Focus On
川原ぴいすけ
株式会社TECHFUND  
Co-Founder
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or境界を越えて世界を広げ、まだ見ぬ驚きとの出会いを楽しもう。
「世界中の境界をなくし、不可能を可能にする」というミッションを掲げ、公益性の高い課題に、革新性の高い技術で挑んでいく株式会社奇兵隊。多国籍なメンバーで構成される同社が運営する社会貢献×Web3型クラウドファンディングサービス「Open Town」は、世界各国で自律的なまちづくりを進めるべく、資金とプロジェクトの参加者(NFTアート購入者)を持続的に集める仕組みとして注目を集める。2023年現在、同プロジェクトはウガンダ、インドネシア、埼玉県横瀬町をはじめ国内外で成果を積み重ねている。
代表取締役である阿部遼介は、国際基督教大学卒業後、アクセンチュアにて金融機関、官公庁、化学メーカー、新聞社などの業界に向け、新規事業立ち上げ支援、業務改革、BPO 立ち上げ支援など複数プロジェクトに従事。2011年、株式会社奇兵隊の代表取締役に就任した。同氏が語る「広がる世界の楽しさ」とは。
目次
世界には国境という概念があるけれど、解決すべき社会課題に境界はない。医療や水、教育、経済、交通インフラなど、さまざまな分野で国際協力支援の枠組みは機能してきたが、これまでそこには構造的限界もあったと阿部は語る。
「たとえば、貯水タンクを作ってほしい村があったとして、その国の政府に言うと、まず国連や日本に依頼が来て。それが時間をかけて承認されたあと、日本政府がJICAに依頼して、JICAがプロジェクト化して引き受けてくれるコンサルタントの公募を出して、という流れで3年4年という時間がかかってしまうんです」
国をまたいで当事者が増えるほど、自然とプロセスは煩雑になり実現までにかかる時間は長くなる。奇兵隊が運営するWeb3型クラウドファンディングサービス「Open Town(オープンタウン)」では、まちを支援したい個人と住民たちがプロジェクト/コミュニティの一員となることで、住民主導の意思決定による自律的なまちづくりが可能となる。
たとえば、2022年2月より第一弾として始動したウガンダ共和国のカルング村「Savanna Kidz NFTプロジェクト」の事例では、雨水貯水タンクの建設についての投票から工事完了までを3か月で終えるなど、従来不可能だったスピード感を実現している。
「国際協力や地方創生って、最初は熱意で始まるんですが資金が続かなくて5年10年と続けることは厳しかったりするパターンも結構多いと思っていて。Web3だけでそれが全て解決するとは思ってはいないのですが、ブロックチェーンやトークンはそういった収益性がなくて今まで続けられなかったいろいろな活動を持続させられる可能性を持った技術だと思っているんです」
地域をより良くすることを目指すNGOや自治体、企業などが、新たに「Open Town」でプロジェクトを企画する場合の流れはこうだ。
まず、まちづくりの目的やビジョンを言語化したうえで、コミュニティ参加権となるNFTアートを作成・販売する。ビジョンに共感する人が参加権を購入できるようにすることで、全世界から資金やアイデア、主体的なプロジェクトの参加者を募ることができる仕組みだ。奇兵隊はそのプロジェクト全体をサポートする。
参加者側はNFTホルダーとして投票に参加できるだけでなく、支援に投じた資金の透明性という点でも安心感がある。さらに、純粋な寄付型にとどまらず、生まれた価値をプライベートツアーなどリワードとして還元していく体制も作られつつあるという。
ウガンダ・カルング村にて、設置された雨水貯水タンクと現地の子どもたち
これまでできなかったまちづくりの在り方を実現するために先進的な技術が活用されている同サービス。一方で、あくまで本質は社会課題、地域課題の解決にある。
「基本的にはテクノロジードリブンで何かサービスが立ち上がることはないと思うので、普通にサービス、アプリを使っていたら実は裏側がブロックチェーンでした、NFTでしたという形が1番いいんじゃないかとは思っています。インターネットを使っている人も裏側のTCP/IPがどうかとか、あまり意識しないで使っていると思うので、Web3も最終的にはそういう形になるんだろうなと思っていて、弊社もできるだけそんな方向に持っていきたいとは思っています」
