料は実力で上げていけばいい。そう意気込んで働いた結果、半年で昇格したのち、1年後には国内直営店舗サプライチェーンの統括マネージャーへと最年少で昇進。グローバルカンパニーであるナイキの本社、米国オレゴン州ポートランドへと渡る機会を得た。
「次世代幹部の研修プログラムを受けていて、全世界から集まる12人のうち1人として参加していたんです。どうやってナイキでイノベーションを起こしつづけるかという問いに対して、チームで取り組むプロジェクトで。そもそもイノベーションってなんなんだというところから、イノベーションを起こしつづけるために何が必要なのかとディスカッションしていました」
メンバーはそうそうたる顔ぶれだ。ハーバード主席から、マッキンゼーや四大監査法人出身者まで、まさにトップエリートたちが欧米やアジアなど世界各地から集結し、議論を交わす。
しかし、なぜだかワクワクとした気持ちが浮かんでこなかった。
「ナイキの概念に『Think out side of the box』というものがあるんです。箱の外側で考える、つまり常識にとらわれるなということなんですが、それがないんじゃないかと感じてしまって。役に立つけど本質に迫りきってないような、なんでかなと考えていたんです」
理由は分からないまま、ポートランドで過ごす時間を楽しむ。現地に滞在中は、創業者フィル・ナイトの誕生日会が催されることになっていた。そこに参加し、ナイキの創業期をつくりあげた偉大なるレジェンドたちと会話したことで、ようやく違和感の正体に思い至った。
「そもそも視座が違うんだと思ったんです。ナイキのエリートは自分の部署か会社でしか物事を見ていない。でも、レジェンドたちは社会とか世界の規模で見ているんですよね。そこにはとんでもなく分厚い壁があると気がついて」
目の前で向き合う仕事に対して、本当の意味で自分事になっているか。地位や昇給のためではなく、社会や世界のために思考しているか。本気の挑戦とはどんなものなのか、考えさせられた。
「時を同じくして子どもが生まれたんですよ。自分の子どもが成長したとき、このままじゃ10年後くたびれたおじさんになるだけだなと思って。そんな姿を見せたくない、かっこいいパパでありたいとか、そういうことを感じたんですよね。そのためには、もっとリスクを取っていかなきゃいけないし、アクションを起こしていかなきゃいけないと、そう思って起業したんです」
イノベーションは、ただエリートたちが集まって喧々諤々と議論したところで生まれない。社会と本気で向き合う1人の情熱や行動こそが、常識を塗り替えていくのだろう。
起業という新しい世界に一歩踏み出すときが来た。
ナイキで働いていた頃、仲間と
どんな分野で起業するかは、当時目に映していた世界からヒントを得た。
「もともと海外に出張する機会が多かったので、ふわっと感じてはいたんです。日本のアートって世界に出ていないなと」
ポートランドは歴史的にもアートの街でもある。美術館だけでなく、カフェやレストラン、道端にさえ無造作に、けれどたしかな存在感を放つ作品が自然に溶け込んでいる。
しかし、日本人の作品はそこにない。なぜだろうか。
疑問に対する答えを求め、アート関係者に話を聞きはじめた。昔からの知人であるアーティストはもちろん、アートフェアのような場に足を運んで突撃で話を聞かせてもらったこともある。創業後も続けることになるその活動の成果として、最終的には1,500人ほどの意見を集めた。
そこで見えてきたのは、挫折に直面する多くのアーティストたちの窮状だ。かつて自分が表現者としての夢をあきらめた時、苦悩や葛藤の末にやむを得ずした決断の重さが心によみがえった。
「アーティストを続けられない人が大勢いる、続ける人たちをどうやってサポートするべきか。そう考えたときに、日本で売れなかったのなら海外で売ればいいんじゃないかと。そういうシンプルな発想と、Farfetch(ファーフェッチ)というイギリスのベンチャー企業のことが結びついて」
アイデアの源になったのは、世界中のセレクトショップが集結するファッションEC「Farfetch」だった。全世界800店以上のセレクトショップに500以上のブランドが取り揃えられていて、対応言語は190か国以上。世界のインフラとして機能する、そんなマーケットプレイスの在り方は昔から印象的だった。
