目次

境界線のない世界で人類の可能性を夢見る ― DXの文脈の先にあるもの

境界線をなくすことで、そこに生まれるきっかけがある。


オンラインとオフラインの境界線のない世界を実現すべく、DXコンサルティングを中心に最先端技術領域における研究開発を推進するFabeee株式会社。「ITをわかりやすく。」をコンセプトとして掲げる同社では、大手~中堅企業へのコンサルティングから開発実装までを一気通貫で支援。2021年からは茨城県守谷市とタッグを組み、行政DXプロジェクトとして国内外のスマートシティ事例を元にした新しい街づくりに向けたアイディエーション・計画策定を推進するなど、公益性の高いプロジェクトの実績も持つ。


代表取締役の佐々木淳は、新卒で不動産営業職としてトップセールスを経て、現在東証一部上場のウィルグループ内で人材紹介業に従事。IT領域に特化した人材紹介事業立ち上げに参画・貢献したのち、2010年にFabeee株式会社(旧 株式会社フォトメ)を創業した。同氏が語る「挑戦しつづける意味」とは。






1章 Fabeee


1-1. オンラインとオフラインの境界線のない世界を実現する


現在進行形の社会のために事業を創るのではなく、近未来の社会の在り方からインスピレーションを得て、現実に落とし込む方法を考える。イーロン・マスクやGAFAの生みの親たる起業家たちがSF小説から着想を得たように、佐々木もまた映画『アベンジャーズ』に来るべき未来を見たという。


「自分が何をやりたいかというより、50年100年経ったときにどんな世の中になっているかっていう定義から始めたんですよ。そこから『オンラインとオフラインの境界線のない世界』っていうのが明確に出てきて」


大切なことは、最先端技術のさらなる発展だけでなく、ITをきちんとわかりやすい状態で世の中に浸透させていく。両輪を回していくことだと同社は考える。


たとえば、主にデータマネジメント領域においてクライアントの事業課題を解決するDXコンサルティングサービス「Fabeee DX」。フルリモートでの開発体制を提供する「Fabeee AnyPlace」。ITプロフェッショナルによる常駐型・技術支援サービス「Fabeee Tech PARTNERS」。


クライアントに多角的なITソリューションを提供するサービスメニュー。しかし、それらはあくまで同社では布石とされている。


オンラインとオフラインの距離を近づけ、垣根をなくすほどになれば、今はまだSFの中にしか存在しないような世界が実現できるかもしれない。そのくらい社会における「IT」の立ち位置を再考することに、Fabeeeは挑戦すべき焦点を見出している。


2021年後半から急速に世界の関心を集める「メタバース」も、そんな世界観の解像度を上げてくれるキーワードの1つだったという。


「僕らが今やっているDXコンサルティングっていうのは、地上戦の経済活動を回すためのものなんですね。オフラインがもっと活きるようなビジネス活動で。将来的にはこの経済活動を全部ひっくるめて仮想に持っていくこと、仮想と地上を行き来できるようにすることが、境界線をなくすことなんじゃないかと考えているんです」


業務が効率化されたり、イノベーションが加速する。目下企業が取り組もうとするDXという枠組みを超え、人の暮らしのあらゆる活動を仮想上に置き換えることで人生の創造性が高まっていく未来を同社は描く。


「オフラインの経済活動だと、人生何度でもやり直せないじゃないですか。けど仮想上だと人生何度でもやり直せるんじゃないかなって。そういう社会があってもいいんじゃないかなと、いろいろな情報を見ていてそういう感覚に陥ったんです。現在の社会に不自由さを感じている人、成功体験を持てていない人も、経済を回す主体になることができる。人生がサステイナブルになり、全員が平等な世界がITで実現できる」


オンラインとオフラインの境界線をなくすと、人の人生に新たなきっかけが生まれるようになる。


たとえば、身体上のハンディキャップを乗り越えたり、技術に習熟していなくてもものづくりができるようになる。言語の壁も国境の壁もなくなり、あらゆるコラボレーションが活性化する。そんな未来をSFのように自由に恐れず描いていいはずだ。