現在、国内の「Open Town」プロジェクトとしては埼玉県横瀬町、神奈川県みらいて(NPO法人)、山口県下関市で運営が進むほか、今後はより多くのプロジェクト立ち上げを見据えている。
特に、人口10万人以下でスピーディーに動ける自治体や、やることが明確で意思決定の早いNPO、あるいはNFTを使い支援してもらうにあたりストーリー化しやすい文化的・歴史的価値を有する地域などは比較的相性が良いという。
「今後2年くらいで国内外問わず100地域で『Open Town』プロジェクトを実施していきたいと思っています。基本的にはやはり海外ではアフリカなどの途上国支援、あとはウクライナやパレスチナなど復興支援のような文脈が多くなり、日本であれば観光支援や地方創生といった文脈で活用いただけると思っています」
世界各地で自律的なまちづくりが展開し、貧困や地域の衰退が少しずつ改善される未来に向けて、「Open Town」はより普遍的なサービスを目指している。世界中の境界をなくし、不可能を可能にすべく、奇兵隊は世界へ新たな価値を描いていく。
ことさら飾り立てず、どこか人間味を感じさせる町並み。多くの家族の日常が眠る町。いわゆる東京の下町といえば、古き良き商店街や住宅が立ち並ぶ。生まれは東京都葛飾区、小さな町だと阿部は語る。
「3人兄弟で、自分が長男で妹と弟がいます。うちは家族が多くて、両親と父の祖父母と、母の祖母、子ども3人で8人家族だったんですよ。祖父はもともと福島から出てきたんですが、当時って親戚とか兄弟みんなで東京に出てくるじゃないですか。祖父が1番年上だったので、正月とかは家に親戚が20人くらい来たりして。まぁ時代なんだと思うんですが、親戚付き合いとかそういったつながりは強かった家だと思いますね」
家に帰れば誰かの出迎えがあり、食卓を囲めば話の花が咲く。大人も子どもも、いつもにぎやかな輪の中にいる。家とはそういうものなのだと、当時はそれが当たり前だとも思っていた。
東京近郊への人口集中が加速していた時代、都市開発の仕事をしていた父は多摩や千葉あたりのニュータウンを設計していたらしい。高まる社会需要に追われる多忙な毎日のなか、それでも父は仕事一辺倒な人生を送る人ではなかった。
「昔から父親はかなりいろいろな趣味持っていて、好き勝手というか人生楽しく生きているなぁと思っていましたね。キャンプとかスポーツをしたり、本や映画にもよく触れていて、家にはものすごく本がありました。何か大きい選択があるとしたら、自分がやりたい方をやる。そういうベースがあるところは、自分も影響を受けているかもしれないですね」
家にはキャンピングカーがあり、なかには本格的なキャンプ道具一式が詰まっている。両親と3兄弟で乗り込めば、それだけでにぎやかな旅路になる。小さい頃はキャンプに対する父の情熱赴くままに、2か月に1回ほどは千葉や富士五湖のあたりへとよく連れて行ってもらっていた。
「当時は正直キャンプはあまり好きではなくて。今になって思うとすごく良かったなと思うのですが、なんで毎月あんなに遠いところに行くんだろうとか、冬は寒いし夏は暑いし虫いるしとか、そういう感じでしたね(笑)。たき火とかは結構好きでしたけど」
地元の公立小学校に通っていた当時、好きなことと言えば専ら友だちと遊んだり、野球をすることだった。
ちょうど時代はバブルが弾けたばかり。空前の好景気に沸いた興奮の余韻とともに、まだ社会全体は前向きな雰囲気に包まれていた。将来を考えるでもない、勉強を頑張るでもない。それでも友だちと過ごす毎日は平和に楽しく過ぎていた。
「記憶に残っているのは5年生か6年生の時に、ちらほら中学受験をする人が出はじめて。そういう選択肢があるんだと初めて知ったので、すごく驚いたことが印象に残っていますね。みんな地元の中学校に行くんだろうという世界線で生きていたので、別の中学校に行くという選択肢があるんだと思って」
いつもは一緒に遊んでいたのに、近頃顔を見ないと思っていた友だちが、実は受験のために塾に通っていたと後から聞いたりする。土地柄そんな風に私立を目指す人も少数だったため、全く頭になかったことだった。
