Focus On
LEE KUNWOO(イ・ゴヌ)
LITEVIEW株式会社  
CEO
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or心の声に耳を澄ませ、大切にすること。花が世界を美しく彩るように、きっとそれはあなたの世界を輝かせてくれる。
アフリカの大地が育んだ最高品質のバラを日本に広め、現地の貧困をなくすこと。「AFRIKA ROSE/アフリカの花屋」が目指す世界は、笑顔にあふれている。オンライン販売だけでなく、東京・広尾に構えられた店舗には、生命力あふれるそのバラに魅了された著名人も多数訪れるという。ソーシャルアントレプレナーとして注目される同社代表取締役の萩生田愛は、これまで「女性起業家」「アフリカビジネス/フェアトレード」「ソーシャルビジネス」「キャリア/働き方/好きなことで稼ぐ」などを切り口に、JICAや大使館、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)などが主催する取材や講演会に多数登壇してきた。幸福の輪を世界に広げていく萩生田氏が語る「輝きながら生きる姿」とは。
目次
「バラの花束は恋人に贈るもの」、多くの日本人はそう考える。特別な日じゃなくてもいい。理由なんてなくてもいい。恋人だけでなく、身近な人への感謝や大切に思う気持ち。愛とは本来、もっと広い意味をもつはずだ。素直な気持ちを言葉にすることは意外と難しい。ならば代わりに、誰かの幸せを願い、花を贈ってみるのはどうだろう。
力強く咲き誇るバラをアフリカ・ケニアから日本に届け、現地の雇用創出に寄与するAFRIKA ROSE(アフリカローズ)。赤道直下のケニアから18時間もの旅を経て届くバラは、鮮やかな色彩と繊細なグラデーション、そして何より強い生命力を備えている。
年間数十本以上の取材や講演依頼が殺到するほど注目を集める同社の活動は、ただバラを売るだけにはとどまらない。同社の男性フラワーデザイナーが主宰する「ローズアンバサダー」では、男性から女性へもっと気軽に花を贈れる文化を広め、本物の花びらをジュエリーにした「AFRIKA ROSE JEWELRY」では、特別な思い出が詰まった大切な花束のバラを、日々身に着けられるアクセサリーへと進化させている。
同社代表取締役の萩生田氏は19歳のとき渡米。カリフォルニア州立大学在学中に参加した「模擬国連」にて途上国の貧困問題を目の当たりにした。卒業後、約6年働いた大手製薬会社を退職し、ケニアでのボランティア活動に従事した。そこで目にした貧困援助に対する現地の人々の受動的な姿勢に疑問を感じ、施し施されるという関係を越えた、より持続的な支援の形を模索しはじめた。「AFRIKA ROSE/アフリカの花屋」をオープンしたのは、2012年のことである。
「冒険が好きなのかもしれないですね。ここに来る途中も、公園の横の一本道を通ってくれば最短距離なのに、それをつまらないと感じて、公園の中をぐにぐに歩いてきたんですね。いくつか分かれ道があって、あまり遠くに行くと戻れなくなるリスクもあるからちょっと離れるんだけど、こっちの橋を渡った方が楽しそうだなとか、こっちは石の階段を降りた方が面白そうとか、そういうことを感じながら道を選んでいます」
心の声に従い、自分らしく生きる道を歩んできた萩生田氏の人生に迫る。
身近な家族や、同僚、パートナーへの感謝や愛。いま、大切な人に大切なことを伝えている日本人が、どれだけいるだろうか。
日本は経済的に豊かな国になった。生活にはモノがあふれ、たいていの人は明日食べるものに困ることもない。しかし、毎日の忙しさに追われているうち、心の距離の近い大切な人たちへの気持ちが置き去りになってはいないだろうか。私たちがつい忘れがちな感謝や愛情、その象徴であるバラを、地球の裏側、アフリカ大陸の東に位置するケニア共和国から日本へ届ける人がいる。
「アフリカ・ケニアの大地が育てた生命力の強いバラ、そして愛と感謝の象徴であるバラというものをツールとして、心の豊かさを忘れかけている日本人が、大切な人に大切だよと伝えるために、このバラを使ってもらえたら嬉しいなと思っています」
AFRIKA ROSEが契約するケニアのバラ農園にて。
2011年、ボランティアとしてケニアに渡っていた萩生田氏は、街の花屋の店先で咲くバラの美しさに、思わず足を止めた。日本ではあまり知られていないが、ケニアは世界を代表するバラの輸出国である。日照時間が長く、寒暖の差が激しい気候は、バラの生育にとても適している。個性的な柄に鮮やかな色彩、大輪で太い茎をもつアフリカのバラは、丈夫で長持ちする。日本人が見慣れたバラと比べると、それはあまりに力強く生命力にあふれていた。