DXはそのための一歩に過ぎないのだと、人類の進化はもっと先の可能性に満ちた世界を描くことを可能にするのだと、Fabeeeの挑戦は語りかけてくる。




2章 生き方


2-1. ボールがあれば友達


いつだって必ず近くには友達がいた。生まれてすぐ引っ越してきた東京都昭島市の新築マンション。周囲を田んぼや古い民家に囲まれ、そこだけが団地のように複数棟が集まっていた。そんな環境で育ち、近所の同世代と自然と仲良くなっていったことも大きいのかもしれない。


学校の同級生、隣町の友達まで。いつも決まった顔ぶれというわけでもなく、さまざまなエリアやコミュニティに友達がいる。それが佐々木にとって、幼い頃の日常だったという。


「小さい頃は、天真爛漫って感じじゃないですかね。明るくて活発で。サッカーやってたので、サッカーボールをきっかけにいろんな人たちと試合したりとか、大人を交えてサッカーしたり、隣の街に乗り込んでいって友達になるとか。『ボール蹴ろうぜー』って仲良くなって友達になることがほぼでしたね」


人が好きだと、佐々木ははっきり語る。


1人で遊ぶよりは、いろいろな友達と仲良くなって遊びたい。ボール1つをきっかけに、コミュニティが増えていくことを心から楽しんでいたあの頃。知らない人との垣根をなくしてくれたサッカーというスポーツにもまた、特別な思い入れがあった。


「きっかけは『キャプテン翼』ですね。5歳の時にサンタさんにスパイクを買ってほしいって頼んでから、スパイク履いて幼稚園行ってました(笑)」


はじめは遊びから入りつつ、小学校3年生くらいになると学校のクラブに入った。いわゆる平日の放課後は練習で、土日は試合の生活だ。ゴールを決めたり、ドリブルで人を抜いたり。純粋にサッカーが上手くなるのが楽しくて、暇さえあればボールを蹴っていた。


1993年、日本のプロサッカー界の歴史的幕開けとなったその年。Jリーグが発足し、スタジアムを駆け抜ける選手たちの勇姿に、日本中のサッカー少年たちが心躍らせた。もちろん佐々木もその1人だ。小学5年生の頃だった。


「最初の試合でヴェルディ川崎(現 東京ヴェルディ)のマイヤーっていう選手が1点目を決めるんですけど、それを見た瞬間にすごいなと。こういう歓声の中でやってみたいなとか、こういうところに立てたらなぁとか、子供ながらに漠然としたワクワクと興味がありました。そこからプロになりたいっていう軸が固まってきて」


祖母と母と


ちょうど日本が空前の好景気に沸き立つ時代だった。しかし、Jリーグ発足と前後してバブルは崩壊。佐々木の家にも、その余波は届いていた。


「祖母がブティックを経営していて。母親も自分で服を仕入れてきて、マンションの中をコーディネートして陳列して、マンションの人に販売する姿を見ていたので、商売とか経営が身近にあった家庭でした。盛り上がっていたときは、蝶ネクタイつけて高級フレンチに連れて行ってもらったりしていたのが、バブルがはじけてなくなって。一気に寒い風が吹く感じになったのが、ちょうど小学校5、6年でもありました」


子供の立場からお金のことはよく分からなかったが、数店舗あった祖母の店もなくなり、数千万の返済が残ったのだとあとから聞いた。目の前で涙を流しながら喧嘩している両親や祖父母の姿が、当時の家庭風景として記憶に残っている。


しかし、家がそんな窮状にあるにもかかわらず、母は「好きなことをやりなさい」と変わらず応援してくれていた。自身もかつてはバスケットボールで全国大会に出場したことがあるらしく、スポーツに燃える血は脈々と受け継がれたものだったのかもしれない。


始まりはどこにでもいるごく普通のサッカー少年だった。それが小学校高学年から急激に背も伸びはじめ、地元ではスポットライトが当たるような活躍をしはじめた。プロになるという夢が、次第に現実味を帯びてくる。成長していく息子に、母は自身の夢を投影しているようでもあった。