見知った世界が全てじゃない。どうやら自分には想像しえない選択肢というものがある。世界は想像を超えて広がっていると、人生で初めて意識した瞬間だったのかもしれない。
小学校時代、家族と行ったキャンプにて
受験というシステムの存在を知ったことで、地元中学に進学してからは少しずつ勉強にも意欲がわいてきた。もともと成績は悪くはなかったし、やってみればどうやら運動よりも勉強の方が手応えがある。野球は続けつつ、通いはじめた塾での時間は想像以上に楽しいものだった。
「そこまで競争が激しい塾でもなかったんですが、成績が上がるとレベルが上のクラスに入れたり、模試の順位が上がっていったりすることが楽しくて。あとは少し地元とは違うエリアに通っていたので、新しい同年代の友だちができたり。楽しかったのは、勉強自体よりもそういう部分だったかもしれません」
できないことができるようになる過程も面白い。気づけばそのうち成績も上がっていき、高校受験ではある程度挑戦できそうだと思えるようにもなった。偏差値を鑑みて3、4校に出願し、最終的に千葉県にある渋谷教育学園幕張高校へと進学することにした。
高校からは電車に乗って通学することも、友だちに誘われてアルバイトを始めたことも、自分で稼いで使えるお金が増えたことも、できることが一気に増えて広がる世界は楽しかった。
「結構進学校だったんですが、すごく校風としては自由で。(今は分からないのですが、)そんなに毎日ガリガリ宿題がたくさん出ますという高校では全然なかったですね。あとは学年8クラスのうち1クラスが帰国生クラスで。やっぱり帰国生と話していると、ずっと日本で過ごしてきた人間とは少し常識が違っていたりするじゃないですか。その辺はすごくポジティブな驚きというか面白かったです」
自由で国際色豊かな環境で、留学生や帰国生と話す機会もそこそこ多い。アジア、米国、ヨーロッパなど多様なバックグラウンドを持つ生徒たちが共存する感覚は、新鮮で面白く心地よいものだった。
「クラスで議論するようなときとか、すごく合理的な考え方だったり、良い意味で空気を読まない部分だったり、そういった違いはすごく感じましたね。やはり米国やヨーロッパで生まれ育った人は、はっきり主張する人も多くて。逆に最初はあまり日本語が喋れなかった留学生が、3年間かけて徐々に日本人に近くなっていったりもして(笑)」
修学旅行の行き先は沖縄か中国の2択で投票制だったので、迷わず中国を選ぶ。周囲の同級生もほとんど中国を選んでいたようだ。初めての海外旅行は、言うまでもなく心躍る体験だった。
「初海外でしたし、しかも親と行かないじゃないですか。すごく楽しくて。周りの人が何を言っているか分からないし、よく分からない音が聞こえてくるし、匂いも違うし湿度も違うしで、やっぱり初めての海外の衝撃はなかなか大きかったです」
1週間ほどの旅程は北京から始まり、西安を経由して上海までを行く。万里の長城や兵馬俑などの観光地もさることながら、現地の人の熱気にはこちらを圧倒するものがある。まだ中国が今ほどの経済成長を遂げる少し前、日本人と見ればすかさず寄って来て、よく分からないお土産を売ろうとしてくる路上の人々の姿は印象的だった。
下町の中学校にいた頃には想像もできなかった景色と出会うたび、新たな世界を発見できる喜びに満たされた。
物語の世界でも、しばしば今現在の「当たり前」とは別の「当たり前」が描かれる。本好きだった父の影響で、昔から家に大量にあったSF小説をよく読んでいた。特にSF小説は高校時代になっても熱が冷めず、海外ならジェイムズ・P・ホーガンやアイザック・アシモフ、国内なら小松右京や筒井康隆などの小説を読み漁っていた時期がある。
そんなSF世界をそのまま現実にしたかのようなニュースが、ある日突然、世界を駆け巡るとは夢にも思っていなかった。
「自分が高校2年か3年くらいの時に、クローン羊の『ドリー』が話題になって、すごく驚いた記憶があって」
1996年7月5日、ドリーは世界で初めて哺乳類の成体の体細胞を使いつくられたクローンだった。待望にして唯一の成功例、人工的につくられた命。果たしてその技術は革新か、生命倫理の冒涜か。世界中でさまざまな議論が巻き起こる。