AFRIKA ROSEでは、ケニアが誇るバラを直輸入し日本全国へと販売しながら、現地の雇用を増やすことを目指している。
児童労働や社会インフラの整備不足など、いまだ貧困という社会的な課題を抱えるケニア。しかし、そこで暮らす人々は、身の回りの家族や豊かな自然に感謝し、大切に思う心を伝え合う文化をもっている。そんな心の在り方は、もしかしたら日本人よりも豊かなのかもしれないと、萩生田氏は語る。
「日本でも愛情を伝えあう人が増えて、より多くの人が心から満たされる。あふれ出た愛情や感謝を、幸福をどんどん人に分け与えていく。それによって自分に余裕ができて、近しい人にも愛情を捧げたり、会社では同僚にも優しくできたり、良い循環が回ると思うんです」
花を贈りあい、より幸福を感じる日本人が増える。一方で、バラを育てるケニアでは雇用が増え、働く喜びを感じられるケニア人が増える。地球規模で幸せの循環を生み出しているのだ。
児童労働が禁止されたバラ園では陽気な音楽が流れ、母親たちが誇りをもって働いている。子どもたちは家計を心配せずに、安心して学校に通うことができるようになる。笑顔が増え、幸せな人が増えていく。その循環を作りつづけることこそが、AFRIKA ROSEのミッションである。
同社が契約しているケニアのバラ農園では、正社員数が2011年7月の150名から2018年には1830名に増え、24時間体制の病院や奨学金制度も導入されている。
強い日差しや紫外線を受けて育つほど、花はより鮮やかに美しく咲くという。厳しい環境で育てられた花のように、厳しくもあたたかい家庭で生まれ育った萩生田氏。おおらかな父と、教育熱心な母のもと、3姉妹の長女として生まれた。
意思が強い母は、子どもたちへの教育方針も明確だった。人への礼儀や挨拶、食事のマナーなどは細かくしつけられ、そんな母の意見に素直に従っていた。自分の意思は強くない子どもだったと、萩生田氏は当時を振り返る。
「挨拶をしなさいとか、お行儀よくとかはすごく言われましたね。子どものころ、夏に玄関を開けてお客さんが入ってきたときに、『蚊が入っちゃうから帰って』って私が言ったんですね。そしたら母が『すいません』って言って、立ち話が終わってお客さんが帰ってから、ばしーんって殴られて。『なんて失礼なこと言うの、お客様なんだからそういう態度はだめです。どんなに疲れていたり機嫌が悪くても、蚊が入ってくるから嫌でも、そういう失礼なことは決して言ってはだめです。いつでもニコニコ対応しなさい』っていうことを言われました」
行儀よくすることや、来客への接し方など、人への向き合い方は厳しく教えられる家庭環境だった。失礼のないように振る舞うことを意識するうち、その人がどう思うのかを考えるようになっていたのだろうか。人との距離を測り、人の顔色をうかがう幼い萩生田氏だった。
そんな萩生田氏には、自分らしくいられる場所があった。近所に家族ぐるみで仲の良い付き合いがあり、学年に関係なく鬼ごっこをしたり、家族同士一緒にキャンプに行ったりと、同年代の子どもたちと走り回ってよく遊んでいた。そこでは人との関係に気を遣う必要はなく、みんなが等身大でいられる居心地の良い環境があった。
しかし、小学校に入学すると、いままで通りではいられなくなる。入学時、全員が「初めまして」からはじまる関係においては、まだ距離感を気にする必要もない。けれど、3年生になりクラス替えをするころになると、仲の良いグループができていたり、興味関心が異なり話の合わない友達も出はじめる。人との距離感をうまくつかめなかった萩生田氏は、次第に人見知りをするようになっていった。
「ほんとに人見知りで引っ込み思案というか。国語の授業で『萩生田さん、ここ読んでください』って言われても、下向いてしまって声を発することができなかったり。あとは、休み時間に同級生に『仲間に入れて』とか、『一緒に帰ろう』とかって声をかけるのもかなり恥ずかしくてできなかったんです」
はじめて会う人や、あまり親しくない人と接すると、相手にどう思われるかが気になってしまう。嫌われてしまわないだろうかと不安になっていた。
自分から積極的に和に入っていくことができなかった萩生田氏は、当時女の子たちの間で流行っていたおままごとにも参加できないでいた。
特別おままごとがやりたかったわけではない。みんながやりたがる花形のお母さん役は誰と既に決まっているのも、なんだか馬鹿らしい。しかし、一人仲間はずれになっているのも嫌だった。きっと心のどこかでは誘ってほしいと思いながらも、自分から声をかけることはせず、一人お絵かきをして遊んでいた。
あるとき、見かねた先生が仲間に入る手助けをしてくれたことがある。萩生田氏からすれば、「仲間に入れて」というその一言を、心から言いたかったわけではない。声が震え、のどが痛んだ。結局、1日だけ猫の役で参加したものの、次の日からは行かなくなってしまった。