「プロになるためにはどうしたらいいかっていう軸で教育されていました。とにかく成果だとか、結果が大事だとか。結果に対してのインセンティブが、点を取ったらいくらとか設定されてるんですよ。プロ選手になったときには、レギュラーに入らなければお金なんて出ないし、そのために何の努力をしなきゃいけないんだっけっていう話とかしてましたね」


母の熱のこもる教育のおかげか、中学入学と同時に、佐々木は憧れのヴェルディのジュニアユースに選抜されることとなる。地元のごく小さなクラブ出身としては、快挙といえる結果と言えるだろう。


目指すものを叶えるためには、とにかく結果を出すことが大事なのだということ。結果を出すために何をすべきかに集中すべきだということ。母の教えは、その後の人生でも胸のなかで響きつづけた。


小学校のサッカー合宿にて



2-2. 周りのおかげ


プロサッカー選手になるために、それだけに邁進する生活が始まった。


朝は中学に登校し、授業が終わればそのまま電車でよみうりランド*に隣接するヴェルディの本拠地グラウンド(当時)へ直行する。練習に練習を重ね、さらに自主練まで加えると、家に帰るのは毎晩23時近くなる。そんな生活が、不思議と苦にならない。(*東京都稲城市にある遊園地)


「根底にあったのは、好きだからでしょうね」


サッカーが好きだから。プロになりたいから。目指す地点が明確だからこそ、目の前の練習に集中できた。とはいえ、そこには勝つか負けるかのタフな世界がある。


応募者500名を超えるセレクションを経て、選抜されたメンバーは十数人。何気なく隣で練習をこなしているのは、全国でも名が通るようなスーパースター選手ばかりだ。自分ともう1人だけが、格下扱いからのスタートだった。


いかにこのメンバーの中で結果を出すか。当時はそのために今何をすべきなのかということしか頭にはなかった。


「今で言うといじめみたいな話なんですけど、あるときチームメイトに『お前今日からウィッチね』って言われて。『今日英語覚えたんだけど、忘れないようにお前につけとくわ』みたいな。でも、そいつはめちゃくちゃ有名なやつなんですよ。そいつから名前をつけられたってことは、仲良くなれるきっかけだと思って」


偶然つけられたあだ名。これはチャンスだと佐々木は捉えた。チャンスは逃したくない。いじられキャラとしてチーム内での立ち位置を確立。すると、同期にとどまらず先輩からも、世代を超えて「ウィッチ」と呼ばれ親しまれるようになった。


なかには挫折して辞めていくメンバーもいる。彼らを横目に、あくまで結果のために貪欲になり練習に向かう。監督にも「100万ドルの笑顔」と言わしめる明るさで、学年という枠を超えて仲良くなる。テクニックでは敵わないが、50m走6秒前半という足の速さも幸いし、少しずつチームに受け入れられるようになっていった。


スキル以外で印象を残していくうちに、1学年上の練習に参加させてもらえるようにもなってくる。フォワードとして自信がついてくる。周囲が味方になってくれたことで、目に見えて上達スピードが上がっていくようだった。


「1年生のときに、1試合で9点とか6点とか飛び抜けた結果を出したんです。やっぱり周りのおかげなんじゃないですかね。結果として、成功体験が生まれていきました」


周囲の人たちの存在があったからこそ、結果を出すことができた。それが成功体験として記憶に残っている。自分はここでもやっていけると、努力で証明することができたのだ。


いつか憧れるヴェルディの大先輩、三浦知良選手のようになりたい。当時チームメイトみんながそう思っていたように、佐々木もまた、そう願ってやまなかった。




2-3. 夢と現実


高校もプロになるためのサッカーをするつもりでいた。だが、少しのきっかけで歯車はずれていく。


「もともと高校もユースに行く予定で、オファーもあったんですけど……その時高校サッカーがすごく盛り上がってて、高校サッカーで活躍する選手を見ていて、めちゃくちゃ楽しそうだってなってきて」


ちょうどチームメイトにも、高体連*の強豪校に行きたいと言っている人がいた。そんな要因にも感化され、飛び込みで、当時全国優勝をした千葉の強豪校のセレクションに参加するも、学費免除を受けられる枠に入れずやむを得ず諦める。ユースにも戻る道はなくなり途方に暮れていた時、滑り込みで声をかけてくれたのが東海大学菅生高校だった。(*公益財団法人 全国高等学校体育連盟の略。「インターハイ」を主催する)