いずれにせよその技術が確立すれば、再生医療分野は史上類を見ないほどの躍進を遂げ、今まで救えなかった命が救えるようになる可能性を秘めていた。当時はまだ今ほど規制などの議論もなされていなかったこともあり、しばらくメディアはクローン技術がもたらす希望についての話題で持ち切りになった。
「すごく未来に夢を感じるテクノロジーだなと思って。生物は面白い、こういう勉強をしてみたいと思うようになったんです。ちょうど進路選択を考える時期でもあったので、大学では生物を勉強しようと」
夢ある未来がそこには開かれている予感がする。やりたいと思ったのならやってみる。生物を学び、将来はその手で不可能を可能にするような研究者になることができればと考えていた。
大学受験に向けて、都内で生物学を学べる大学を調べてみると、どうやら意外と選択肢は多くないようだと分かってきた。
「都内だと国公立大学か、私立もICU(国際基督教大学)か東京理科大学くらいしかなくて。当時は早慶とかも生物系の学科がなかったんですよ。だから、もうそれくらいしか受けなかったですね。ICUに入ったのですが、おそらく一学年700人くらいいて理系は70人くらい、そのうち半分が生物専攻というくらい生物好きが集まっていました」
ある程度の偏差値があり、生物を学べる大学。そんな条件だけで選んだので、ICUが英語で有名だとは入学するまでつゆほども知らなかった。
実際、1年次はひたすら英語漬けの毎日だ。専攻する生物の授業は翌年からで、一般教養のほかはリーディング・ライティング・リスニングを満遍なく鍛えられる。当時は英語が苦手だったので、ひたすら友だちや先輩の力を借りながらなんとか乗り切った。
「大学2年からは実験とかががっつり始まって、それなりに楽しかったですね。やっぱり座学より実験系が好きでしたし。ただ、生物の実験ってすごく時間がかかるんですよ」
たとえば、細胞を使った実験をするならば、細胞を培養するのに4時間待つなんてことは日常茶飯事だ。単純に放置しておけばいいわけでもなく、増えすぎていたら1からやり直しになってしまう。30分おきには様子を見る必要があるので、自然とみんなで喫煙所でだべりながら時間をつぶすようになっていった。
「本当に夜の8時9時まで大学にいたりとかよくありましたね。やはり偏差値で選んでICUに入ったというよりは、シンプルに生物が好きで、生物を学びたい人が集まってきている環境だったので、そこはすごく価値観が合いましたし、興味や志向性も合って楽しかったです」
次第に喫煙所を中心に、学年の垣根を越えて話すようになってくる。みんなでワイワイたわいもない話をして笑う。大学自体が比較的少人数だったこともあり、先輩後輩のような関係性を抜きにしてタメ口で話せる人が多かった。気の合う仲間とは、学校以外でも遊びや旅行に出掛けるようになった。
「最初の3年間くらいは遊んでいた記憶しかないですね。実験をしていなかったら、遊んだり旅行に行ったり。国内が多かったですが、海外も10か国は行っていないかなというくらい結構行きました」
誰かがどこかに行きたいと言い出せば盛り上がり、旅の計画はノリで決まる。各々貯めたアルバイト代を持ち寄って、最低限の荷物だけ詰め込んで玄関を飛び出す朝はさわやかだ。国内はもちろんのこと、アジアやヨーロッパなど片手では足りないほどの国や地域を旅した。
日本とは似ても似つかない町並みや人々の暮らしぶり。全く異なる文化圏を訪れる非日常感はこうも刺激的なのかと驚かされる。いつしか旅行自体が大好きになっていた。
大学の卒業式にて、友人たちと
実験の日々のなかでは、ほかにも新たな世界へ通ずる扉が開いていた。一学年上の仲間から、就職活動の話を聞いたのは大学2年も終わる頃だった。
「そこでまた塾と同じように、『あ、就活する人たちもいるんだ』と知って(笑)。仲のいいやつが就職先が決まったからお祝いに飲もうという話になって、『どこ行くの?』と聞いたら、その人がたまたまアクセンチュアに入るんだと。『へぇ、コンサルティングって仕事があるんだ』と思って」
生物を学び、その後は大学院へ行く。なんとなくそんなつもりでいたが、就職という全く新たな選択肢もあるのだと知る。就職か大学院か。それにより4年から所属する研究室の選び方もだいぶ変わってくる。とりあえず体験して判断すべく、大学3年の夏にはいくつかのインターンシップへと応募してみることにした。
選考時期の早い順にコンサルティング会社や外資などを受けていき、運よく数社に参加することができた。