「自分の居場所がなかったのかな。一人でいるのもなんか嫌だけど、私はどこにいたらいいのかなみたいな。そういう自分らしくいられるペースとかリズムが無くなっちゃったのかもしれないですね」
自分のペースを殺し、無理に周囲に合わせても苦しい。自分は自分でいいかと、友達と距離をとり日々生活するようになっていた萩生田氏。みんなと同じでいないと、ときにはたわいもない理由で仲間はずれにされたり、無視されることもある。それは悲しいことだった。一人ぼっちはつらい。本当は友達がほしいと、心の声が訴えるのを萩生田氏は知っていた。
小学校4年生のとき、父の仕事の都合で引っ越した。都心近くから、みどり豊かな校外へ。畑や田んぼが広がっていて、山のなかに家がある。転校するにあたり、萩生田氏は一つの決意を固めていた。過去の自分を知る人が誰もいない環境に行くのだから、勇気を出して友達を作ってみたい。そう両親に宣言していたという。
「『仲間に入れて』って、勇気を出して一歩踏み出したら、『いいよ』ってすぐに入れてもらえて。それから毎日が100倍楽しくなったんです。みんな仲がいい田舎の小学校だったので、変なしがらみとか派閥とかもありませんでしたしね」
等身大の自分でいられる環境、自分が自分らしくいられる居場所は、自らの手で作ることができた。少しの恐怖を押し殺し、勇気をもって一歩踏み出す。その先にある世界は明るく開けていて、そこには、比べものにならないくらい楽しい毎日が待っていた。
転校先の小学校では、人生の恩師ともいえる先生との出会いもあった。「自由におおらかに」という教育方針だった先生は、席替えのやり方を生徒たち自身に決めさせたり、授業にギターをもってきては、みんなで歌を歌ったり。黒板に書かれたものを生徒がただ写すだけの定型的な教育ではなく、当時からディベートスタイルを取り入れ、賛成反対に分かれ話し合うやり方も教えてくれた。
「すごく自由に意見を言えるような環境作ってくれた素晴らしい先生に出会って、もっともっと自分らしく振る舞えるようになったし、そこにいる生徒たちもみんなそうだったと思うから、みんな仲が良かったし、すごく楽しかったんです」
そのままの自分らしく、みんなが自由に意見を交わすことのできる環境があった。卒業式の日には、「自由におおらかに」と書かれた野球ボールを、全員にキャッチボールで渡してくれた先生。小学校生活、恩師からの最後のプレゼントだった。
「そのころから自我が芽生えたというか、その先生のおかげで自分自身というものを取り戻したんでしょうね。何でも周りに合わせて、何も考えないでついて行くスタイルから、何が楽しいとか、自分らしくあるってことを少しずつ意識しはじめたんです」
好きな友だちと、好きな話をする。無理をして自分の気持ちを偽るのではなく、自分らしく生きる。自分の意思をもって、やりたいことや楽しいことを選んでいく。みんなが同じ目線で、お互いの存在を認め合える。だからこそ、人生は彩り鮮やかになる。素晴らしい師との出会いは、人生で大切なことを萩生田氏に教えてくれた。
とはいえ、新しい友達を作ることにはまだ苦手意識があった。中学校はみんなと同じ地元の学校へと進学した。思春期らしく短くしたスカート丈や、何でもない日常を綴り合う交換日記。公園やファーストフードで恋愛話に花を咲かせれば、時間なんてあっという間に過ぎていく。一生大切にしたいと思えるような、心通いあう友人たちとの出会い。そして、新鮮で胸が高鳴るような世界との出会いもあった。
「中学の入学式の日に、一人一人担任の先生とかの挨拶があったんですけど、そのとき英語の先生が『Good morning, Everyone!』って言ったんです。それがすごくかっこよくて新鮮で、『なんだこれは』と思って。『すごいな、そうかそうか英語か、英語はこれからがんばろう』と」
いつも明るくニコニコしていた英語の先生は、期待を超える授業をしてくれた。初めて触れる知識や世界に、わくわくと胸が躍る。それまであまり勉強に自信はなかったが、英語であれば中学から全員同じスタートラインに立つ。一位は無理だったとしても、がんばれば自分でも、それなりに上位になれる可能性だってある。みんなが同じ状況であるということも、これから新しくがんばろうとする萩生田氏には打って付けだった。
折しも母から、高校受験で有利になるために勉強は最初からがんばるよう言われていた。テストやスペリングコンテストで100点を取りたいという思いと相まって、本気で勉強に打ち込んだ萩生田氏。小学生のころは自分の意思をもたず、何一つがんばったことはなかったが、はじめて心から望み努力する経験をした。
「結局、英語は5段階評価の成績で5を取りたかったのに、ずっと4だったんです。先生にも『もう一歩惜しかったんだよ、でもこれからもがんばってね』って言われた記憶がありますね。でも、自分はがんばったんだということ。英語の勉強に関してはがんばるっていう意思をもって、結果はどうであれ、がんばったなって思えたんです」