全国1、2位を競うチームから、東京で1、2位を競うチームへ。練習方法も雰囲気もまるで違う。はじめはカルチャーギャップに苦しんだと佐々木は語る。


「セレクションの時も、『こんな練習、目つむってでもできるんですけど、やる意味あるんですか』とか言っちゃうタイプだったんですよ(笑)。胸ぐら掴まれて、先輩から嫌がられましたけど、上下関係はそこで学びました。そういう先輩の圧もそうだし顧問も厳しかったので、自由を排除した環境でのサッカーっていう感じです。本来サッカー自体自由であるべきですけど、自由を制御したサッカーはストレスでもあり勉強にもなりました」


ヴェルディ時代はグラウンドで自由に自分を表現できたが、今や全てのルールが決まっている。しかし、そこでミスをする自分がいるのも事実。もっと磨き上げ、勝ちにいきたい。そのために必要なことをしようと思った。


「(考えることは)結果しかないです。自分の周りは全国で闘ってたりするなかで、こんなところで腐ってられないよと思ってましたね。今まで関係性があったやつらと、同じ土俵で闘いたいという気持ちでやってました」


結果を求め没頭していると、良くも悪くも麻痺していくものがある。厳しい上下関係。自由のない高校サッカーの練習環境。ここで活躍することだけを考える。


しかし、人生には予想外がつきものだ。


高校2年の春、佐々木は交通事故に遭う。幸い乗っていた自転車と車が接触したために、骨折もせず命に別状はなかった。それでも、レギュラーではいられない。半年間の練習を棒に振ることとなった。


高校3年の冬には、選手権大会で結果を出してオファーをもらう。そんなストーリーを描いてはいたものの、現実の自分はリハビリと格闘している真っ最中にいて難しい。


最終的に自分たちの代は全国出場を果たし、点も取った。部活としては、有終の美として誇れる結果である。おかげで指定校推薦で大学に行けることとなった。しかし、サッカーをするための大学ではない。普通の大学生活を送るための大学だ。


本気でプロになりたかった。数年間、全てを捧げてきたつもりだ。それでも、ずっと没頭してきた世界から一歩外へ踏み出す時はやって来た。意外にもあっけない結末だ。4月、大学のキャンパスに吹くひやりとした春の風は、心にできた空白の存在をふと思い起こさせてくるようだった。


高校、サッカー部の試合にて



2-4. 誰かの人生のきっかけになる


その人との出会いのきっかけは、とある大学の授業だった。学年問わず参加できる体育のような科目があり、サッカーができるという理由で友達と取ったものだ。


中高の経験者だった自分からすれば、気軽にやっても試合で活躍できてしまう。その姿が同じ授業に参加していたサッカーサークルの人たちの目に留まったようだ。声をかけてくれた先輩のうちの1人が、のちに兄貴と呼べるような存在になっていく。


大学生活を語るなら、その人なくしては語り尽くせない。


「『お前も来いよ』みたいに言ってくれた。その人が、僕の人生を変えてくれた先輩で。兄貴みたいな感じで慕ってましたね。人付き合いとか考え方とか教えてもらったり、バイト先も紹介してもらったりとか。仲良くなって、一緒に住むようになって。まぁ僕が転がり込んだんですけど(笑)」


先輩はいつも明るくてみんなの中心にいる。それでいてわがままで、人と関わるのが大好きな人だった。性格もどこか自分と似ている。


2人でパチンコ屋に入り、なけなしのバイト代をスロットであっさり溶かしたり。かと思えば、大当たりして飲みに行ったり。「ウイニングイレブン」に熱中し過ぎて、気づけば朝になっていた日もある。じゃんけんで負けた方がマンションの前の歩道橋で面白いことをして、帰って来て相手を笑わせていたら勝ち。そんなくだらない遊びを、飽きずに何十回と繰り返したりもした。


