Focus On
佐藤太一
プレイライフ株式会社  
代表取締役CEO
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or小さく漸進的な変化が積み重なれば、やがて大きなイノベーションとなる。
「続けたくなる未来」を創造すべく、EV(電気自動車)を取り巻くあらゆる領域のサービスをアップデートしていく株式会社プラゴ。同社が取り組む領域は、充電中や前後も含めた体験価値のデザインを中心に据えた、オンライン予約・決済が可能なEV充電サービスや、法人向けのEV充電ビジネスに関するソリューション提供など幅広い。2023年には、ニトリグループ、ヤマダデンキ、ミニストップとの提携を開始するなど、社会インフラとしてパートナーシップを拡大している。
代表取締役の大川直樹は、慶應義塾大学法学部を卒業後、株式会社電通へ入社。マーケティング業務や、子会社であるインタラクティブ・プログラム・ガイド(現 IPG)社にて社長直下での事業開発などに従事。のち家業である大川精螺工業株式会社ではメキシコ現地法人・工場立ち上げ、代表引き継ぎなどを経て、2018年に株式会社プラゴを設立した。同氏が語る「黒子の心」とは。
今この瞬間のことだけでなく、未来永劫続いていく社会を考える。「サステナブル」という言葉が浸透して久しい。一消費者という立場でも地球にやさしい選択ができる一方で、その実感はいまいち湧きづらい。それどころか余計にコストがかかったり、不便になったりするだけで終わってしまうことがある。
果たしてそれがサステナブルと言えるのだろうか?もっと能動的に続けたくなる未来こそ、人も社会も持続可能な状態と言えるのではないか?そんな問いをプラゴは提起する。
EV(電気自動車)を取り巻く環境にも、同様の課題が存在すると大川は語る。
「EV充電は時間がかかるとか、そもそも充電できる場所が少ないとか、今ってEVを取り巻く環境がすごくネガティブなんですよね。この充電環境や時間をデザインしていくことができれば、ポジティブなものに変えられる。『なんかEVに乗ったら今まで行ったことがないところで充電して、こんな体験ができてめちゃくちゃ楽しかったよ』みたいなことが絶対起こり得ると思うんですよ」
たとえば、旅の供としてEVに乗って出かけるとする。旅先ではどこで充電できるのかを調べ、数少ない充電スポットに立ち寄ると先約がいたりする。ガソリン車の給油と違い、EV車の充電は数分で終わらないため、結果として1時間以上待つこともある。
不十分な充電インフラ環境が、EV普及を阻む大きな壁となっている。だからプラゴでは、ただ充電できる場所をつくるのではなく、充電前・充電中・充電後まで含めたシームレスな体験価値をデザインする。
アプリ上での事前予約が可能で、行けば充電できるという安心感。全ての充電電力が再生可能エネルギーによってまかなわれるエシカルな充電体験。さらに、周辺施設で利用できるクーポンが発行されるなど、プラゴのサービスは新しいライフスタイルの提案でもある。
「未来の乗り物を選んだ人がワクワクするような体験を積み重ねていくことで、社会が新しいモビリティに変わっていく。ひいてはサステナブルな社会が実現していく。それこそがポジティブな体験を基軸にした『続けたくなる未来』だと思うんですよね。プラゴとしては、それをいろいろな形で社会に提案していきたいと思っています」
景観に溶け込む木目調のデザインは、省スペースかつ設置場所を選ばない
スタンド型、壁かけ型などの選択肢が用意されている
インフラはそこに5年10年とありつづけることを前提とする。だからこそ、ユーザーだけでなく充電器を設置する施設にも、デメリットではなくメリットをもたらす存在である必要がある。
「初期投資には補助金が出るんですよ。でも、結局設置しておしまいで、きちんと稼働率を上げるとか顧客満足に繋げる仕組みがないし、経済的にも設置施設にすごく負担が生じているんです。だから、プラゴではユーザーに寄り添いつつ、設置する施設にも寄り添ってサービスを考えています」
充電予約ができないために、使いたい時に使えないなど設置施設にクレームが多発した例もある。それでは施設にとってデメリットでしかない。実際、2021年には老朽化などの要因が重なり、右肩上がりだった充電スタンド数が初めて減少に転じた。
