Focus On
倉島陽一
株式会社A.C.O.  
代表取締役兼CEO
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or人からの評価よりも、積み重ねた失敗の方が、自分にとって本当の価値となる。
「セグメント・ナンバーワン」を掲げ、日本の雇用の未来を支えていく株式会社インターワークス。領域特化型の求人メディア、人材紹介、採用活動支援という3つの事業を柱とする総合人材サービスを提供している東証一部上場企業だ。製造業・工場に特化した求人メディア「工場WORKS」をはじめ、アパレル、在留外国人など、ニッチな業界や職種に専門特化した求人メディアを運営し、人材業界において独自の地位を確立してきた。1991年の設立以来、M&Aや新規事業創出を重ね、着実に築いてきた歴史をもつ同社。取締役副社長の鳴澤淳が語る「新規事業創出の要」とは。
目次
頭に思い描いた青写真を現実にするとき、大切にすべきは人からの評価ではない。いかに自分の理想に近づけられるか、それこそが重要である。納得できなければ何度でも作り直す。子どものころレゴブロックで組み立てたロボットのおもちゃ、絵の具を飛ばして描いた水滴の模様。どれもこれも、自分だけのオリジナリティが光る芸術作品だと信じていた。
これまで数多くの新規事業を世に生み出しつづけてきた鳴澤氏。2000年当時株式会社ベンチャー・リンクに入社し、大手焼き肉チェーンの収益改善や、居酒屋チェーンのビジネスモデル確立・全国展開などに携わったのち、新設の人事部門立ち上げに従事。採用担当ながら自社新卒採用のためのWebサービスを開発、特許を取得するなど実績を残した。2011年より株式会社インターワークスに参画し、現在は取締役副社長として経営全般を担っている。
東証一部上場の総合人材サービス企業であるインターワークスは、領域特化型の求人メディア事業と人材紹介事業を軸に、多様な求人ニーズに応えていく。なかでも製造業・工場に特化した求人情報サイト「工場WORKS」は、常時約30,000件の求人情報を掲載、月間約33万人の求職者が利用し、日本最大級の規模を誇る。
「新しい事業をやろうとすると、概ね否定されるのです。『そんなビジネスうまくいかない』、『類似のビジネスがないのに、儲かるわけがない』『撤退についてはどう考えているのか』と。やる以上は私もうまくいかないとは当然ながら考えていません。しかし、議論ではうまくいかないだろう理由や出来ないだろう理由、論理的に説明できないことばかりを問われます。それに何の意味があるのだろう」
どうすればそれが実現できるか。我々に何が足りないのか。実現したらどのような世界が広がるのか。自らの描く理想を愚直に追求してきた鳴澤氏の人生に迫る。
会社の未来を決めるのは、一人の異端児かもしれない。
製造業・工場やアパレル、在留外国人など、領域特化型の求人メディアを運営する株式会社インターワークス。「人と組織の強い繋がりの輪を広げ、働くエネルギーに満ち溢れた社会を創りだす」というミッションを掲げ、各領域のセグメント・ナンバーワンを目指し、ニッチな人材市場においてシェアを拡大している。
2011年、鳴澤氏が参画した当時のインターワークスは、0を1にするのではなく、1を100にしてほしいというフェーズだった。1991年の設立以降、安定した経営を志向し、運営する6つほどの求人メディアすべてに同じ広告費、営業マンのリソースを配分していた同社。リーマンショックのような経済危機に備えるとともに、どの業界が伸びるかは分からないため、リスクヘッジをする目的があった。
「経験上、さまざまな会社を見てきて、どの会社も必ず一本の強いビジネスがありました。その上で、どの企業も新しい事業や、サービス、不確実性がある事業も含めてやってらっしゃる。私はインターワークス入社当時、メディア事業の事業部長として、企業として勝つためには、理想は1個、最低限2個にはビジネスを絞らなきゃだめだと思っていました」
入社後、インターワークスの過去のデータを見ると、数ある同社のメディアの中で、断トツの利益率を誇っていたのが製造系求人メディア「工場WORKS」だった。当時、売上総額は一番低かったが、一方で同メディアの販売を担当していたメンバーは、インターン二人に社員が一人。にもかかわらず、一人あたりの単価は他チームの倍以上だった。製造系の会社はプレイヤーもある程度決まっており、数も限定的だった。これならば、小さいセグメントであるが、ナンバーワンを取れるのではないか、と考えた。