笑いの絶えない日々。ときには人生や将来のことをとりとめもなく話したりもした。どれもかけがえのない時間だと思える。先輩からもたらされるきっかけの一つひとつが、自分の人生をまるっきり変えてしまうようだった。


「先輩のお父さんが経営コンサルティング会社を経営していて、その手伝いとしていろいろ短期のアルバイトをさせてもらえる機会があったんです。ビジネスの現場に触れ、どういう経営状態でこういうことを改善しなきゃいけないとか、そういう勉強をさせてもらうような時間が結構あったんじゃなかったかな」


祖母が自分で商売を営んでいたこともあり、起業や経営への興味関心は自然と自分事として高まっていく。漠然と将来自分で起業することも考えるようになった。


初めて仕事に近い経験をしたのは、大学3年の終わり頃。不動産賃貸の営業のインターンだった。これも先輩の紹介で入れてもらった。物件のオーナーさんへテレアポをして空きがあるか確認したり、内見の案内をしたり。繁忙期だったので、あまり苦労せず契約が決まっていく。それが楽しく、成功体験となっていった。


「就職活動では『高額商材を扱った方がいい』と先輩から言われていて。お前は営業力だろうなと。それで不動産会社に就職したんですけど、本当は悩んでいたものがあって。自分はスポーツをやってきたし、コミュニケーション能力を活かして義足の人や怪我した人をサポートできたらいいなと思って、理学療法士か心理カウンセラーになりたいと思っていた時期もあるんです」


もともと高校時代から、友達の恋愛相談や喧嘩の仲裁といった場面で頼られることが多かった。浅はかかもしれないが、人と対峙してその人の問題を解決する能力が高いのではないかと思っていたのだ。


理学療法士と心理カウンセラー。どちらも国家資格であったため、親に相談するとお金がないから難しいと言われ諦めざるを得なかった。しかし、いずれにせよその姿勢、人の悩みを解決したいという思いは変わらず佐々木の中にあるものだった。


「人が好きだからだろうな。人とのコミュニケーションとか共同作業が好きだから、その人のことを分かろうとしたり、どうしたらいいかっていうのを考えることが多かった気がします。そういうところは不動産の仕事でも、その次に人材系に行ったときにも活かされていたかなと思います」


大学、地元の友人と


新卒入社とは、人生でも一度きりの大イベントだ。気合いと緊張が入り混じる初日。期待を胸にオフィスに足を踏み入れると、そこにはタバコの煙がもうもうと立ち込める空間が広がっていた。


思い描いたようなキラキラとしたサラリーマン生活は、もしかしたらないのかもしれない。灰色の重たい空気を吸い込みながら思う(あとから知ったことだが、当時の不動産会社ではよくある光景だった)。


配属されたのは東京都府中市のエリア、多摩川の外れにあるマンションだった。先輩たちが口々に言うには、どうやら売れ残り物件と呼ばれているらしい。気合も十分に「3年で1番を取る」という目標を掲げていた自分は、出鼻を挫かれたようだった。


「ただOJTについてくれた先輩が超いい人で。売れるためにはどうしたらいいかとか、くまなく教えてくれて。『一生懸命やってれば花開くから腐るなよ』『お前はできる』って、否定がないんですよ。周りの課からはできないと言われながらも、同じ課の先輩たちは『絶対成功する』って言いつづけてくれて」


条件の悪い物件を担当して思うようにいかない日々も、周りの先輩のおかげでなんとか続けられたようなものだ。1年目の成績は、同期の中でも下から数えた方が早かった。それでも結果を出すためにできることをするつもりで、自分なりに懸命に努力を続けていたある日、飛び込み営業先で印象的な出会いがあった。


「当時の電力会社の社宅って、無機質で真っ白なマンションで。壁の薄いところに16部屋あるような感じの古いところなんですけど。そこの玄関に肩をガンって入れて、ニコニコして『特典やってまして…こういう物件で…』っていうのを若いなりにキラキラしながらやってたんですよ。そしたらあるお宅の玄関先で2時間粘ったら、ドアがほんの少し開いたんです」