本来、アート作品もそうであるべきなのではないだろうかと思う。国内のマーケットで売れないのなら、全世界とつながり流通されればいい。日本から他国へ、あるいは他国から日本へ。最終的には国を問わずアートが取引される。もともとサプライチェーンや国際物流領域を担ってきたからこそ、どうやってそれを実現しているのかという想像もしやすかった。
アーティストを支援する第一歩として、まずそうあるべきではないかと考えるようになった。
2018年11月、株式会社TRiCERAを設立。そこに国境という概念はなく、あるのはただ信念に基づく挑戦のみ。社会に必要とされるイノベーションを、アート業界にもたらしていく。
何事にも本気にならなければ面白くないと井口は語る。なかでもスタートアップを起業するなら、本気の覚悟の有無が問われる。
「起業してからの3年半を経験してきて、まだまだ成功しているというレベルではない僕が言うのもなんですが、僕は1番大事なことはやり切る覚悟だと思いました。真剣で覚悟がある人に0→1はついてくると思うんです」
たとえば、シンプルに儲かりそうだと分かるビジネスなら人集めには困らない。追いかけるべき理想は明確で、道筋も描きやすい。
一方で、未知の領域を進んでいくビジネスはそうはいかない。求める理想はあるものの、誰も道筋を知らず、本当に存在しうるのかすら実は分からない。多くのスタートアップ企業がそうであるように、0→1といわれる世界で理想をつかもうともがくなら、まず何より先頭を走る者の覚悟が不可欠になる。
「自分が絶対にこのマーケットを切り拓く、この会社を軌道に乗せるという強い覚悟を持っていないと0→1なんて簡単につぶれます。それを見てきましたし、その覚悟があるなしは1回自分に問いかけた方がいいと思っています。もし覚悟がなかったら人を採用すべきではない」
会社と命運をともにする。人生をかける覚悟を決める。そうして結果はあとからついてくる。
臆する瞬間もあるが、どうせやるなら全力でやらなければ何も成し得ない。創業時、個人補償で融資を受けた時から、井口は覚悟を決めたという。
「大丈夫かなと、不安になるときも人間なので結構あります。ただ、ある意味楽観的なところもあって、たいていのことは頑張ればなんとかなると信じているんです。がむしゃらにもがいてでも見つけなければいけないし、見つけられる。前を見つづけるとチャンスはやってきたりするし、ブレイクスルーも起こったりする。でも、下を向いてしまうと何も気づけなくなる」
資金が底をつきそうになったり、信じた仲間との別れもあるかもしれない。理不尽にも思える状況に陥ることもある。それでもあきらめず続ける。本気の覚悟があれば、その先にある世界を目にすることができる。
2022.7.29
文・引田有佳/Focus On編集部
10代の早いうちから、ベテラン俳優という、ある種道を究めたプロフェッショナルと肩を並べて一つのものを創りあげる。それだけでも稀有な経験に思えるが、時と同じくして井口氏は挫折も経験している。
誰もが憧れるような背中を追いかけながら、ふと目の前の同年代と自分を比べてみると、圧倒的な差をつきつけられる。そこにある葛藤や感情が、濃い原体験となっていくことは想像に難くない。
だからこそ、アーティストの「続ける勇気」を支えるTRiCERAの事業に繋がっていると言えるし、「このままでは終われない」という意思が、外へ外へと世界を広げ、本気で立ち向かっていく原動力にも繋がっているのではないだろうか。
挫折があったからこそ、できる挑戦がある。
TRiCERAがつくるアートのマーケットプレイスは、夢追うアーティストがその道を続け、国境を問わず活躍できるようにする。そこに井口氏の人生からくる思いが乗っているからこそ、挑戦する人を応援するエコシステムとして世に根を張っていくのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社TRiCERA 井口泰
代表取締役
1986年生まれ。大阪府出身。大学卒業後、老舗音響機器製造業にてキャリアをスタートする。ドイツ最大手医療機器メーカーに転職後プロジェクトリードとしてシステム導入に尽力する。2015年世界最大手スポーツカンパニーに入社、マネージャーとしてグローバルプロジェクトに参画、日本国内においても複数の新規プロジェクトを立ち上げ実行する。2018年11月1日、株式会社TRiCERAを設立。