「全員に反対されました。何を言っているのかと。製造業向け求人メディアがそんなに価値があるわけがないだろう。収益になる領域ではないだろう、と」
絶対に成果を出せる自信がある。一年後成果が出なければ、首にしてもらってかまわない。当時まだ役員ではなかった鳴澤氏は、そう訴えた。データに基づきたどり着いた現状理解と結論、未来の成果を出すために考え抜かれた解決法とストーリーがあった。インターワークスが勝つ道筋は、ほかに見当たらない。誰になんと言われようと、鳴澤氏には自信を超えた確信があった。
3年後の2014年インターワークスはマザーズ上場を果たし、翌2015年には東証一部上場企業となった。セグメント・ナンバーワンの戦略で、日本の雇用の未来を変える。雇用が変われば日本の未来が変わる。日本経済繁栄の礎を築いていく同社の姿があった。
鳴澤氏の幼いころ、独立して事業をはじめた父が選んだ新天地は、長野県の別荘地帯だった。2両編成の電車が1時間に1本。広い自然に囲まれている。小学校まで1時間の通学路は、ちょっとした冒険だった。空き缶蹴りや山菜採り、カブトムシを捕まえたりしながら、雑木林の奥にたたずむ家に帰る。典型的な田舎の子どもだったと、鳴澤氏は語る。
「家から2、300メートル離れて、近所の友達がいるような地域でした。別荘地なので、長期休みでない限りは、当然誰も住んでないんです。結局、妹と遊ぶか、遠くの友達と遊ぶか。遊ぶっていっても、小さい妹も近くに友達がいないので、一緒に面倒見ながら遊ぶか、まあ、ほとんどは自分一人で遊ぶしかなかったですよね(笑)」
父が経営者だったとはいえ、いま思えば、裕福な家庭というわけではなかった。子どものころ欲しいものを買ってもらったような記憶はあまりない。唯一のおもちゃといえば、なぜか山ほど家にあったレゴブロックだった。テレビゲームもなかった時代、父がよく見るテレビのニュース番組は当然子どもには面白くなく、幼い鳴澤氏はひたすらレゴブロックで遊んでいた。
「結局、おもちゃを買ってもらえなかったんです。近所の友達はいっぱいおもちゃを買ってもらっていたので、すごくうらやましくて。仕方ないからというか、レゴブロックでそれを作るんです。たとえばロボットのおもちゃが欲しかったら、自分でその形を真似てロボットを作るんです」
それを人に見せて自慢したり、褒めてもらいたかったわけではない。自分が欲しいおもちゃがあり、できる限りそれに近づけたかっただけ。ブロックの左右のバランスや、パーツの位置など、何度も作っては壊し、理想に近づけ、好きな形を生み出していく。そんな作業が面白かった。小学校6年生になるころまでは、鳴澤氏のこだわりのレゴの「作品」を毎日1個は作っていたという。
「そもそも工作自体が好きだったんです。組み立てるものとか好きでしたね。たとえば、ティッシュを入れるボックスを作ろうっていう学校の宿題があったんです。そのときに作ったものは、いまでも覚えてるくらいなので、当時自分のなかではすごい芸術作品だったんですね(笑)。でも、先生には『これは何なのか、さっぱりわからん』と言われたので、『先生は分かってない。あいつよりも絶対俺の方が素晴らしい作品だ。オリジナリティが高い』みたいなことを生意気にも言っていたんですよ」
自分なりのこだわりが強い方だった。理想形は自分の頭の中にある。絵の具を筆につけ、白いティッシュ箱に向かって振り、偶発的な水玉や滴る模様を描く。イメージ通りの模様が描けないと納得いかず、何十回でも作り直した。何をやっているのかと、母親にも呆れられたほどだった。
「自己満足ですね。人に認めてもらうことで喜びを感じるタイプじゃないので、自分の頭の中にある究極形に至ったことのみに満足するタイプだったんです」
頭の中に描いたイメージを、現実にカタチにしていく。人に評価されるかではなく、自分が満足できるかどうか。自己満足と言われたとしても、自分の納得する作品を生み出すことが大切だった。
自分のなかに描くイメージ。そのイマジネーションに大きく影響を与えていたのが、幼少期に見たアメリカの戦争映画だった。『明日に向かって撃て!』、『大脱走』、『ロッキー』、『愛と青春の旅だち』・・・。戦争映画好きだった父と一緒に、たくさんの映画を観た。田舎の生活とはかけ離れた現実が広がる映画の世界は、アメリカへの憧れとともに空想をふくらませてくれたものだった。
「なんとなく、ああいう世界観を好きになってましたよね。男くさいというか、自分じゃなくて人のために死にに行くとか。侍魂みたいですけど、そういう考え方ってすごく好きですね」