寒いから中に入ってください。そう言われリビングに通され、さらに2時間粘った。合計4時間。その時点で奥さんは買いたい気持ちになっていた。あと一押しだ。時刻は夜の18時。あと1時間でご主人が帰ってくるとのことだったので、19時からは上司も呼んで4人で顔を突き合わせる。


幸いにも優しいご主人で、20時からモデルルームを見に来てくれることになった。こんなチャンスはめったにない。持てる力を全てつぎこんで案内する。一通り見て席に着いたときには、2人のなかで「買いたい」という結論は既に出ているように思われた。



「優遇制度も使えるし、もう買える状態。だけどずっと下を向いてるんですよ。そしたら『本当のことをお伝えします』って言われて。実は来月娘が心臓の手術なんですと。本来は家を買おうとして貯めていたお金を、全部手術に使うことになってますと。なので、私たちはマンションは買えないんですって最後に言われたんですよ」


思わず返す言葉を失いながら、時間をもらい上司と一旦裏に行く。2人で必死に考え計算してみると、大幅に割り引いた金額であれば買えるかもしれないと言うことが分かった。


夜の21時半。稟議を通すべき営業本部長は既に退社している。最終的には、同席していた上司の判断で赤字承知の契約をすることとなった。


翌日、もちろん上司は怒鳴られていた。だが、偶然最後の1部屋だったこともあり、完売になるからと無事に契約は進められることになった。


「そのご夫婦にはあとから感謝されて、手術も成功したらしくて。『佐々木さんがいなかったらずっと持ち家を持てない状態でした』って言われたときに、人の人生をこうやって変えられる仕事ってめっちゃやりがいがあるなと思ったんです」


不動産という商品を通じて、自分が誰かの人生のきっかけになれる。それは、とても素晴らしいことであるように思えた。


それ以来、仕事に向かう姿勢が変わり、スイッチが入ったようになった。目の前のお客さんのために、自分が今どういう状態であるべきかをよく考えるようになったし、アプローチや表現方法も、モデルルームの見せ方も全てのディテールに気を遣うようになった。


気づけば結果は後からついてきて、半年後には新規開拓営業で全社1位を取ることができていた。同期の中でも最速で役職につき、マネジメントする立場にもなる。あまりの急成長ぶりに、先輩が教えてほしいと話を聞きに来ることもあるほどだった。


目の前の仕事の意味。それを教えてくれたお客さん、支えてくれた先輩たち。多くの人のおかげで、今がある。


どうせ仕事をするなら、人の人生を変えられるようなことがしたい。


家族や友人、先輩後輩をはじめとする、これまで出会った人たちが自分に対してそうしてくれたように、今度は自分が人や社会にきっかけをもたらせるようになりたいと願うようになっていた。




2-5. 起業


もともと3年で1位になることをゴールと設定していたこともあり、ほどなく外へと目が向くようになった。


会社からはいよいよこれからと期待がかかるタイミングでもあったため、円満に送りだしてもらうような辞め方は難しく、頭を下げ退職させてもらってから次の会社を探すことにした。


当時関心があった「経営」「コンサルティング」といったキーワードで探していき、入社を決めたのは営業職特化の人材紹介業を展開する株式会社グローリアス*だった。ほかでもない出会い、現在Fabeeeの社外取締役を務める角裕一とともに働きたいという思いに駆られたからだ。角氏のロジカルさ、そして誰をも惹きつける性格とコミュニケーション力。この人の下で学びたいと感じさせてくれる人だった。(* 2008年に株式会社セントメディア[現 株式会社ウィルオブ・ワーク]により吸収合併された)


「転職って『何をするか』と『誰とするか』の二択しかない。新卒だった当時、不動産は『何をやるか』で決めたんですけど、このときは自然と働く人で決めたんですよ。角さんと働きたいという欲望だけで決めて、それがいい出会いになって」


年収は半分以下になるも迷いはなかった。24歳、当時最年少のコンサルタントとして入社し、はじめは全く数字を出せないという壁にもぶつかる。角氏のもとで学びながら、最終的には表彰されるに至るまで愚直に結果を追った。