プラゴではユーザーの声を聞きながら稼働率を上げたり、充電中の時間を消費に繋げるような仕掛けを提案する。また、再生可能エネルギー利用の充電サービスは、導入することで環境へ配慮しているというブランディングにも活用できる。
2023年3月には、EV充電を起点としたGX(グリーントランスフォーメーション)推進に向け、NTTドコモと協業を開始。長野県軽井沢町地域での実証実験を皮切りに、充電インフラの整備と移動体験向上に向けた取り組みを進めている。
「今後は共感していただけるパートナー企業さんを増やしていきたいですね。やはり我々1社で社会インフラを作っていくことはできないので、いかにたくさんの共感を生んでいくかというところが大事だと思っていて。より多くの企業さんや自治体さんに一緒に取り組みを推進していただけると、社会が少しずつ変わるのかなと思います」
EVという選択した人が、新たな発見をしたり、行ったことのない場所に行く。社会に新たな人の流れが生まれる。それが地域や施設にとって価値となるような実例を積み重ねていく。
設置する施設や地域とEVユーザーを繋ぎ、そこにWin×Winの関係を作る。ソーシャルグッドな充電環境の社会実装に向け、プラゴは挑戦を重ねていく。
東京・目黒駅から権之助坂を下り、桜連なる川沿いの一帯といえば古くは工業の街だった。かつての大川精螺工業も工場を構えていた時代がある。
跡地に建ったマンションで育った幼少期、昼時になると隣の工場で働く人々がキャッチボールをしていたりする。そんな光景を身近に育った影響もあるのだろうか、将来家業を継ぐという選択肢は、いつしか自然と腑に落ちるものだったと大川は振り返る。
「家業を継いでくれとは一度も言われたことはないですけれど、割と小さい頃から祖父や父の姿を見ていて、継ぎたいなという風には思っていました。まぁ与えられた運命というか、人生にとっての予見ですよね。そういう環境に生まれたということはまず受け止めましたし、活かしていきたいなと」
創業は1934年、当初は曾祖父が始めた小さなネジ加工工場だった。戦後、昔のテレビにあったチャンネル切り替え用のダイヤル部品を製造するようになり、カラーテレビの普及とともに事業が拡大。そこから今に続く礎が築かれたのは、2代目である祖父の功績であるらしいと大人になってから聞いていた。
「大川精螺工業の主力事業にかかわる『冷間鍛造』というものがあるのですが、それが当時結構新しい方法で。社長だった祖父が取引先の人に言われて米国の展示会を見に行ったら、その技術が発表されていて『これだ!』と(笑)。いきなり当時の月商の10倍くらいする機械を買ってきて。でも、誰も扱えないわけですよ。米国のメーカーの技術者さんを呼んだりしていたんですが、結局2年くらい全然形にならなかったらしくて」
従来日本で主流だった手法は「切削加工」と呼ばれるもので、文字通り削ることでネジなどの部品を製造する技術だった。一方の「冷間鍛造加工」が画期的だったのは、金型に材料を流し込みプレスすることで複雑な部品も低コストで製造可能にする点にあった。
しかし、画期的であるがゆえに機械を扱える人がいない。それでも祖父が辛抱強く研究を続けた結果、ついに「ブレーキホース」と呼ばれる自動車部品の継ぎ目に使う金具を製造することに成功したという。
「それが何十年経った今でもうちの主力の技術だし、主力製品なんですよね。その時の祖父のとんでもないチャレンジや意思決定があったからこそ会社が続いたということで。そこにはたぶん絶対できるという信念があったのか、新しい技術を取り入れて未来永劫成長していく会社にしたいという思いがあったのか。あるいは本当に技術が好きだったのか、いろいろな理由があると思うのですが、常識を超えるチャレンジをする、そういう点はすごく影響を受けていると思います」
幼少期、大川精螺工業の工場にて
影響されたのは経営者としての生き方だけじゃない。晩年まで本を手放さなかったほど祖父は読書家で、よく日本橋にある本屋さんまで連れられて行くことが好きだった。小学生には少し難しすぎるような本を買ってもらい、時間をかけてそれを読む。「本を読みなさい」とはよく言われたもので、気づけば図書館や学校の図書室に足しげく通うようになっている自分がいた。
幼い頃から記憶に残る祖父は、いつも愛情を注いでくれる存在だった。