輝かしい結果が残ったわけではない。けれど、意思を持って何かをやりきったという経験が残った。そんな萩生田氏を、家族も応援してくれていた。
「母方の祖父がけっこう先見の明があるタイプの人で、『めぐちゃん(萩生田氏のこと)は英語を勉強して、世界で仕事をするような人になりなさい』と、『妹のあやちゃんは頭の回転が早かったり理屈っぽかったり喧嘩が強かったりするので、弁護士になりなさい』、『一番下の妹のゆうちゃんはとても優しい子だから、学校の先生になりなさい』と、そういう風にずっと言われてきたんですよね」
過去には人事部長や企業の中枢で活躍した祖父は、人を見る目に長けていた。3姉妹それぞれの性格やモチベーション、さらに世界の動向などを見て、この子はこの道がいいと考えてくれていたのだろうと語る萩生田氏。まだ見ぬ新鮮な世界を志向する萩生田氏の将来を予見してくれていた祖父。その助言は、いつも萩生田氏の心のどこかにありつづけた。
次第に海外を意識するようになったのは、母のおかげでもある。好きなことを見つけ打ち込む娘のために、英会話教室の先生を自宅に呼んでは、よくホームパーティを開いてくれていたのだ。実際に英語を使って会話をしてみると、「もっと英語をしゃべれるようになりたい」という思いが強くなっていった。
それは同時に、英語はコミュニケーションのツールに過ぎないと気がつくきっかけにもなった。いくらテストで良い点数を取ったとしても、会話ができなければ意味がない。表面的な会話ではなく、自分そのままの気持ちで相手と向き合い、心を通わせられなければ意味がない。
そのためには、英語を使う土地で暮らし、現地の生活習慣や文化も踏まえた上での会話を身につけることが必要なのではないか。もっと深く英会話を学びたい。気持ちを抑えられなくなり、高校進学にあたっては、オーストラリアへの交換留学制度がある都立狛江高校を選んだ。大学進学率も悪くなく、学区外だったため新しい友人もできる。新しく広がる世界へと、すでに心は向いていた。
意思をもって何かに打ち込んだ結果、自分が夢中になるものが見つかった。萩生田氏に新しい世界を見せてくれた英語は、さらに広がる新鮮な世界へとつながっていた。
テニス部で真っ黒に日焼けしてしごかれた高校時代。当時の萩生田氏は、クラスのどのグループとも仲が良く、多少話の感覚が合わなかったとしても、自分から合わせていくことができるようになっていた。それよりも、一人ぼっちになることの方が耐えられないと思っていたからだ。
一番の思い出は、高校2年の夏に降り立ったオーストラリアでの日々、1ヶ月間の交換留学だった。
「すごくいい体験でした。日本の高校生活とオーストラリアの高校生活って全く違うんですよね。たとえば、りんごをかじりながら先生の話を聞くとか、『授業中に食べていいの?』って思いますよね。過ごし方一つ一つが本当に全然違うっていうのが、新鮮で面白くて。じゃあオーストラリア以外のほかの国に行ったら何が違うんだろう、もっとほかの国に行ってみたい、もっと違う体験してみたいって思うようになりました」
オーストラリアでは、想像もしていなかった毎日が萩生田氏を待っていた。人との向き合い方に敏感だったからこそ、日本とは違う当たり前が広がるその環境で受けた衝撃は大きい。心揺さぶられる、楽しくも刺激的な体験だった。
一ヶ月の留学期間はあっという間に過ぎ去り、帰国の日がやって来た。しかし、萩生田氏の心は、もっと多くの冒険を求めていた。大学は海外へ行きたい、それも一年間の交換留学などではなく、4年間その地で暮らしてみたい。その方がもっと現地に根付いたライフスタイルや考え方も体験できるし、何より楽しい時間が長くつづく。同じ毎日の繰り返しはつまらない。予想ができてしまう未来もつまらない。だって世界には、自分の想像を超えるものが待っているのだから。
「ちょっと危なっかしくて、わからなくて、冒険心に富んでいたほうが、次に何が起こるんだろうってワクワクするじゃないですか」
アメリカ・カリフォルニアでの大学生活のうち、1年間はスペインの大学へと交換留学した。日本とアメリカの2国間しか知らないよりも、ヨーロッパという古い歴史の国も知っていた方が、よりバランスの取れた考え方になるのではないかと考えたからだ。なおかつ、2カ国語よりも3カ国語話せた方が、受け取る情報量も発信できる情報量も多くなる。
「たとえば、同じ日本人同士の会話で『スマートフォン』というキーワードが出たら、ある程度会話が予測できるし、言わなくても通じあう部分、あうんの呼吸のようなものがあると思うんです。でも、レバノン人とアメリカ人の友達が集まっていたら、全然違う話の展開になっていく。日本人3人でいるときには想像もできないような話の展開やおもしろさになっていくんですよ」