弱い立場の人がいるのであれば、自分を犠牲にしてでも守る。それは、小さいころからの祖父の教えでもあった。男たるもの、自分より弱い立場を守ること。男たるもの、女と付き合ったらお金がなくてもすべて会計は支払うこと。男たるもの、どんなときも前を向いて堂々と歩くこと。
「自分がちょっと背が高くなりはじめたときに、ちょっと悪ぶりたかったのもあって猫背で歩いてたんですね。そしたら、じいちゃんに竹刀で思いっきりぶん殴られて、『男なんだからコソコソした歩き方するんじゃない、堂々と歩くんだ』と、すごく矯正されましたね。男だからそうしないといけないよみたいなことは、多くはじいちゃんに教わった記憶がありますね」
鳴澤氏が物心つくころには祖父は仕事を退職し、家で盆栽をいじっていた。いま思えば、自分と似ていたのかもしれない。厳しい教育であったが、子どもながらに可愛がってもらった記憶があると、鳴澤氏は語る。
そんな祖父の教えからか、8歳下の妹のことは可愛がり、親に言われなくても率先して面倒を見た。友達と遊びに行くときも、妹は自転車の後ろに乗せて連れて行く。妹を守ることへの責任感があった。中学一年生のとき、ボーイスカウトでいち早くチームの班長を任されたときは、誰かを守る責任が嬉しかった。班を守るリーダーとして、全体に目を向けていた。
「小学校5年生くらいまではみんな良い子なんですけど、ちょっと悪くなってくる子もいるんですよね。いまならあり得ないと思いますが、たばこ持ってきて吸う先輩もいたし、そんなにひどいものではないですけど、結構いじめに近いことも行われるわけです」
班長になる前までは、鳴澤氏も生意気が故に、いじめの対象にされることがあったが、自分が班長になったときにはいじめのないチームをと考えていた。そんなことよりも、飯盒やテントづくりなど、すべきことを時間内ですべて終わらせることに集中し、チームとして誇らしいと思われるように務めていた。自分たちが先輩で、守らなければいけないはずの弱い人たちを遊び半分でいじめてしまう。してはいけないと厳しく教えられてきた弱いものいじめが平然と行われている。それを目にして、「何か意味があるのか?」と、鳴澤氏は理解ができなかった。
「弱いものいじめが嫌いなので、悩むんです。いじめられているのを見て、何もできずにいなきゃいけないのか?それすらも良いのかどうか分からなくて。そういうときは、だいたい親や、先生や先輩の誰かに相談していましたね」
友達、両親、近くにいる年上の人。答えが出せないことや納得できないことがあれば、誰かに相談した。なぜそうなのかを自分が理解できないことが嫌だった。実はそれはいじめられているのではなく、こういう意図があるのではないか。人に教えられて納得できて、はじめて満足する。鳴澤氏にとって理解できないこととは、納得できるまで追求するものだった。
昔から納得できなかったものといえば、勉強だった。いずれ父が経営する会社を継ぐのであれば、なぜ勉強しなければならないのか。なぜ良い学校に行かなければならないのか。そもそも学校の良い悪いとはなんだろう。悪い学校に入ったら、駄目な人間なのだろうか。良い学校に行けば、良い人間になるのだろうか。
いずれにしても、勉強ができなくては周りに馬鹿だと思われる。ただそれが嫌で勉強していたようなものだった。自ら意味を見出し、純粋に勉強したいと思ったことはなかったと、鳴澤氏は語る。
「自分で答えを出せないんですよね。なぜそれをしなきゃいけないのかとか、答えを出さなきゃいけないということは分かるんですけど、その背景が分かってないと悩みはじめるんです。だから、とにかくわからないことを聞いて、調べて理解していくようになっていました。答えてくれないなら辞書とかもってきて、図書館とか行って調べたり。知らないと納得できないんです」
幸い地頭は悪くなかったようで、小学校のときは勉強していなくても人より良い点数が取れていた。しかし、中学生のとき、500満点中350点ほどだったことがある。特に、国語が悪かった。さすがに自分に失望する点数だった。しかし、多感な時期でショックを受けた鳴澤氏は、勉強とは逆の方向へ向かっていった。勉強はせず友達と遊び回るようになっていく。特に、ゲーム仲間として仲の良かった不良学生と遊ぶようになった。
「彼はすごく悪いやつで、知らない間に万引きはするわ、人の家の前で瓶を割るわ、しょっちゅう学校にクレームが来るやつだったんですよね。あるとき私もそいつと一緒に先生に呼び出されて、『鳴澤なんで止められないんだ、お前も同罪だ』と。すごく納得いかなくて。その後先生にも目をつけられはじめて、すごく悔しかったのを覚えているんです」