「父はもともと婿養子なんですが、祖父も婿養子なんですよ。うちはファミリービジネスをやっているにもかかわらず母が2人姉妹、祖母も3人姉妹で。まぁ今の時代なら男女などないですが、当時はやっぱり家業を継ぐとなると男性の方がいいみたいなことがあって。私が大川家直系で初めて生まれた男の子だったので、祖父がすごく喜んだという話は聞いています」
小学校高学年から中学生になる頃には、よく祖父の家に遊びに行っていた。行けば社員の人が集まり、宴会や麻雀大会が開かれていたりする。
立場に関わらず、たわいもないことで笑い合い時間をともにする。そんな光景を横目で見ていると、社員と祖父は互いにリスペクトし感謝し合っているのだと分かる。仕事上の付き合いでありながら、そこには仕事を越えた人間関係があるようだった。
「そういう姿を見て、会社ってこういう存在意義があるのかと、ただ単に給料が払われるだけじゃなくて、それを越えた関係が作れるのかなという風なことを思ったんですね」
のちに古参社員と話をすれば、いつも「留雄さん、留雄さん」と祖父の名を出しながら語ってくれた。会社が小さな町工場だった時代からの絆だろう。そんな関係性を築き上げる会社というものの在り方に憧れるようになっていった。
「家業を継ぐという選択をしようと思えばできる立場にいるなかで、その環境を続けていくとか、社員との関係を維持していくとか広げていくことを自分としてはやりたいなと。もちろん続けること自体が目的化してはいけないと思いますが、やはりそれによって少なからず社会に何らかの貢献をしている。割と中学生くらいの時には家業を継ぎたいということは決めていました」
家業を継ぐということは、ただ会社の経営を引き継ぐ以上の意味がある。
国内外1000名近くを雇用し、自動車のブレーキに不可欠な精密部品を製造している。何より曾祖父の代から続く技術や社員との絆がある。それは会社の歴史そのものを引継ぎ、守ることでもある。その責任を担っていきたいと、身近な家族の姿から影響を受けてきた。
祖父のような生き方に憧れ、祖父の影響でよく本を読んでいた少年時代、特に『海底二万里』などで知られるジュール・ヴェルヌの冒険小説が好きだった。
ちょうど通っていた小学校に立派な図書室があったことは幸いだった。クラスの図書委員になり、日常的に豊富な蔵書や標本に触れるようになる。大いに知的好奇心を刺激され、好きなことにのびのびと取り組める環境があった。
「学校で貝殻検定みたいなものがあって、貝の種類をより多く覚えると段が上がっていくんですよ。最後は名人とかになるんですけど、私はその名人だったんですよね。クラスに1人か2人しかいないような感じで、やっぱりそういうものって自信に繋がって。知らないことを知る、それがきちんと評価される仕組みになっていたので、楽しみながらやっていましたね」
受験勉強よりも、何か1つでも好きなことを見つけて卒業してほしい。そんな教育方針だったのは、小学校から大学まで一貫の私立校だったからだろう。分かりやすくスポーツなどに打ち込む人も多かったが、あいにく運動神経がいい方ではなかった。
「比較的スポーツヒエラルキーが強い学校だったんですが、はっきり言ってスポーツは苦手で。1軍2軍3軍とあって、1軍は結構キラキラした人たちというか、特に高校くらいになると結構派手な人たちもいっぱいいるわけですよ。それで言うと、私はマイナーリーグでした(笑)」
スポーツは得意ではなかったが、高校から所属したゴルフ部での活動は面白かった。仲間と1つの目標に向かって頑張っていく。上手い下手にかかわらず、それ自体が充実した時間となる。
総じて学校は楽しかった。同級生はいろいろな人がいて、受験という制約に縛られない勉強も探求しがいがある。しかし、もしかしたら一貫校ゆえに、どこか閉じられた環境に慣れてしまった自分がいるのではないかという恐れもあった。それは大学の学部選択に表れていたのかもしれない。
「社会に対しての興味はものすごくあったんです。ずっと閉じた世界にいたので、もしかしたら自分がエコーチェンバー現象*みたいなことになっているのかもしれない。同調社会の中にいるかもしれない。だけど、社会ってもっと広いはずだし、しかもビジネスとか家業をやろうとした時にいろいろな人たちがいるよねと。なのでこれは後付けかもしれないですが、もっと視座を上げたいとか、俯瞰したいということは思っていたからこそ、法学部を選んだ可能性はあります(*直訳である「反響室」のように、狭いコミュニティで同じような意見ばかりを見聞きし、偏った意見を信じる状態)」