「インターンではグループワークとかがすごく好きでした。みんなでディスカッションしながら何か考えたり。まぁ、今考えるとお遊びみたいなものなんですが、そういう部分が楽しかったですね。いろいろな人と協調して1つのことを成し遂げていく。仕事の基本かもしれないですが、そういうことが当時から好きでしたし、実験ともすごく近いと思いました」
みんなでワイワイ集まって役割分担を決め、各々のタスクを進めたり。意見を交わし、アイデアを練ったり。誰に言われずともリーダーシップを取る人がいれば、黙々と面倒な作業をこなしてくれる人もいる。多様な人が集まって、1人では成し得ないことを達成していく過程は実験と同じくやはり面白い。
インターンを経て、心はビジネスの世界に傾いていた。
「就職活動はとりあえず面白い仕事ができそうで、ずっと東京に住んでいたのであまり転勤があるのも嫌だなと考えて。仕事はもちろんですが、人生楽しそうな人が多い会社は印象が良かったですね」
大学特有のカラーかもしれないが、そもそも1社を定年まで勤め上げるつもりはなかった。就職自体が人生を変えるほどの選択だとも感じてはいない。ただ、どうせなら人生を楽しみながら働いている人たちがいる会社がいいと思っていた。
OB訪問や選考を進めながら幅広い業種を見て、最終的には知り合いもいるアクセンチュアからの内定を受けることにした。同期も多く、今後伸びるであろうIT領域にも触れられる。なおかつ先輩社員たちの姿が忙しくも楽しそうだったからである。
研究ではなくビジネスで世界を広げていく。そんな未来に一歩踏み出しつつあった。
アクセンチュアで働いていた頃、同期と
想像した通り、アクセンチュアでの仕事は楽しかった。上司にも恵まれ、チームでハードワークする環境は、大学時代の研究室を彷彿とさせるものがある。ITのものづくりに関わるという意味でも勉強になり、充実した日々はあっという間に過ぎていった。
「アクセンチュアにいたのは3年弱くらいですね。楽しかったんですが、比較的すぐ辞めてしまって。上の人に恵まれたり、いろいろな仕事をさせてもらって一通りやらせてもらったなと思っていた頃に、ちょうど同期が起業すると言い出して誘われて。すごく仲のいい友人だったので、こいつと一緒だったらチャレンジしてみてもいいかなと思ったんです」
特別起業を意識してきたわけではなかったが、話を聞いてみるとそれもいいかと思えたし、幸い一定の評価はもらっていたのでだめなら戻るという選択肢も考えられた。
「あまり起業することに対して気負っていなくて、数ある選択肢の1つくらいだと思っていました。普通に事業会社に就職して、ある程度の経験を積んだからもう1回スタートアップするかと。まぁ誘われたしこれも縁だなと思って」
2人で会社を立ち上げる。事業アイデアありきの起業ではなかったため、まずは何らかの方法で売上を立てる必要があった。とはいえ、得意なことといえばやはりコンサル業ということになる。しばらく続けていくうちに、果たしてこれがやりたくて起業したのだったろうかと考えるようになった。
「1年弱くらい経って、『俺たちなんでアクセンチュアを辞めてコンサルやってるんだろう』というようなことを少し膝を突き合わせて話したんです。自分はやはりWebサービスとか事業会社をやりたいという思いがあったので、そこが一致しなくて。じゃあちょっと別れようと言って、自分が抜けることになったんです」
新しく事業を考えていくにあたっては、一度事業会社で働く経験も必要かと考えて、数社の選考を受け内定を得たりもしていた当時、ちょうどセレネベンチャーパートナーズを独立開業していた和田圭祐(現・インキュベイトファンド 代表パートナー)と対話したことが転機となった。
「海外向けの事業をやりたいと思っていると話をした時に、すごく意気投合して。もともとアクセンチュア時代からすごく思っていたことなのですが、日本って比較的外貨を獲得できている産業が製造業だけなんですね。まぁ素材とかエネルギー、精密機械などもありますが、そういう産業が稼いでくれた外貨を我々コンサルはいただいている。だけど、その製造業などがつぶれると本当に外貨を獲得できない国になるよねと」