その友達は前触れもなくいきなり悪さをするので、一緒にいても止められない。自分は悪いことをしていないのに、その場にいたという理由で罪を着せられる。理不尽さに腹が立ったので、なぜ自分が納得いかないのかをノート一冊分書いて先生に提出した。悔しい思いをさせられた分、何かで結果を出し、先生を真っ向から見返してやろうと勉強も頑張りだした。
「勉強したかったんじゃないです。当時は『先生、俺を馬鹿にするな、見下すなよな』と思っていたと思いますね。まぁ今となっては、結果的に勉強できてよかったし、勉強すれば人生面白いと思いますけどね」
「行儀良くまじめなんて、できやしなかった」、ちょうど尾崎豊が流行っていた時代だ。そうやってレッテルを貼られていくのかと、鳴澤氏も大人に刃向かった。中学3年生のころには文句のつけようのない成績をたたき出し、先生が評価せざるをえない状況を作り出すことで満足できた。実際に評価されるかどうかは関係ない。のちに謝りに来た先生とは和解したが、ことあるごとにそのときのことを持ち出す嫌な生徒だったと、鳴澤氏は語る。自分が納得できないことを押しつけられるのは我慢ができない。だからこそ自分を貫き、その自分を証明するために行動する鳴澤氏がいた。
直接的な悪さはしていなかったが、先生には納得できなければ反抗ばかりしていたため内申書が悪かった。本当は県で一番の進学校に進学したかった鳴澤氏だが、妥協して試験の点数のみで入れる高校を選んだ。十分進学校だからと親は励ましてくれたが、結局は安パイを取るような生き方をしてしまったことを、いまでも後悔しているという。心すさんでいた高校時代は、ふたたび勉強しなくなっていた。
「完全に帰宅部で、ただだらっと授業受けて帰ってきて、勉強するわけでもなく漫画ばっかり読んで過ごしていましたね。あとは、学校をサボって映画館に行ったり、ゲーセンに行ったり。『お腹痛い』とか言って帰るふりして、友達と行ってましたね」
当時はVHSビデオが普及し始めていたこともあり、レンタルビデオ屋で手軽に映画を借りることもできるようになっていた。流行りの映画は片っ端からすべて観たという鳴澤氏。外国の映画を観ると、父親と見た映画と同様、アメリカへの憧れ、その地へ行ってみたいという思いも一層強くなっていた。
一方で、現実はまったく勉強していなかったために卒業後の進路が問題だった。大卒だった父に言われ、大学へ入学すべく適当な東京の大学を受験したが、最初から浪人して予備校に通うつもりだったという。それまでの学校という環境には、納得がいっていなかったのだ。
「進学校だったので、大学に行って当たり前だと、お前ら勉強しろよと先生から強制的に求められる感じがあって、そこに自分たちの自主性はないんですよ。ただ教科書をやっているだけで、どうすれば合格できるのかも教えてもらえず、『うちは進学校だからこのくらいの大学に行くべきだ、こういう大学に行ってもらわないと学校のために困るんだ』みたいな言い方をされたので、『何言ってるんだこの人たち』と、先生のためにそこに行くのかと思うと納得できなくて・・・」
つまらなかった学校とは対照的に、卒業後に入った予備校では初めて勉強を面白いと感じることができた。大学に行くためには、こういうことをクリアする必要がある。こういう解き方で、こういう風に解けばいい。論理的に勉強を教えてくれるのが予備校だった。中学時代から本当に苦手だった国語も、結果的には模試を受けると全国3位を取るレベルになっていた。
「そのときに、これは解き方が分かっていなかったんだってことに気づいたんです。やればできる、時間を使うとかじゃなくて、解き方をいかに学ぶべきなのかっていうことを学んだのが大きかったですね」
目標を達成するために必要なことは、能力ではない。「とにかくやる」「頑張る」のではなく、そこに至る解決方法が重要なのである。きちんとやり方を組み立て、そこに理屈が通っているか考える。全力で考えることで、方法を導き出し、自分の描いた理想を現実にできる。目的地にたどり着くことができる。たとえそれが通ったことのない道であったとしても、考え、方法を導き出し、その方法から答えを出しつづけることが変わらない真理であると、鳴澤氏は実体験で学んできた。努力すべきは、いかに考え方を導き出すかであるということを。
その体験は、現在のマネジメントにも反映されていると語る鳴澤氏。ビジネスで設定したKPIを達成するために、ただ「頑張る」という言葉は使わない。
「『頑張って達成します』ってみんな言いますけど、『別にいいよ、頑張らなくても』ってよく言うんですね。頑張るって、じゃあ何について頑張るのかと。頑張って集中してパソコンを打つスピードを速くしたとしても、50文字くらいしか変わらない。それよりも、1分で成果を出した方がいい。頑張って勉強して理解してからやるのって、どのくらい待つの?と」
