Focus On
尾口紘一
株式会社Fan  
代表取締役
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or意味が分からないからこそ、意味がある。世界中の誰にも理解できないものであるからこそ、問われつづける価値を残すことができる。
時代とともに変容していくアートとテクノロジーのための環境を作るスタートバーン株式会社。ブロックチェーンなど先端技術を用いたアートの権利管理や価値付けなど、「インターネット時代のアート」のためのプラットフォームを構築している。アーティストやレビュワーに落札価格の一部が再分配される独自のオークション制度は、すでに日米で関連特許を取得済みであり、同社は東京大学エッジキャピタル(UTEC)からの出資も受けている。人類にとって新しいアートの価値を創造し、アートを民主化する。自身も現代美術家として活躍する、代表取締役の施井泰平が語る「新たな評価軸の創造」とは。
目次
誰かの夢を覗いてしまったかのような、支離滅裂で意味の分からない作品。現代美術の祖が遺した未完の大作を前にして、人は為す術もなく思考を巡らせるしかない。何とも形容できないものを前にしてわき上がる感情は、怒りか、不安か、驚きか。「あれは何だったのだろう」という感慨が残れば作者の思うつぼ、なぜならそこに答えなどないのだから。
時代とともに変化していく社会のダイナミズムのなかで、アートの在り方もまた変化を迫られている。テクノロジーとアートの架け橋となっていくスタートバーン株式会社。同社では、オンラインアートマーケット「startbahn(スタートバーン)」やブロックチェーン技術を活用したアートの権利管理や価値付けに関するサービスなど、新時代のアートプラットフォームを構築していく。同社の設計した最初の取引制度は、日米で特許を取得しており、今後は東京大学エッジキャピタル(UTEC)からの出資を受け、新たなサービスを展開していく。
代表取締役の施井氏は、現代美術家である。幼少期をアメリカで過ごし、多摩美術大学を卒業後、「インターネット時代のアート」というコンセプトを掲げ活動。2006年には、村上隆氏が主催する現代美術の祭典「GEISAI#9」の安藤忠雄賞など、多数の賞を受賞した。2007年からは東京藝術大学にて教鞭をとり、並行して、アートと産業の橋渡しとなるべく渋谷&秋葉原カリガリや、秋葉原ディアステージ、秋葉原MOGRA、AWAJI Cafe & Gallery、ホリエモン刑務所カレーなどのアートディレクションも担当。東京大学大学院に在学し、2014年にスタートバーン株式会社を創業した。
「レオナルド・ダ・ヴィンチのようなアーティストに視座を置いているからこそ、理想も高くする。絵画技術など社会の一部機能だけに特化したアーティストじゃなくて、もっと思想体系ごと創るような説得力のある存在にならないとダメだと、自分にプレッシャーをかけています」
誰にも測ることのできない一つの理想に向け、ひたむきに歩んできた施井氏の半生に迫る。
変わりゆく時代のなかで、アートの定義も変わっていく。かつてフランスの芸術家マルセル・デュシャンは、どこにでもあるような便器に「泉」という名前を与え、観る者の心に波紋を投げかけた。それは果たしてアートと呼べるものなのか?そもそも、アートとは何なのか?意味を再定義することにこそ、アートの本質がある。彼の作品は、そう語りかけてくる。アートとそうではないものの境界線は、どこにあるのだろうか。
「基本的には、それを議論の台に乗せるためには、自分で『これはアートだ』と言う人がいないとダメですよね。自然発生的に生まれるものというよりは、誰かがそれをアートですと言うことがスタートになります」
たとえば、33年間石を積み上げ、建物を作ったシュヴァルという人がいた。彼は個人の衝動の発露として宮殿を作り上げた、ある種の変人に過ぎなかったのだが、のちにそれはシュールレアリスムの巨匠ブルトンに批評されたことによりアートとみなされるようになった。また、映画や漫画、イラストなど、人間が生み出すさまざまなクリエイティブがあるなかで、アートの固有性は「評価の時間軸」にあるのだと、施井氏は語る。
「たとえば映画だったら、短期間の興行収入で評価されるように、どのクリエイティブにも評価を決定するおおよそのタイムスパンがある。そのタイムスパンが長いものがアートになります。30年40年ずっとその価値が社会に問われつづけて、残っていくもの。そういうものに対峙するクリエイティブが、アートなのかなと思います」
たいていのものは新品の方が高く売れるのに対し、アートの場合は中古の方が価値が高くなる。それは、アートが対峙するものを象徴しているともいえる。オークションをはじめ作品が流通する市場があり、ときを経て繰り返し評価されていくアート。長い年月をかけて人の手を渡り、その価値は問われつづける。
他方、現代のインターネット上ではワンクリックで投稿され、消費されていく作品がある。アートであるべきものと、そうではないものの境界線は曖昧になりつつある。テクノロジーの進化ともに、アートの在り方もまた、否応なく変化していく時代となっている。