宗教や政治に恋愛、どんな話題であったとしても、異なるバックグラウンドがあるからこそ、異なる意見や話の展開が生まれていく。そこには、自分の予想を超えていく面白さがある。人とは違う意見が評価される海外では、日本のように無理に話を合わせて自分らしさを殺す必要もない。日本では変だと評価される人も、海外ではユニークな存在として評価されるのだ。
世界中に友達ができた大学生活。新しい言語を学び、ものの見方も広がった。一緒にいる人や環境を変えることで、自分の見る世界が変わる。それによって、より自分の意見を、より自分らしさを出せるようになっていった。
自分らしくいられる海外での生活が好きだった。しかし、将来自分がどんな仕事をしているかは想像もついていなかったと語る萩生田氏。就職活動が迫ったときには、やりたいことも見つかっていなかった。何となく日本で生活するよりも、日本を拠点にしながらも海外を飛び回る政治家の通訳や外交官のような仕事を思い描いていた。最終的に、キャビンアテンダント(以下、CA)になるのはどうかと、祖父に相談したという。
「就職活動のときに、CAはどうかなと祖父に相談したんです。そしたら、『そういうのは新幹線でお茶とか配るのと一緒で、それを空でやっているようなものだ。CAになるんじゃなくて、自分が飛行機のファーストクラスに乗って、ばんばん海外に行ってビジネスをできるようになったほうが面白いんじゃないの』って言われて、たしかにそうだなと思ったんです」
海外に行くための手段としてCAになりたかった。けれど、海外に遊びに行ったり、英語を話したりすること自体が目的ではなかった。大切なことは、英語を使って海外に行き、そこで自分が何をしたいのかであると、祖父は説いてくれたのだ。
改めて考えてみると、萩生田氏のなかで3つの軸が見つかった。何かを通じて社会に貢献すること、グローバルに活躍できるフィールドが用意されていること、そして人を育ててくれる土壌があること。これらを満たす企業を探した結果、萩生田氏はグローバルに事業を展開する日系の大手医薬品メーカーから内定をもらうことができた。
「最初の面接のときから、『将来は海外で働きたい、海外に携わる部署で働きたい』と常々言っていました。まずは現場で営業を経験させることが会社のポリシーだったので、そこで経験を積み成果を出して、そしたら会社としても(希望部署への異動を)考えるよというスタンスだったので、がんばろうと決めたんです」
希望する企業に入社したとしても、最初から希望のポジションにつけるとは限らない。はじめは営業として、夜中までがむしゃらに働いた。当時はつらいこともあったが、いま振り返れば楽しかったと萩生田氏は語る。実績を残したことで念願が叶い、本社にあるグローバル人事戦略部への異動が決まったのは、2年後のことだった。
憧れの仕事、尊敬できる上司。新しい部署では、人にも仕事にも恵まれた。そこでは、海外に広く展開する同社全体の人材育成を担っており、才能や強みの輝かせ方、コーチングの技術などを学んでいった。
「新入社員とか同期とか、いろいろな人を輝かせることが仕事でした。一方で、海外の一国を任されているトップの人たちを執行役員候補として集めて、社長の講演やMBAでもう一段昇進させるプログラムを担当したこともありました。それをやったときに、いままでは自分が営業で第一線にいたのに、いまは裏方で、人を輝かせるサポートだけ。輝いている人たちを見て、うらやましいなと思った記憶がありますね」
第一線の現場で活躍していながら、偉ぶったところがなく人間的に優れている人。当時若手だった萩生田氏にも分け隔てなく優しく接してくれる、人間的に素晴らしい人たちとの出会いがあった。自分もいつか、そんなリーダーになりたいと思わせてくれた存在だった。
かつては自分も営業として成果を残し、希望する部署へ異動することができた。周囲の人から期待され、応援してもらってきた。いまも変わらず仕事を楽しんでいる自分がいたが、萩生田氏の目に映る彼らは、それ以上に輝いて見えたのだ。
「自分の強みを分かっていて、足りない部分はいろんな人的リソースを使って集めてきて。みんなの力を借りながら成果を出して、やりたいことなのか期待されていることなのか、とにかくやると決めたことを達成していく人。なおかつ充実していて、それを楽しんでいる人が、輝いているなと思います」
自らの意思をもち、やると決めたことを成し遂げる。自分らしい生き方を見つけ、何よりそれを楽しんでいる。萩生田氏の心に芽生えたのは、そんな風に輝きながら生きる人たちへの強い憧れだった。
約6年間働いた製薬会社を退職したのち、ケニアでのボランティアに参加するべくアフリカ大陸へと渡った萩生田氏。地球の裏側にあるその地で生活してみたいという思いは、萩生田氏が大学生のころから抱いていた思いだった。