頑張る対象は、集中力や時間ではない。課題を解決するために、どうすれば答えが出るのか。頑張るべきは思考であって、それ以外のことを頑張っても意味がない。だから、鳴澤氏は「どうすれば即座に答えが出るのか」というその場の思考を問う。
「そもそも人の優秀さとは何なのかとか、君と優秀な人との違いは何なのかっていうときに、要は処理速度の話じゃなくて、優れた考え方の問題ですよね。A、B、Cという選択肢があったときに、どれが一番成功確率が高いのか、そしてそれはなぜなのか。成功確率を100%にするためには何が問題で、何が必要なのか」
たとえば、1年後までに成果を出さなければならないとき。成功を追い求めすぎて、失敗してはいけないという考えに囚われた結果、尻込みして何もしない人は多い。期限が迫った段階になって行動し、結局、失敗に終わる。「自分の努力が足りませんでした」。そうではなく考え方が悪いだけである。目的地点に向かう途中であれば数多く失敗してもいい。重要なことは、その失敗が成功の糧になっているのか、その失敗はなぜ失敗したのかを論理的に理解できているかどうかだ。
「初めてやることの失敗って、確率論だと50%はあるんですね。最初から成功確率50%、失敗確率50%あるときに、成功に持って行くためには、論理的には失敗の原因を全部潰せば100%になるわけですよね。だから、まずやって、失敗を全部出して、それを潰す努力はしますね」
環境、モチベーション、自分たちの考え方。過去の経験か価値観。失敗の要因は、数え切れないほどある。最初のやり方がうまくいかなかったとしたら、「事前に考えたこと」と「結果」、あるいは「理想」と「現実」の違いは何なのかを考え、検証する。失敗して学ぶことが多ければ多いほど、自分の成長につながっていくだろう。それは、自分の成長となる。2度同じ失敗を繰り返さないようになる。同じ状況なら同じことをしないようになる。そうすれば、結果は後からついてくる。
成長、成功のために失敗を出し尽くす努力をする。しかし、失敗を恐れる心が邪魔をする。失敗を恐れず、挑戦しつづけることができる人の違いは何だろうか。
「成功したいというよりは、人って失敗を恐れる方が強いのではと感じています。だから失敗したくない。裏返して言うと、もしかすると、『失敗しない人(成功する人)』と人に認めてもらいたいとか、強烈に成功したい理由が自分に無いのかもしれないですね」
自己承認欲求が高い人は、得てして失敗したがらない。周囲に失敗した人間と思われることや、給料が下がること、いつも評価の方を気にしている。しかし、人から評価される自分なんてどうでもいいのだと、鳴澤氏は語る。
「私がみんなに『どうしてそういう風に思うんですか』ってよく聞かれるんですけど、私のなかで答えは出ていないんですが、一つは強烈な自己実現欲求があると思うんですよね。もっといえば、自己実現欲求がないことはやらないとも言えるかもしれませんね」
それは、自分への根拠のない自信でもある。誰もが不可能だと言ったとしても、自分はできると信じている。多くの人はできない理由ばかり考えがちで、それを用いて「結局できませんでした。やることができません」と言いたいだけ。失敗したくないだけ。そんな議論をして、果たして意味があるだろうか。
初めてやることなんて、うまくいかなくて当たり前。それは、いくつかの会社で新規事業を立ちあげてきた鳴澤氏自身、痛感してきたことだった。
「新規事業をみんなでやろうとするときに、役員の前で発表するじゃないですか。頑張ってそれぞれが自分たちのベストな案を出してきたら、概ね『みんなでいじめてるの?』と思うくらいに全否定するんですよ。初めてのことをやろうと話しているにも関わらず否定するって。『え、やらないなら、最初からやらなければいいのに』といつも思うのです」
ちょっとした失敗を許さない上司もいる。しかし、失敗から何を学ぶか、現実と描いたイメージの間のギャップ、なぜ成功への思考が自分(部下)のパターンに無いのかを突き止めることが重要なのである。
「それをせずに気合いや感情論を持ち出し、最後には『お前の考えがおかしい』とか。もっとダメな上司は、失敗を人のせい、部下のせいにして終わり。最後には『もっと頑張れ』以上。そんな上司は相当多いと思うんですけど(笑)、そういうことでは当然達成しないですし、結果的に達成しても再現性がないので、同じ環境下で同じ成果を出すことにはつながらないですよね」