「startbahn(スタートバーン)」は、現在そして未来のアートを担う全てのアート関係者を対象にした、インターネット時代のアートのためのプラットフォームである。それは、作品の制作・流通・評価が持続的に行われ、新しい時代のアートを活性化していく土壌となる。
Web上のアートプラットフォーム「startbahn. org」と連動しながら、毎年開催されている「富士山展」は、アート鑑賞の在り方を再提案する展覧会となっている。
「インターネットとアートって相性が悪いんです。普遍的な価値を問うのがアートであるのに対し、インターネットってむしろ『今』とか。Twitterなんて2時間もすれば流れていって話題性がなくなるというなかで、ずっと残りつづけるとか問われつづけるみたいな概念って、インターネット的じゃないですよね」
「今」の再生数がランキングとなり評価されるYoutubeや、「今」の人気がお金を集めるクラウドファンディングなど、インターネットでは短期の市場が盛り上がる。デイトレードのように短期でのタイトな取引は、作品の評価に緊張感を生むという魅力もある一方で、時代を経ても信じられる長期的な価値を推進することが、アート本来の価値を最大化させる。それらを両立させるからこそ、これからのアートマーケットは正しく機能するのではないかと施井氏は考える。
「株式市場とかは両立していると思っていて。デイトレイダーとかスイングトレーダーとかいますけど、あれって株式市場の本質ではないじゃないですか。本質は長期的な視点で会社の価値を買って、信じること。ウォーレン・バフェット*なんかがやっていることってそうですよね。時代を経てもずっと価値を信じていたりとかって、時代を超える価値を推進するところがあると思うんですけど、一方でやっぱり短期的な市場があって、そこで盛り上がるからこそ常にタイトな取引があって」(*ウォーレン・バフェットは、優良銘柄へ長期投資し世界一の投資家となったことで知られる。)
短期的な価値と長期的な価値への問いかけが両立するからこそ、循環が生まれ、アートが活性化していく。数万円で買った作品が、5年後10年後には数百万、数千万円の価値となることがあるように、世界ではアートは資産として認められている。一般の個人であってもアートコレクションを保有したり、アーティストの大作制作をロングスパンでサポートすることができるようになれば、アートを巡る新しい世界が広がっていく。「startbahn(スタートバーン)」は、「インターネット時代のアート」のインフラとして好循環を生み出し、未来へとつなげていく旗手となる。
発明家や起業家と、縁の深い家系に生まれた。精密機器関連の会社のサラリーマンとして世界を股にかけていた父(のちに米国企業の日本支社代表となる)。母の大叔父はオイルレスベアリングを発明したオイレス工業株式会社の創業者。母方の祖父も発明家で、水分計や錆の実験機などさまざまなデバイスを開発した山崎精機研究所を創業した人だった。戦時中、日本初の特攻兵器であった人間魚雷「回天」の開発に携わっていたという祖父は、魚雷が敵にぶつかる直前に脱出する装置や遠隔操縦などの提案を試みたが、当時は国賊的発想として受け入れられなかったという。
そんな偉大な発明家や起業家である家族の影響か、幼いころから施井氏の意識下にあったのは、人類史に残る万能の人レオナルド・ダ・ヴィンチの存在だった。ルネサンス期、芸術から自然科学まで広範な領域で功績を残した、稀代の偉人である。
「コンプレックスとかじゃないですけど、ダ・ヴィンチが日本人じゃないことが嫌だと思っていたんです。やっぱりダ・ヴィンチってかっこいいじゃないですか」
物心ついたころからあった憧憬は、発明家の父をもつ母が話してくれたことによるのかもしれない。日本で天才的美術家といえば葛飾北斎の名前が挙がるが、北斎はあくまで画伯であり、自然科学や数学を熟知して、発明をしたり絵画を描いていたわけではない。たとえそんな存在がいたとしても、少なくとも日本ではヒーローではなかった。ただ、それが悔しかった。
絵だけが上手い人よりも、周辺の事象についての知識をもった上で絵を描く人のほうが、説得力がある。レオナルド・ダ・ヴィンチは何にも勝る存在であった。彼という存在、そして遺された作品群には、いまも解き明かされない謎が秘められ、時代を超え、世界中の人々を不思議と惹きつけてやまない。ダ・ヴィンチは世界を説得できる力をもっていた。
施井氏が4歳のとき、父の仕事の関係で、家族はアメリカ・カリフォルニアへと渡った。姉と弟がいる5人家族。当時はまだアメリカへ移住する日本人家庭は少なく、現地では4家庭ほどの日本人コミュニティが近所にあった。それぞれ同年代の子どもがおり、同じ過去を共有しているからか、いまも付き合いがあるほどの仲の良さだった。当時を振り返ってみれば、両親は子どもの教育に気を遣っていたのかもしれないと、施井氏は語る。
「アメリカの現地の学校と日本語学校2つ、同時に3つ通っていたんです。英語が話せるようにっていう母の思いで平日は現地の学校に行って、思考の軸を作るという父の思いで放課後と土日はそれぞれ別の日本語学校に。ある意味、英才教育ですね。当時は全然意識してなかったですけど、勉強ばかりする環境だったのかも」