いろいろな価値観を持つ人がいる中で、社会のルールはどのように作られているのか。どんなルールがあるとよいのかと考えていくプロセスにも興味がある。どこまで明確に意識していたかは定かではないが、まだ見ぬ広い社会やそこに生きる人を俯瞰してみたかった。
幸い高校までの成績は十分だったため、希望通り法学部法律学科へと進学することができた。
「授業は面白かったですね。ものすごくノートを取っている人で、だいたい試験前にはノートをコピーされる側でした(笑)。ゼミは国際法だったんですが、これはやっぱりグローバルへの関心が当時からすごくあって。卒論はもっと抽象度が高くて宇宙法だったんですが、よりメタな仕組みとかダイナミックな社会を見る方が好きでしたね」
国内にとどまらず、より開かれた国際社会に目を向けてみる。すると、国と国の政治哲学的なパワーバランスや、そこで機能するルールなど新たなテーマが浮き上がってくる。よりスケールが広がっていく内容に惹かれていた。
「法律って万人に公平じゃないですか。それって物事をいろいろな角度から見なければいけないわけですよ。いろいろな角度で物事を見ることの究極が法律とも言えますし、それが興味深かったですね。少なくとも大学で法律を学んで得たものは、おそらくものの見方だと思います」
知らないものを知り、新しいものを見つける。1つの物事をいくつもの角度から見る。
学生時代、知的好奇心の赴くままに学んだことの真髄は、そんな風に世界を再発見することを冒険するかのように楽しむ心だったのかもしれない。
大学で学んだものは勉学だけじゃない。仲間と一緒に汗水垂らし、スポーツに打ち込む。そんな経験も社会人になってからはできないだろうと考えて、4年間体育会ゴルフ部に所属した。
「ゴルフ部とかって言うとラグジュアリーな感じもするじゃないですか。全くなんですよ。死ぬほど泥臭くて(笑)。基本朝6時くらいに集合して、みんなで走り込みとか基礎体力づくりをやって、ゴルフ自体は昼や夜に個人で練習する。本当に笑っちゃうぐらい理不尽なんですけど、それを楽しんでいたようなところも少しありましたね」
過酷な練習に耐えながら、仲間と家族以上に密な時間を過ごす日々。加えて週末はゴルフ場へキャディのアルバイトに向かい、ラウンドしながら練習もする。授業以外のほとんどの時間をゴルフに注いでいた。
ハードな環境ではあるが、仲間がいるから乗り切りたいと思える。だからこそ、全員が目標とする大会で結果を残すべく、できることは何でもしたかった。ゴルフの腕前は自分より優れた人がいる。それならばとチームを下支えするような役割を自然と買って出るようになった。
「1年か2年くらいで明らかに上手い人というのも分かるじゃないですか。私自身は全然上手くなれなかったので、じゃあ違う立場でこの組織に貢献できないかみたいなことは思っていましたね。最終的には主務(マネージャー)という立場で、主将(キャプテン)の裏で試合の調整をしたりするようなことをやっていました」
実際、団体戦で勝敗を決めるのはレギュラーだ。しかし、大事な1戦でレギュラーが最大限のパフォーマンスを発揮するためには、非レギュラーのサポートも欠かせない。
表に立って功績を残す人がいる一方で、そんな人にスポットライトを当てる側の人たちがいる。もしかしたら社会も同じかもしれないと、次第に考えるようになっていく。
「就職活動の時には『世の中の黒子になる』というようなことを言っていました。これはもしかしたら今も続いていて、もちろん自分が表に立って強いリーダーシップでやっていかなければならないこともありますが、みんなを下支えしていくことも大事だと思っているんです」
いろいろな業界を受けたが、なかでも最後に入社を決めたのは電通だった。日頃何気なく目にする広告やキャンペーンも、裏では大勢の人に支えられている。たとえば、ワールドカップやオリンピックなどのイベントもそうだろう。ちょうど大学を卒業する2002年には、日韓ワールドカップの開催が控えていた。
世に名前は出さずとも、社会に大きなうねりをもたらすような仕掛けを生み出している人がいる。そんな仕事に憧れた。