世の中にないものを創ろうとするとき、初めてやることは誰にも分からない。それならば、まずやってみればいい。根拠がないと言われるほどのことであっても、自信をもって挑戦すればいい。挑戦すらしなければ、企業の成長もなければ、リターンも得られない。人材を成長させることもできない。
「正しい失敗」を積み重ねること。体験を経験にして、思考にすること。そうすることなしに、大いなる成功はない。新たな事業が会社に、そして、この世に生み出されることはない。
新たなる事業をこの世に生み出すこと、その意味を、鳴澤氏は仕事人生のなかで考えてきた。はじめはただ、純粋にビジネスの面白さへと惹かれた。
大学を卒業してすぐに就職したのは、地元のゼネコンだった。長年の憧れであったアメリカへ行くことも考えていたが、折り悪く母親が交通事故に遭い、高校受験中の妹や経営者である父を残して、一人夢を追うことはできないと地元に戻ることにしたのだ。当時はバブルが崩壊したタイミングでもあり、東京での就職先も少なかった。
「地元で住宅の営業マンとしてそこそこやっていたんですが、親父が経営者なので、サラリーマンでいることはなんとなくかっこ悪いなと思って。一国一城の主人の方が格好いい。じゃあ、仕事しながら経営を学べるところに行って、親父の会社継ぐか、自分の会社作るかしたらいいよねって考えるようになって」
あるとき偶然読んだ雑誌『Forbes』に、株価上昇率トップ10の社長が特集されていた。当時2位であったベンチャー・リンク社長の小林氏が掲げていた「中小企業の活性化を通じて日本経済の活性化に貢献する」という企業理念、それはまさに父の経営する中小企業の姿を想起させた。ここでなら自分が望む勉強ができるだろうと、鳴澤氏はベンチャー・リンクへの転職を決めた。
「当時のベンチャー・リンクは、目標高く出したもん勝ちみたいなところがあって。『俺は目標の200%、300%やりますよ』と言うと、『お前そこまで言うんだったら、お前のやりたいことやらしてやるよ』みたいな会社で、ちょっと面白いことやってもいいよねってカルチャーがあったんです。『200%やったら、じゃあ○○さん(上司)の乗ってる車ください』と言うと、『600%だったらあげる』と返ってくる。『絶対ですね、言い出したら本気でやりますからね』と」
あり得ないほど高い目標を掲げ、達成できる方法を全力で考える。前例のないことでも、失敗を出し尽くせば、最後は成功にたどり着く。中古ゴルフチェーンの立ち上げにあたり、鳴澤氏はそれを実体験で学んでいった。4年ほど働き、複数のFCチェーン事業を成功に導き実績を残してきたころ、会社の業績悪化に伴い自由度が低くなり、以前ほど仕事を面白いと感じられなくなっていた。お世話になった上司に退職を切り出すと、「君は会社がつまらなくなった、かつての面白かった時代の会社にしたいんだな?」と聞き返された。
「じゃあ一緒につくろうぜと。『お前が人事やって、面白い社員ばっかり集めろよ』と言うんですね。この人はそういうロジックで来るのかと、人事という選択は全く考えてなかったので感銘を受けて、そこまで言うんだったら35歳になるまで、2年間だけは文句言わずに手伝いますよと言ったんです」
人事という仕事をきっかけに、人材業界のビジネスモデルに触れた鳴澤氏。それまで携わったFCビジネスと違い、在庫も持たずして、こんなにも成果を上げていくビジネスがある。純粋に人材ビジネスというものへの関心をかき立てられた。1年目には当時4000人程度だった新卒エントリー数を1万人にしたが、次の年には、それを倍にするように言われた。
「1年目も暗中模索で、人事経験もなく、反吐が出そうなほどつらかったのに、それまでの2倍のパフォーマンスを出すように言われたときに、いまの2倍働くことって現実的に無理だからどうしようかなと半年くらい苦しんで、一つのWebサービスを作ったんですよ。それが大成功し、当時ベンチャー・リンクは新卒から5万エントリーが入り、就職の人気ランキングにも入る企業にもなりました」
それは、就職面接の場で自らの欠点を正直に言うことができない学生の心理をついた自己分析サービスだった。自分が考える自分の性格だけでなく、人から見た自分も自分の性格である。心理学において有名な理論「ジョハリの窓」の解説とともに、友達にも自分を分析してもらうべく同サービスのシェアを促す。3人目の友達に答えもらえた段階で、初めて自分の答えも見ることができるというWeb上の診断サービスが、爆発的にヒットしたのだ。