米国であれば金融業やコンサル業など競争力に優れ、かつ外貨を獲得できる産業があるが、日本にはそれがない。当時も今もそうかもしれないが、日本発で海外できちんと使われ売上を立てられているWebサービスは存在しない。だからこそ、未開拓のその領域に挑戦してみたいという思いはかねてから心にあったものであり、和田の思いともまさにシンクロするものだった。
「『じゃあもう一緒に会社やろうよ、何だったらそういう箱あるよ』という話になって。で、奇兵隊という箱だけあったんですよ。海外向け事業をやりたいという思いで、もともと和田さんが登記だけしておいたらしくて。『じゃあ、そこやります』と。結構めずらしいのですが、そこの株を自分ががっつり買い取るという形でスタートしました。2011年くらいですね」
はじめは国を越えたコミュニケーションの場となる海外向けのSNSから事業をスタートさせた。しかし、当時英語圏や中国語圏には既にFacebookなど覇権を取っているSNSが存在したため、言語に依存するサービスではその良し悪しにかかわらず勝算がないと考えていた。
「言語をあまり問わずにコミュニケーションを取れたりするようなサービスでチャレンジできないかと話していて。自動翻訳機能をつけたり、写真主体のSNSなどでチャレンジしていました。結構当初からあったテーマとしては『どうすれば海外の人に使ってもらえるか』というところで、今にして思えば正解はTikTokだったんだなと思うのですが、我々はそこを思いつけなくて」
リリース当初から、狙っていたのは完全に海外マーケットだ。重視すべきは「いかに多くの国で使ってもらえるか」だと考えて、最初はKPIとして国数を設定した。結果的には、日本好きな海外の人々などに受け、3か月ほどで100か国を達成。2013年当時、ちょうどプラットフォームとして力を持っていたFacebookでの広告も功を奏したようだった。
プロダクト開発は日本人エンジニアやデザイナーを中心に進めていたが、ユーザーの国籍が増えるほどにマーケティングやカスタマーサポートが対応しきれなくなってきた。アラビア語などニッチな言語に精通する日本人を探すことにも難儀して、現地採用を進めた結果、自然と組織は多国籍化していった。
最終的に1,200万ダウンロードほどまで伸びていったが、新興国ユーザーの割合が高かったこともあり、マネタイズには苦戦しつつあった。
「最初のサービスの中に、課金してバーチャルギフトをあげたり、もらった人は旅行ができるような機能を入れていたんですが、あるときその中で留学したい人が出てきて。ほう、ニーズあるのかなと思って試しにクラウドファンディング機能を作ったんですよ。そしたらそれがすごく使われるようになって、個人向けのクラウドファンディングってこんなにニーズがあるんだと思って」
調べてみると、米国には既にメジャーなサービスがある。だが、ひょっとしたら新興国向けに展開すればうまくいくかもしれないと考えた。全世界でのテストマーケティング結果も踏まえ、反応の良かった新興国向けにクラウドファンディング機能だけを切り出して、ピボットすることにした。
公的医療保険の整備が進んでいない新興国では、普段は裕福な生活を送る家族でも、ひとたび誰かが大きな病気をした途端、一気に困窮してしまうことがしばしばある。個人向け寄付型クラウドファンディング「Airfunding」は、そんな急な出費ニーズに応えるサービスとして成長していった。
徐々に新興国支援系のNGOなどから連絡が来るようにもなる。しかし、連携して支援してみたものの、そこではクラウドファンディングという形態の限界も見えてきた。
「クラウドファンディングって、個人がお店を開業しますというような単発の資金ニーズにはすごく相性がいいんですね。ただ、継続して支援するという点ではなかなか難しくて。これをどうにかクリアできないかということをここ3年くらい考えていた時に、2021年くらいにNFTが一気に流行って。これってひょっとしたらうまく使えるかもしれないと思ったんです」
NFTコミュニティでは、ビジョンや世界観に共感する人がNFTを購入することで資金を提供し、コミュニティ内の意思決定に主体的に参加する。収益性がなく、なかなか継続できなかった活動もNFTを基盤としたプロジェクトなら実現できるかもしれない。