「大学生のときに国連が主催している模擬国連というプロジェクトに参加して、一日1ドル以下で暮らしている人がこんなにいるんだって衝撃を受けて。いつかはアフリカに行って、本当にそういう状況なのかとか、1ドル以下っていっても物価が安いので、そんなに大変じゃないんじゃないかとか、先進国のやり方を押しつけるのはエゴなんじゃないかとか、彼らの伝統や美しい自然を奪ってしまっているのではないか、とか、自分の目で確かめてみたいと思っていたんです」
学生が無鉄砲に現地へ渡っても、何も役には立ちそうにない。それならば、自分がある程度自立し、それでも行きたいと思っていたならば、いつか行こうと考えていたという。29歳のとき、「いま行かなければ一生後悔する」という思いに駆られた萩生田氏は、会社を退職する決心をした。
「会社ではもちろんすごくいい経験をさせてもらって、いまでも感謝しているんです。でも、自分の経験すべきこととか、得るべき体験、貢献すべきこととかが一通り終わって、ある程度自分はやりきったみたいな満足感もあって。次の人生とかキャリアを考えたときに、もっと挑戦をしていかないとと思ったんです」
人類発祥の地、アフリカ。それまで世界5大陸中4大陸には長期滞在したことがあった萩生田氏にとって、唯一そこは足を踏み入れたことのない土地だった。人口も増加し、中国やインドの次に期待される世界のマーケット。萩生田氏が退職前に棚卸ししたという「人生のToDoリスト」の中にも、「すべての大陸に住むこと」という1項目が入っていた。
死ぬ前にやる100個のこと、もし何でもできる状態であれば何をしてみたいか、あるいは死ぬ前にしていなければ後悔することは何か。28歳のころ、人生で経験したいTodoリストを棚卸したという萩生田氏。そのなかでも、すべての大陸に住んだ経験があれば、自分の経歴にとって強みになるのではないかと考えていた。
人生のToDoリストには、まだ見ぬ夢が詰まっていた。両親をファーストクラスでハワイ旅行に連れて行きたい、子どもを産んでみたい。自分の心からの願いが詰まったそれを、萩生田氏は大切にして一つずつ実現してきた。「すべての大陸に住むこと」という一つの願い、それを叶えるタイミングは「いま」しかないと思えていた。
自分が面白いと思うものに挑戦していくことで、自分が変わり、周囲も変わっていく。
「できるだけ若いうちにユニークな経歴をつけたほうがやっぱり面白がられるから。そのほうが幅も増えるし、来る仕事も面白くなる。集まってくる人もユニークで彩り豊かというか、つまらなくはないですよね。自分が面白くなっておけば、面白い人が来るじゃないですか。自分がセーブしちゃってこの辺でぬるま湯でいいやってなると、ぬるま湯の人しか集まってこないから、そうすると今後の人生がかわいそう。だったらここでちょっとリスクを背負ってでも、面白い方を選んだほうがいいかなと思ったんです」
「世界が変わる」とはいうが、結局その「世界」とは、いま自分が見ている世界にほかならない。一緒にいる人、住んでいる家、職場の環境、いまの自分が見ている景色が、自分の世界を決める。だからこそ、自分が見ているものを変えれば世界が変わる。
そうであるならば、まずは自分が面白いと思う人や、この人であれば一緒に失敗しても楽しい、成長した、と思える人と一緒にいたいと、萩生田氏は考えた。世界には、自分の想像を超えていく面白い人々との出会いがあると知っていた。
自分の人生にユニークな経歴を持たせよう。挑戦を選び、自分が見ている世界を変えていこう。萩生田氏は、貧困地域を自分の目で見てみたいと、ケニアでの6ヶ月間のボランティア活動に従事した。そこで出会ったのは、日本では夢にも思わなかったほど生命力に満ちあふれる美しいバラだった。
慣れない土地での不安な日々を、明るく照らしてくれたバラ。太い茎と大輪の花は、アフリカらしく力強い。そんなバラと、大切な人へ愛情や感謝を伝える素晴らしい文化をも、日本に届けたい。それこそが、萩生田氏が輝くための冒険の道である。
2012年、萩生田氏がたどり着いた答えは「アフリカの花屋」という形となった。日本人に心の豊かさを届け、アフリカに雇用を創出する。心に花開いた思いを枯らすことはしない、それが萩生田氏の生き方である。
2012年にインターネット上での販売を開始し、2015年、東京広尾に初の直営店「AFRIKA ROSE(アフリカローズ)」をオープンしたアフリカの花屋。今後は店舗数を増やしていくことも視野に入れながら、それ以上に大切に守りつづけたい思いがあるという。