「あるときグローリアスの経営が危機的な状況で倒産しかけた時に、IT人材紹介事業部っていうのを角さんともう1人の先輩と立ち上げたんです。それがグループとして初めてのIT人材紹介で。その時にIT系の人たちと関わったことで、なんて未来ワクワクすることばかりなんだと(笑)。IT業界にのめり込んでいく自分がいて」


当然そんな業界の最前線で働く転職候補者とのディスカッションは、自然と熱がこもってしまう。カウンセリングというより、純粋にその人と話すこと自体が面白くなり、面談後にお酒を飲みに行ったりすることも多かった。


なかでも当時出会った候補者の1人とは、仕事の域を超えて熱く語りあう仲になった。


「佐々木くんは絶対起業した方がいい」とその人は言う。起業するなら僕がサポートするとまで言われ、真剣に起業を考えてみるようになった。


彼は12歳年上のカメラマン兼クリエイティブディレクターで、元々マクドナルド社でクリエイティブ担当をしていた人物だった。ディスカッションを重ねていくうちに、自分の中でやりたいことの解像度が高まっていくのを感じていた。


「自分の中に、インターネットを使ってコミュニケーションの国境を越える世界を作りたいっていう思いがあって。くだらないんですけど、当時嫁とディズニーランドに行って、1曲の歌に乗せて世界各地の民族の人形が次々と出迎えてくれる船旅のアトラクションに乗った時に、この世界をインターネットで実現できないかなと思ったのがスタートなんです。1つの歌が、いろんな国の言語で歌われながら繋がっていく。あのイメージをコミュニティ化していけないかなと」


描いていたのは、今でいうInstagramのような世界観だ。


写真であれば、日本人だけでなく世界中の人と繋がれる。写真であれば、嬉しいとか悲しいといった感情を表現できる。そこに国境という境界線はない。全ての人が等しく繋がることができるはずだ。


2009年8月頃から創業の準備を進めた。社名は「写真の中心になる会社」という意味を込め、フォトメと名付ける。ITを使った事業で、未来に手を伸ばす。


2010年、佐々木は起業というスタートラインに立った。


2013年、フォトメの社内忘年会にて


独立してからは、情熱だけを頼りにもがきながら進んできた。それだけが自分にとって唯一確実と言えるものだった。


当初構想したサービスは、リリースにも至ることができなかった。ITサービスを成長させることに対する自分の無知。起業翌月の倒産危機、中国市場への挑戦と失敗、事業資金をつなぐための業務委託。数えきれないほどの迷いと挫折を、今では笑い話にできるくらいには経験が糧となってきた。


もともと営業として売上を上げること自体には自信があった。時間がかかり過ぎてしまうことへの焦りはありつつも、自分のスキルを必要としてくれた人がいたからこそ助けられたし感謝もしている。


しかし、少しずつ起業家として社会にどんな価値をつくるのか考え抜けていないことを自覚するようになった。


「起業する行為ってだけじゃ、あまり変わらなかったってことですね。起業を決めたときはまだサラリーマンじゃないですか。自分で登記していろんな準備をしたりオペレーティングなことを済ませて、そのあとって起業前後のマインドとしてあまり変わっていなかった。金を稼ぐ、これが起業か?というと、違うだろと思って」


はじまりに描いた、人が国や言語などさまざまな壁を超え、繋がっていくような世界観は自分の中で変わらない。境界線をなくす。それはITで実現できるという予感が強くある。そしてそれにより、人の人生のきっかけになるようなことができるはずだった。


そのために、どんな価値を提供すれば根本的に解決していけるのかを常に考える。そして、そのために存在する会社を作りたいと思った。


数年前、取締役CTOの杉森氏を中心としてAI/ブロックチェーン関連の開発支援を開始した頃から、世にDXという大波のようなトレンドが押し寄せた。この文脈で事業ドメインを定めることとし模索を始めて以来、徐々に輪郭が見えてきた。


オンラインとオフラインの境界線のない世界を実現する。


2019年、Fabeee株式会社としての新たな船出。その船は、まだ見ぬ境界線を超えていく。




3章 失敗の連続に立ち向かう人へ


3-1. 挑戦したからこそ出会えた人たちがいる


挑戦なき人生は失敗――。その言葉の通り、常に社会にファイティングポーズをとってきたと語る佐々木。起業という経験を通じて、多くの苦しみと失敗に直面してきた。しかし、人が好きであるという根底にある思いは変わらない。