2022年2月、ウガンダ共和国カルング村での実証実験プロジェクトを皮切りに、自律的なまちづくりのためのWeb3型クラウドファンディングサービス「Open Town」を本格始動。続くインドネシア共和国ロンボク島でのプロジェクトも成功し、国内外でのサービス展開を加速させていくことにした。
生みだすサービスで世界中の境界をなくし、不可能を可能にしていく。日本だけでなく世界を舞台とする奇兵隊は「社会貢献」×「Wen3技術」という掛け合わせの可能性を信じ、発展させていく。
創業以来、変わらず「世界」という単位で社会を捉え、事業を進めてきた奇兵隊。SNSやクラウドファンディングを経て、Web3やNFTの仕組みを活用した「Open Town」プロジェクトを展開する現在、国内の地域や行政との連携などローカルな領域とも向き合うようになったことで、意外な発見があったと阿部は振り返る。
「弊社ではずっとグローバルな仕事をやってきて、最近は地方創生ということでローカルな仕事もやっているのですが、今まで物事をグローバルに見ていた分、逆に自分が日本をステレオタイプに捉えてしまっていたのかなということは、ここ1年、半年くらいですごく感じていますね」
国が違えば、文化や考え方、風習などあらゆる点で分かりやすく違いがある。一方でローカルに目を転じると、一見すると似ているようで、実は同じ日本とて一口に括ることはできないと分かってくる。
東北地方と九州地方では、人も考え方も違う。それでも地球の裏側に住むアルゼンチン人と比べればその違いはまだ小さいが、まちづくりへの向き合い方もそれぞれの地域ごとに異なる思いや考え方があるということだ。
グローバルとローカル。どちらも面白く、またどちらも大切な視点であると阿部は考える。
「今後の世界はグローバル化とローカル化がそれぞれどんどん進んでいくだろうと思っていて。これが両方できるという点で、『Open Town』はすごく楽しい仕事だなと思っているんです。そういうことをやりたいという人は、うちの会社に来てほしいということだけではなく、一緒に仕事ができたり、同じようなプロジェクトができたらいいなと思いますね」
日本を飛び出し世界を舞台に働こうとするならば、自らのナショナリティやカルチャーへの造詣の深さが武器になるといわれるように、グローバル化とローカル化が同時に進んでいく未来では、いずれの領域にも偏らず身を置くことに価値がある。
グローバルからローカルへ。視点が変われば、世界の見え方も変わる。きっと世界はそんな風に再発見するほどに、より新鮮な驚きと面白さに満ちたものになるのだろう。
2023.6.9
文・引田有佳/Focus On編集部
かつてはSF小説やクローン羊の「ドリー」に心躍らせて、生物の研究者を志していたと阿部氏は語る。その目線の先には、技術によって不可能が可能になる未来があった。
世界は1人の人間が予想できるよりもはるかに早く、大きく広がっていく。奇兵隊がたどり着いた「Open Town」というサービスも、Web3やNFTなどの技術を活用し、地球の裏側に住む人とさえビジョンを共有することを可能にする。自律的なまちづくりを進める新たな国際支援の枠組みだ。
少しでも「まち」を良くしようと考える不特定多数の意思が集まって、それが現実に形となる。プロジェクトには世界中どこからでも参加でき、同志としてつながっていく。
きっと世界の境界はなくなっていき、これまで解決できなかった社会課題に対する打ち手が見つかっていくのだろう。
そんな風に夢を感じさせてくれるものが、奇兵隊の描く未来にはある。
文・Focus On編集部
株式会社奇兵隊 阿部遼介
代表取締役CEO
1982年生まれ。東京都出身。国際基督教大学卒業後、アクセンチュア株式会社へ入社。金融機関、官公庁、化学メーカー、新聞社などの顧客に対し、新規事業立ち上げ支援、業務改革、BPO 立ち上げ支援など複数プロジェクトに従事。2011 年、株式会社奇兵隊の代表取締役に就任。新興国向けの個人向け寄付型クラウドファンディング「Airfunding」を運営するほか、2022年より「Web3」技術を活用した世界各国での自律的なまちづくりを実現すべく、資金と応援者を持続的に集めるWeb3型クラウドファンディングサービス「Open Town(オープンタウン)」を開始。
https://kiheitai.co.jp/ja/homepage/