「家業に入ることを決めていたので、いつかは自動車部品製造業をやると。ファミリービジネスなので基本的に定年もない。それなら最初は全く違うことをやろうと思っていました。いろいろな業種を受けたのですが、ものを作って売る製造業とは対極で、アイデアがなければお金が生まれない無形商材やコンテンツビジネスに関心があったので、これは面白そうだなと思って電通に入社させていただいたという経緯です」
大学時代、体育会ゴルフ部の同期と
新入社員は入社してすぐに研修へと駆り出される。当時はちょうど人材開発部が実験的な研修に挑戦していた頃だった。自衛隊研修や座禅研修など、通り一辺倒ではない内容が企画されていて、これが社会かと圧倒されながら身を投じていった。
「飲みの作法から始まって、相手のことを気遣うとかお客様と向き合うとか、社会人として基本の『き』ですよね。電通『鬼十則』といわれるものもありますが、そういう仕事に対する向き合い方のようなことは徹底的にたたき込まれました」
配属先は、いわゆるザ・広告営業マン的な職種とは一味違い、マーケティングの部署だった。市場調査を行い、商品開発や新規のキャンペーンなどを提案する。そこで長く大手携帯キャリアを担当顧客としたことで、誰もが一度は目にしたことがあるようなキャンペーンにも携わることができた。
5年ほど働いて、仕事で何かを生み出したり自ら提案していくことにも慣れてきた。その頃、世の中ではSNSやスマートフォンなど新たなサービスや技術が急速に発展しつつあり、無視できないほどの波となり押し寄せていた。
「当時はまだiPhoneが出る前ですし、それこそSNSが始まったばかり。mixiとかFacebookが始まったかなというくらいだったんですが、ネット系の事業や技術にはすごく興味があって。社内の面白そうなことを見つけてはmixiとかで繋がって、いろいろ話を聞いたりしていたんです」
なかでも1人、特にネット系の業界に詳しい先輩と出会ったことが転機となった。
「その方とかなり懇意になって、ある日『この会議室に何時に来い』と言われて行ったら、それが株式会社IPG(旧 株式会社インタラクティブ・プログラム・ガイド)という電通子会社の会議室で、経営会議のようなところに参加させてもらったんですね。そこから最終的には出向という形にしてもらって」
もともとIPGでは、放送局の番組情報を集めデジタルメディア上で配信したり、放送局のデジタルビジネスを支援する戦略子会社という位置づけだった。ちょうど「通信と放送の融合」が叫ばれていた頃でもあり、時代に先んじた新たな仕掛けを考えていくことになった。
「それこそ事業構想から放送局さんと一緒に作って、その運用まで携われたことは非常に良い経験でした。たとえば、ファッションを題材としたドラマを放映しながら、その女優さんが来ている服をリアルアイムで買える仕組みを作ったり、当時にしては結構画期的な取り組みができて。世の中に対してそういう仕事ができたことはすごく良かったなと思います」
世の中の多くの人が目にしたことがある仕事の裏側は、いかに支えられているのかを知る。黒子の心を体現するかのように働きながら、進んで新たな世界へと飛び込んでいった。
明確ではないものの30歳くらいには家業に入ろうかと考えていたところ、後押しとなったのは社会情勢という外的要因だった。
「リーマンショックが起きて、やはり自動車業界も打撃を受けて。父と仕事の話をしたりするなかで、結構苦労しているなという様子を横目で見ていました。これはそろそろ自分も手伝いたいと思ったことが直接的なきっかけで、2010年11月に入社しました」
当初は営業担当として、国内外の顧客や工場を回るところから始めた。1人の人間として信頼を獲得するために、まずは酒を飲み交わす時間が必要だと考えていた。
「物事を見るときにいろいろな角度で見なければいけないように、人間もそうだと思うんです。正面から見えているものが全てではないじゃないですか。相手をいろいろな角度で見て、フェアな関係を作っていくことってすごく大事だと思っていて。それにはやはり表面的な日常会話だけでは分からない本質まで理解しないといけなくて、まぁ飲みの場のようなものも大事だよねと」
社内で積極的に合宿のような場を企画し、飲みながら会社のことを話し合う。幸いお酒は好きだったので、人となりを理解してもらうにはちょうど良い機会となった。
一方で、事業や売り上げにも向き合っていく。1年ほどが経ち、業界構造も理解しつつあった頃、既存の事業を継続発展させることは当然として、今後の事業拡張性についても模索していた。