「僕個人としては、こういう挑戦をしているからこそ出会えた人たちがいる。出会わなかったであろう人たちと出会えているので、もし挑戦をしていなかったらそれを失うことになるとか、負けたと判断することの方が多いと思います」


挑戦したからこそ出会えた人たちがいる。それこそが価値であると佐々木は考える。


昔から周囲の人に支えられ、成功体験を積んできた。その自信が、新たな挑戦へと脈々と繋がっていると言っても過言ではない。1人の力ではない。だからこそ、「その結果として何を残すか」という問いが重みを持ってくる。


「バイアウト意識がゼロかと聞かれたら嘘になりますけど、僕はそんなに今どきの連続起業家っぽく、頭良く合理的にさらっとバイアウトできないタイプなんですよね」


そう語る佐々木は、経営者として合理的に判断せざるを得ない部分と、合理的が嫌いな自分との狭間で揺れながら闘っている。


「人が好きで、そこに携わった人たちの努力とか成功、苦しみ、憎しみもあるかもしれない。そういう人と人とが作り上げたものを僕が終わらせるということ。次の成長のためが大半だと信じたいけど、そこに携わってくれた人へ恩返しとかできないまま終えるのは、僕のプライドに反するなと思っていて。そこをすごく大事にしたいと、今は思っています」


もちろん未来は誰にも分からない。終了のホイッスルが鳴る瞬間は、突然やってくることもあるかもしれない。


ただ、叶うならば、それが成功へと導かれるホイッスルであってほしい。自分のためだけでなく、これまで携わってくれた全ての人のために。もっと言うならば、挑戦を続けた未来出会うはずの人のためでもあるのだろう。そのために経営者として挑戦を辞めない。


挑戦することで出会う人。そのかけかげない出会いへの感謝が胸にあるからこそ、挑戦とは簡単に終止符を打てるものではなくなる。限界があるものではなく、必然的にやり抜くべきものへと変わっていくようだ。



2022.2.28

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


過去の功績を語るとき、いつもそこに周囲の誰かの存在がある。「周りのおかげ」と、そう語る。佐々木氏は、常に他者との関係性の中に自分がある。


しかし、誰もがそんな風に人から助けてもらえるものだろうか。きっと違うだろう。人との繋がりの重みを認識し、人を大切にするからこそ自らに還ってくるものがあるはずだ。


境界線のない世界。Fabeeeが描く世界観は、まさにそんな繋がりの力を最大化するものでもある。誰かが誰かの人生を変えるきっかけになることの重みを知っている佐々木氏だからこそ、描ける未来だ。


たとえ挑戦の9割が失敗に終わっても、1割を追い求めて歩みを止めない。なぜなら、挑戦したからこそ出会えた人がいて、これから出会える人がいる。佐々木氏のようにそう思えば、些細な挑戦にも新たな意味がもたらされる。出会えた人々に感謝し、その価値を思うからこそ、立ち止まらずに挑戦しつづける人生を歩めるのだろう。


文・Focus On編集部





Fabeee株式会社 佐々木淳

代表取締役CEO

1982年生まれ。埼玉県出身。大学卒業後、2004年にシーズクリエイト株式会社に入社。不動産会社の営業部門に配属されたことを機に、まずはトップセールスの道を切り開こうと決意し、営業活動に従事。同年、新規開拓部門においてトップセールスになり、MVP賞を受賞。2006年には、営業経験を活かし、株式会社ウィルオブ・ワークにて最年少コンサルタントとしてのポジションを獲得し、数々のプロジェクトを企画・参画する。そこでは、多くの転職希望者を支援する事業を展開し、同グループ内においてMVP受賞。その後、WEB業界に特化した人材紹介の企画・立上げを行う事業を展開し、フォトメの事業の礎を築く。そこで得た事業スキルを活かし、満を持して2010年に20代で株式会社フォトメ(現:Fabeee株式会社)を創業。同代表取締役に就任(現任)。

https://fabeee.co.jp/


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