「今までやっていた店舗のビジネスって、お店を作って売り上げを上げる。1店舗、2店舗、3店舗と、足し算の方程式だったんですね。インターネットは掛け算の方程式だったんです。セミナーに来た学生1000人くらいにQRコードをばらまいただけで、結果的には半年程度で、5万人くらいにエントリーされました。強烈なブレイクスルーを経験したときでした。それからインターネットって面白いなと思うようになって」
以降鳴澤氏は、ネットとリアルを横断しビジネスを企画する仕事に身を捧げてきた。株式会社ネットプライスドットコム(現BEENOS株式会社)では、ブランディア事業を展開するデファクトスタンダード社の立ち上げ、海外への個人向け物流サービスの転送コム社の企画、立ち上げ。そして、アリババと提携した中国の子会社の立ち上げを経て、2011年、株式会社インターワークスに参画した鳴澤氏。新規事業を作り、会社をセクシーにして欲しいという株主からのオファーだった。
仕事に対する思いの転機が訪れたのは、ベンチャー・リンクを退職するときだった。当時出向していた会社の役員から、役員のポジション、高額な年収やストックオプションなどを提示されたのだ。
「最高ですよね。うわーって思ったんですよ。『一か月間だけ考えさせてください』と。その悩んだ一か月が実は本当によかったなと思っていて。お金は欲しかったですよ。ストックオプションも欲しかったし、家族に相談したら即行けって言われるし(笑)。でも、自分は本当にその会社に行きたいと思っているのかって、ずっと考えていました。一ヶ月後の答えは、『このまま行ったら、自分は金に支配される人生を生きるってことだ』って思ったことは、すごく大きかったですね」
「仕事は、その仕事が好きな人がやるべきだ」という持論があった。たとえば飲食店であれば、自分が作った料理を「おいしい」と食べてもらいたい人がやるべきだろう。
「私は整理したり、収益化することはうまいかもしれないけど、おいしいものも作れなければ、おいしいって思ってもらいたいという感性がないので、飲食店をやろうとは思わない。『やってはいけないのでは?』と、そのビジネスをやっている人たちと会ったときに思ったのです。そのときに、私は先方の役員の方に大変生意気なこと言ったんですけど、『僕はあなたを超えるかもしれない自分の人生を、お金が欲しいという理由以外見当たらないなかで、いまこのタイミングで自分の可能性を捨てるわけにはいかない』って言ったんです」
金を求める人生を生きる。それでもいいという生き方もある。鳴澤氏にとって大切なことは、お金が欲しいか欲しくないかではなかった。ほかでもない自分の人生の可能性を裏切りたくなかったのだ。人生においてお金は大切ではあるが、最優先とするテーマではない。
「自分がやってきた新規事業の基礎になっているエピソードがあって。居酒屋チェーンを立ち上げている際に、山手線に乗っていたら、目の前に合コンした集団の人たちがいて、『今日○○(立ち上げた居酒屋)ってお店行って、サービスいいし、飲み物も豊富だし、それであの値段だよ。最高だったよね!』って話していたことを、いまも覚えていて。すごく嬉しかったですよね。いつもは直接会うことのない人たちが、自分が携わったビジネスで少なからず生活が豊かになってくれたり、ちょっとでも幸せになってくれたりするっていうことが、やっぱりベタですが、プライスレスですよね」
仕事人間として、仕事で成功することに目を向けつづけていた鳴澤氏。しかし、この体験は仕事を通して得られるものを教えてくれた。お金だけではない。
のちにネット系企業に在籍していた際には、日本でしか手に入らない商品を海外へ配送するECサービスに携わり、はるばる海外から感謝の手紙と写真をもらった。
「そのとき、『最初は大手のコバンザメ商法みたいに売れたらいいよね〜!』って思っていた自分を自戒しましたね。結局、私はいろんなビジネスのなかで、ちょっと邪さもありながらやるんだけど、お客さんとかクライアントの人とか、自分を正しい方向に持って行ってくれるエピソードがあったからこそ、まともな人間になっているのかもしれないなって思ったんですね」
売れるための仕事でなく、お金をたくさんもらう仕事ではなく、自分が作ったサービスにより誰か一人でも幸せになってもらう仕事。喜んでもらえる、作ってくれてありがとうと言われるビジネスを作る。ユーザーを見て創る。邪さで儲かるだけの仕事はやらない。社会に意義がなければやらない。誰かが喜ぶ姿が見えなかったら、どんなに儲かるとしてもやらない。それが鳴澤氏の考える仕事であり、新規事業を世に生み出す意味である。
2018.04.02
文・引田有佳/Focus On編集部