「うちはそれまで海外はタイしか拠点がなかったんですよね。それも日系のお客様の海外拠点に輸出をしていたんですが、やはり欧米市場に進出していくべきだよねと。でも、米国は参入障壁も高いし、人件費も高いしということで、その南にあるメキシコで会社を作ろうと考えて」
新しい環境に身を投じてこそ学べることがある。一路メキシコ行きの飛行機へ乗り、現地を視察してみることにする。
メキシコ人は黒髪で背丈も日本人と近しい。話してみると、ラテン系で明るく打ち解けやすく、親日的な国民性であるとも分かってきた。米国のすぐ南で、関税上も地の利がある。
間違いなく進出すべきだという確信を得て、メキシコシティから帰りの飛行機に乗る。太平洋の上を飛ぶ飛行機の中、夢中で事業計画書を書いていた。帰国後は反対の声も上がったが、自ら現地へ赴いて主導するということでなんとか承認を得た。
「最初は出張ベースで市場調査や会社の設立手続き、雇用などを準備して、2013年からは現地に引っ越して会社を立ち上げました。それこそ土地を探すところからですね。今に通じる話で言うと、本当にゼロから会社を立ち上げた経験はそれが初めてでした」
メキシコの工場建設予定地にて、現地社員と
メキシコではいろいろな苦労があった。予期せぬ裏切りに、定着しない社員。問題は数え上げればキリがない。そんな状況を救ってくれたのは故・稲盛和夫氏の教えだった。
「稲盛和夫さんの本には相当影響を受けて。稲盛さんも同じような状況があり、その際大切にしたのがフィロソフィーだと。企業理念やビジョン・ミッション・バリューをきちんと作っていく必要があるということで、当時残っていたメキシコ人たちと合宿をしてですね。そこで決めたのが『グランファミリアカンパニー』というフィロソフィーでした。究極の家族経営を目指すと、これは結構今も僕の根底にあります」
親は子の成長を願い、必要なときに指導する。悩んでいれば道を示し、困ったときには相互に助け合う。ただ仲が良いだけの関係とは違う、家族のような関係性を築くこと。そう掲げたフィロソフィーは、家族を大切にするメキシコ人に快く受け入れられることとなる。
「メキシコ人のプライオリティーは、1番にサッカー、家族、飛んで飛んで仕事という感じであることが多いんですよ。だから、そういうコンセプトを出したらすごく共感してくれて。実際にそれをみんな口に出して言ってくれていたし、その後は結構定着率も高くなって、社員が満足度高く勤務してくれるようになりました」
現地法人の経営が軌道に乗ったあとは日本へ帰国。2018年からは大川精螺工業の代表取締役を引き継いだ。改めて事業を俯瞰し、このまま自動車部品製造だけで未来永劫続いていく会社でいられるのかと考えていた。
「やはり自動車業界もCASE*と呼ばれる流れの中で、これからEVになっていくよねと。当然自分もEVには乗ってみないと分からないと思い乗ってみると、国内の充電インフラは1社独占の状態ですし、サービスもリッチとは言えない。どちらかと言うと企業都合とか、ものづくり都合でできていて、ユーザーが見過ごされているということに気がついて(*Connected(コネクティッド)、Autonomous/Automated(自動化)、Sharing(シェアリング)、Electric(電動化)の頭文字を取った造語)」
海外を見渡してみると、ヨーロッパではEV充電関連のスタートアップ企業が多数生まれているほか、米国では既に上場している企業もある。家業のプロダクトデザインで親交のあったアートディレクター、デザイナーの山崎晴太郎(現在、プラゴでCDOを務める)とも意見を交わしてみると、思った以上に議論が盛り上がった。
新しい社会のインフラとしてのEV充電、その可能性について意気投合。大川精螺工業のグループ戦略としても必要な挑戦だと決断し、2018年7月に株式会社プラゴを設立した。
「もともと無形価値と有形価値の融合はやりたいと思っていたんです。リアルで触れられる手触り感はやはりすごく価値がある一方で、人々の心に残るとかワクワクさせるものってものづくりだけではなかなか実現できない。そこが融合すると、何かすごく新しい価値が生まれると思っていて。これは1つ僕自身のキャリアからしてもできることかなと」
当初は大川精螺工業とプラゴの代表を兼任していたが、VCから出資を受けたタイミングで家業の代表取締役を退任。幸いにも工場勤務経験もあり、頼もしい弟が経営を引き継ぐことを快諾してくれたため、2022年からはプラゴの経営に専念することとなった。