「いままでは私が引っ張ってみんなが実現してくれて、という形だったんですけど、果たしてこれからそれで良いのかなというのは疑問に感じていて。やっぱりみんなで作っていて、『私の』AFRIKA ROSEじゃないんですよね。いまは一緒にやっている仲間がいて、彼らにとってのAFRIKA ROSEでもあるから、みんなが輝ける場所となりつづけてほしいんです」
チャレンジしたい人はチャレンジできる場所でありたい。幸せを広めたい人は幸せを広めることができる場所でありたい。たとえば、あるスタッフはフラワーデザイナーとして、その人自身のライフワークを実現できる場所であるようにAFRIKA ROSEは存在する。働く人それぞれが輝くための場所として、ありつづけることを萩生田氏は願う。
企業として成長をつづけながら、「より幸せな人を増やす」という軸は変わることがない。有機的に生きる人の営みから生み出されるものであるからこそ、その場もそれぞれにとって自由な場所であることが重要となる。
「どういう形で思いを実現していくかは何百通りもあって、全員が幸せになれるモデルは必ずあると思うので、それを追求していきたいですね」
大切な人に、大切な思いを伝えることで、一人一人が幸福になる社会。ケニアのバラ農園で働く女性たち、日本でそれを消費者の手に届ける社員たち。すべての人が輝ける場所として、AFRIKA ROSEは存在する。もっと、アフリカのバラを世界へ。もっと、笑顔あふれる世界のために。AFRIKA ROSEは、社会に愛の循環を生み出していく。
2015年5月、アフリカのバラ専門店「AFRIKA ROSE」を東京・広尾にオープンした。
自分らしく輝いて生きるために、現代を生きる私たちにとって必要なことはなんだろうか。これまで「自分の心」へ問いかけつづけ、自らの道を選択してきた萩生田氏は語る。
「みんなもっと楽しんだらいいんじゃないかなと思うんです。強みとか、こうやらなきゃいけないからとか、あんまりそういうことに縛られないで。自分の人生なんだから自分が生きたいように、もっとわがままに。わがままというのは、人に迷惑をかけるとかそういう意味じゃなくて、もっと自分の欲求に素直に生きること。そうすれば、一番全員がハッピーになるんじゃないかなと思います」
自分の欲求を見つけられないという人は多いと語る萩生田氏。世の中で正解とされるものを追いかける方が、社会の中で生きていく上では、ある意味楽でさえあるかもしれない。しかし、自分の幸せは、誰かの決めた正解にではなく、自分の心の内側にあるものだ。
「大切なのは、心の声を聞いて、ちょっと怖くてもそれに素直に行動することですね。世間の目とか、本当はこうしたいけど自分が我慢すれば丸く収まるとか、そういう風にちょっとずつ我慢していないでやってみればいいと思うんです」
無意識に押さえ込んでいる自分の感情。我慢しているうち忘れ去られた本当の願い。少しでも興味をもったことがあれば、実際に自分の目で見て、聞いて、体験してみればいい。そうやって人生のToDoリストを叶えていく。
萩生田氏の場合、そのなかには「出産」も入っていた。
「やっぱり女性として生まれて、できるならば経験してみたほうがいいかなと思って。あと、どの人に聞いても後悔してないんですよね。結婚したことは後悔して、離婚したり、旦那さんに不満をもつ人もたくさんいるけど、子どもを生んだことは間違ってなかったと、本当に世界一の宝物だって、みんなに言われたんです」
無償の愛を注ぎ、守りたいと願わずにはいられない存在。身近で出産を経験した女性の誰もが、そう言ってくれた。そんなに良いものなのであれば、一度きりの人生の中で出会いたい存在だと思った。
「私はいままで自分のことが一番大切で、命をかけてまで守りたいものって正直ありませんでした。でも、子供が生まれたら自分の命を捨ててもいいからこの子を守りたいと思う。そんな存在って本当にあるのかなって。でも本当にそうなれるとしたらすごく豊かなことだし、自分も体験してみたいなと思ったんです」
2018年1月、無事に元気な男の子を出産された萩生田氏。取材時にいただいた、生まれゆく子どもへのメッセージがある。
「『この美しい世界にようこそ』と言ってあげたいですね。早く見せてあげたいです。いろんな美しいものを見て、いろんな楽しい経験をして、命を楽しんでほしいなと。健康にすくすくと育って、世界を楽しんでほしいなと思います」
命を授かるということは、一つの奇跡である。それは、世界中すべての人にとって変わらない。その命を輝かせるために、私たちはさまざまなものを見て、聞いて、体験する。
日本を知り、世界を知る。誰もが心の声に従い、自分らしく人生を楽しみ、生きることができるはずである。萩生田氏はアフリカの大地から美しいバラを、そして惜しみない愛を、人々の心に届けていく。
2018.07.09
文・引田有佳/Focus On編集部
企業と個人の関係は、時代とともに変化を続けている。