あなたが失敗をイメージすることで得られる未来は何だろうか。他人からの目線や自分へ浴びせられる叱責。失敗とは、発生してはいけないものであるように思えてしまう。それらを人は「失敗」という事象自体を否定するものではなく、あたかも失敗を生み出した「自分自身」を否定するもののように考えてしまうのではないだろうか。
だからこそ、どうも失敗とは積極的に手にしてみたいものではなく、できることなら避けて通りたいものとなる。失敗と成功を単純比較するのであれば、失敗よりも成功を望むことは明らかであり、できるだけ失敗をしない道筋を通り成功をつかむことこそが肝要であると考え、行動してしまうことは、人間の生理的な反応ではないだろうか。
しかし、それは人間の短期的な想像の結果に過ぎないようだ。最終的に成功するかどうかに重きを置くのではなく、ただ目先の失敗を恐れるような行動をとっているのが人間であるようだ。
ここに、2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンから発展させられたプロスペクト理論からの考え方の一部を共有したい。
プロスペクト理論の価値関数では,損失の領域の傾きが利得の領域より急になっており,(中略)このことは,損失の方が利得よりもインパクトがあることを示しており,この性質は損失忌避 (loss aversion)と呼ばれている.―早稲田大学文学部教授 竹村 和久
人は、リスク(損失)を前にすると、得られる利益よりもそのリスクへ反応をし、無意識にそのリスクすべてを避けようとする性質を持つということが語られている。
しかし、その行動は未来の価値へとつながる正しい判断に基づくとはいえない。手にする価値のあった「失敗」でさえ、価値のないものとして回避してしまうことは、「成功」を遠ざける可能性さえ孕んでいる。
「最初から失敗しない人はいない」。そのような言葉の数々により、人は、人が一歩を踏み出す恐怖と、一歩を踏み出したからこそ得られるより大きな価値を見出してきた。とりわけ新しい挑戦にともなう一歩においては、このことが強く言えるのではないだろうか。
鳴澤氏は、新しい未来のために、誰もが二の足を踏んでしまう領域でさえ、信念をもって歩み進んできた。その姿は私たちを勇気づけ、未来をより良いものとする人たちの最前線を強く歩んでくれているのだろう。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
竹村和久(2006)「リスク社会における判断と意思決定」,『認知科学』13(1),日本認知科学会,< https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/13/1/13_1_17/_pdf >(参照2018-4-1).
Daniel Kahneman and Amos Tversky(1979)「Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk」,『Econometrica』47(2),Econometrica,< https://econpapers.repec.org/article/ecmemetrp/v_3a47_3ay_3a1979_3ai_3a2_3ap_3a263-91.htm >(参照2018-4-1).
株式会社オーシャンズ 鳴澤淳
代表取締役
大学卒業後、住宅メーカーでの営業経験を経て、ベンチャー・リンクにて「ゴルフパートナー」「牛角」「土間土間」など大手フランチャイズチェーンの事業改革に従事。人事部門にて採用責任者として、同社の採用・企業ブランディング強化に貢献する。BEENOS(旧 ネットプライスドットコム)では、中古ブランド買取の「ブランディア」や越境EC「転送コム」など、複数の新規事業を立ち上げ、また同社中国子会社副社長として、アリババ社との越境EC事業も提携実現。コンフィデンス・インターワークス(旧インターワークス)では、事業部長として製造業特化型求人メディア「工場ワークス」を立ち上げ、同社の基幹事業へと成長させた。のち取締役副社長COOに就任し、東証マザーズへのIPO、東証一部への鞍替えを事業面から推進。リンクバルでは取締役新規事業管掌役員、管理本部長として、マタニティウェディング事業「ママ婚」の推進や、コロナ禍における経営管理の刷新、メタバース婚活など、革新的な取り組み体制を主導。2023年9月、株式会社オーシャンズを設立し、代表取締役に就任。新規事業開発、経営改革、デジタルトランスフォーメーションの各分野で培われた経験を踏まえ、新たな価値創造に挑戦している。