EVがスタンダード化する未来へ向けて、持続可能でワクワクする新しい社会インフラを築き上げる。それにはプロダクトそのもののみならず、充電設備を取り巻く導線や環境など、あらゆる物事との有機的な結びつきをデザインする必要がある。
新しいモビリティと共存する未来を、プラゴは社会に提案しつづける。
世の中の黒子になりたいと思い描いた学生時代から現在に至るまで、プラゴで見据える挑戦は、決して人生で予期していたものではなかったと大川は振り返る。
「課題を見つけて解決するためにアイデアを出す、0から何かを生み出すということは、何か能力やスキルを持つ人だけじゃなく、誰でもできることだと思っているんです」
今目の前にある挑戦が、自分にしかできない挑戦だとは思わない。人生は巡り巡ってきた偶然の掛け合わせでできているともいえる。ただ課題に気づき、行動を起こすことに繋がったのは、1つの心の在り方が関係しているのかもしれない。
「子どもの頃のスポーツヒエラルキーの話から始まるのかもしれないですが、やはり僕はいつも属した環境において強者側ではなかったと思います。強いリーダーシップを持っていたわけではないし、ものすごく秀でていたわけでもない。ただ、多様な角度からものを見ることは大切だと思っていました」
EV市場を俯瞰してみた時もそうだった。企業の都合が優先され、置き去りにされたユーザーの声。一時の利益のために、持続可能性を無視したインフラ構築。世の中で大局とされる見方に違和感を覚えたからこそ、プラゴという挑戦にも繋がった。
多様なものの見方をしていかなければ、より良い社会や環境は作れない。そんな思いが根底にあるからこそ、当たり前とされる状況を疑うことができる。逆に言えば、多様な角度から人やビジネスや社会を見つめることさえできれば、誰もが社会は変え得るということになる。
「世の中に課題はいくらでもあるので、それを実際に行動して変えていくことをもっとたくさんの人がやったらいいと思っています。だから、よくスタートアップ支援など言われるように、いろいろな領域でチャレンジする人を支援できる環境が、日本にもっとあったらいいですよね」
社会を変えるのは、誰か一人の大胆な挑戦だけじゃない。現状をより良くしたいと願う人の小さな一歩、その積み重ねがやがて大きなうねりとなる。だから、誰もがやってみるべきだと大川は考える。行動を起こす人が増えれば増えるほど、共鳴する人同士が力を合わせるほどに、社会がより良く変わる速度は加速していくのだろう。
2023.8.17
文・引田有佳/Focus On編集部
幼い頃から自然と家業を継ぎたいと思えていたと大川氏は語る。
自動車部品という、目立たないが社会に不可欠な乗り物を支えている事業。仕事という枠組みを超え、家族のように心通じ合う人と人の繋がり。何より人と社会を思い、常識を超える挑戦を続けてきた先代たちの姿。それらが純粋に社会に貢献するさまを見て育ったからこそ、自ずと芽生える思いがあるのだろう。
時代を超え、社会の在りようが変わっても必要とされつづける会社には、そうして受け継がれていく明確な人の意志があるものなのかもしれない。
プラゴが挑む、サステナブルなEV充電インフラの構築という未来も、そこにさまざまな業界、企業、あるいは自治体などが関わってくる。施設や地域のよりよい姿を描き、価値を生む状態をつくろうとする意志が集い、共感が連鎖する。
一人ひとりの力は小さくても、同じ未来を見据える思いが重なれば、やがて大きな変革となり得る。事業を通じて繋がる人の心こそが、プラゴの創造するインフラを現在から未来へと続いていくものにするのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社プラゴ 大川直樹
代表取締役
1980年生まれ。東京都出身。2002年慶應義塾大学法学部卒業。株式会社電通に入社し、携帯電話市場におけるマーケティング業務に従事。2007年子会社のインタラクティブ・プログラム・ガイド社(現IPG社)に出向し、放送通信連携に関わるベンチャー企業の経営に携わる。2010年大川精螺工業株式会社入社、取締役就任。2013年メキシコに駐在し、現地法人・工場を立上げ。2018年より日本に帰国し、代表取締役に着任。同年、株式会社プラゴを設立。