産業革命以降の個人は使用者である資本家と従事者に明確にわけられ、人は労働力として、あくまでも経営の一つの物質的リソースとしてとらえられてきた。競争関係のなかで資本家は利潤を最大限追求し、そこでは、いかに安い労働力とするかという努力が重ねられていた。
第二次世界大戦以降の日本においてには、企業で働く個人はサラリーマンと呼ばれ、組織が与えるミッションに向かい「勤勉」であることが価値とされ、産業を成長させてきた。
事業を成長させるために、個人にとっての労働とは「食べるため」にするものでありつづけた歴史がそこにはあった。
しかし、現代の労働観において、仕事には「食べるため」にするもの以上の意味が求められつつある。本来の人間の生きる姿を求め、自己の生き方と自己の仕事の重なりを求め労働に向かい、それが企業の発展の力にもつながっている。いまでは個人も、事業を牽引する経営者の従業員への考えも、「食べるため」の労働観であっては事業成長はなしえない。「社畜」と揶揄する言葉も、組織に飼いならされる苦役労働から自己の生きる姿に向かうためのアウフヘーベン*ともいえよう。(*あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%95%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3-422105 より)
現代の経営において、個人を物質的な労働力と公言する企業を見つけることは難しい。昨今の「ティール組織」などに代表されるように、「個人の使命」を「企業の存在目的」に重ねることに目的が置かれる組織では、個人のありのままの最大限のパワーを引き出すための環境を模索する議論がなされている。しかしながら、いまだその答えに辿り着き、実現に向かう組織は多くはないようである。
現代の多くの職場で部下達に、より大きな権限を与えるヒエラルキーによらない関係、あるいはインフォーマルな「ネットワーク」が現れつつあり、そこでは協調関係は上から押し付けられるのではなく下から湧き上がってくるものなのである。そして共有される規範または価値観に従ってフォーマルな命令がなくとも個人が共通の目的にむかって協力するのであり、協調関係は信頼を生む「社会資本」すなわち人々の協力の基盤となるインフォーマルな価値観や規範に基づいているのである。すなわち「ネットワーク」として理想的な企業文化とは、個々の労働者に集団としてまた個人としてのアイデンティティを与え、集団の目標に向かって努力するように促すことであり、それが組織内での情報の流れを促進するのである。―慶應義塾大学商学部教授 佐藤 和
人生の発露として、萩生田氏の「ありのまま」が形となり立ち上がった「AFRIKA ROSE/アフリカの花屋」。同社では現在、萩生田氏自身がそう生きてきたように、ともに働く仲間へも「自分の人生を生きること」を促し、それをなし得る組織創りを目指している。
これは、組織の進化系であるといえよう。誰が創り出す組織か、何を目指す組織か。何のために生き、働くか。その自問自答をひとりひとりが考えつづけ、具現化していく。だからこそ、組織内すべての人の力が最大化される。その姿の証明を、日本のみならずアフリカへ、そして世界規模で実現していくのだろう。
アフリカの花屋は、アフリカの花屋としての現状の価値に縛られない。また、萩生田氏個人の考えによる定義に縛られることもない。そこでは、アフリカの花屋に関わる全ての人の存在により、有機的に進化を続けていく組織の姿がある。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
佐藤和(2007)「信頼と共同体の復権 : 水平的集団主義と日本型経営の将来」,『三田商学研究』50(3),慶應義塾大学出版会,< http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234698-20070800-0199 >(参照2018-7-8).
AFRIKA ROSE(株式会社Asante) 萩生田愛
Rose Stylist/代表取締役
1981年生まれ。東京都出身。18歳のとき渡米し、カリフォルニア州立大学を卒業。日系の大手製薬会社に入社し、営業及び海外人事戦略に携わる。2011年に退職後、ボランティアとして渡ったアフリカ・ケニアにて、豊かな自然で育まれた生命力あふれるバラと出会う。帰国後、2012年にオンラインショップ「アフリカの花屋」を立ち上げ、ケニアから直輸入したバラのネット販売を開始。2015年5月、アフリカのバラ専門店「AFRIKA ROSE」を東京広尾にオープン。2017年10月には、ポプラ社より初の書籍『アフリカローズ 幸せになる奇蹟のバラ』を出版した。
http://afrikarose.com/index.aspx