所属するコミュニティがいくつもあり、それぞれに違う自分がいる感覚だった。自分が知っている自分と、外部から見た自分が、場所によって変わる。当時はあまりしゃべらない、地味な子どもだったという施井氏。それぞれのコミュニティに対する距離感を測っていたのかもしれない。そこではさまざまな国籍が入り交じり、アジア人も、白人も、黒人も、お互いがお互いを差別しているようなところがあり、いつも違和感があった。
日本人だという理由で差別を受けた記憶のあるアメリカ。一方、小学4年生のとき日本に帰国すると、今度は「アメリカ人」として扱われた。差別というほどではないが、日本にいるときの方が孤独だった。
「アメリカのコミュニティのなかでは面白かったギャグが、日本のコミュニティでは面白くないギャグになったりとか。同じものが違うものになって、変わってくる。そうすると逆に『良いといわれてるものを信じない』とか、じゃあ『良いというものは何なんでしょう』と考えるようになっていったんです」
コミュニティに大きく価値が依存することを目撃してきたからこそ、そうはなりたくないという感覚があった。良いとされるものを信じない。何が価値なのか、何が答えなのかを決めるのはコミュニティではない。そういった意味では、憧れつづけているダ・ヴィンチはコミュニティを超越して価値を認められる存在に違いなかった。
引っ越して3年間通った日本の中学校は、のどかな場所にある公立校だった。学校の勉強は、圧倒的にできた。差別のようなものもなく、次第に自己主張ができるようになっていく施井氏。先生・生徒と線引きすることもない、ガキ大将を越えたメタな存在だったと振り返る。テストで自分が書いた答えがバツにされ納得できなかったときは、問題が悪いと職員室に意見しに行くほどだった。
誰かが作る線引きを凌駕している、ダ・ヴィンチのことを考えていたのかもしれない。国や時代を越え、複数の領域にまたがる才能を発揮した彼の人のように、一つのコミュニティの価値に依存しない存在になりたかった。
2013年に施井氏が手がけた作品「そして博士(アーティスト)は人類救済装置(アート)を残して逝(デス)った」
人類を代表して宇宙船に乗り込む、選び抜かれた宇宙飛行士たち。博士号を複数もっていたり、数カ国語を話すような優秀な頭脳と健康な肉体、そして何より優しい心をもっている。そんな宇宙飛行士に、小さいころ憧れていた時期がある。きっかけは、アメリカの小学校にいたころ、みんなで見守ったNASAのスペースシャトルの打ち上げ映像だった。
当時施井氏が通っていた現地の小学校は、理数系に特化した英才教育を行うギフテッドスクールだった。乗組員の一人で教師であった女性は、施井氏の学校の先生の友人であり、生放送される打ち上げ映像を生徒たちは一緒に観ていたのだ。
未来の科学技術と、希望の象徴だったスペースシャトル。全米の子どもたちが見守るなか、宇宙船チャレンジャー号は、打ち上げから73秒後に空中分解した。宇宙飛行服を着た7人の飛行士たち。写真の中でほほ笑むその姿が、いつまでも脳裏を離れなかった。
「乗組員の写真を見ると、女性でパーマの人と、アジア人のおっさんと、黒人と白人が写っていて。その図が当時の僕の友達、アメリカンスクールの感じに投影できたみたいなところがあって、同時にそれが爆発するっていう。何なんだろう、アメリカの良い部分と、それが失敗しちゃった部分を見たような。それはけっこう心に残っているんですね」
宇宙飛行士という存在は、人種も国籍も関係ない。何かしらのコミュニティを越え、お互いがお互いとして存在していることも、施井氏の興味を引いたのだろう。世界を股にかけ活躍する仕事、そして宇宙から見た地球はボーダレスだ。さまざまな人種の乗組員がほほ笑む写真はその象徴だった。
いつからアーティストを志していたのか、記憶はあいまいで定かではない。宇宙への関心よりも、昔から一貫して自分の中に存在していた思いだった。イメージしていたのはもちろん、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。物心ついたときから絵を描くことは好きだった。
「絵を描くためにというよりは、『偉大なアーティストは絵が描けるもんだ』みたいな、絵が描けないとかっこわるいみたいな、そういう感じだったかもしれないです」
はっきりと進路を意識したのは中学一年生のとき、授業で先生が見せてくれた藝大の紹介ビデオだった。母親に美術を学びたいと言うと、きちんとした高校には入るように言われ、美術を学ぶことができる高校を探した。筑波大に工業デザイン科があることを知り、なぜか付属校である筑波大学附属の受験を目標に勉強をがんばりだしたが、半年後に学区外であることが分かり諦めた。結局、家から近かった渋谷教育学園幕張高校に入学したが、心を占めていたのはアーティストになる自分である。入学から1年後には、アメリカの高校に留学した。
「そのときは自分がアーティストになったときに、プロフィールで物語らないとダメだっていう意識があって。10代からずっとそんな感じでしたね。高校のときに留学とか紹介文に入るくらいじゃないとダメだと(笑)」
アーティストたるもの、経歴にはストーリーが必要である。ダ・ヴィンチも有名な絵画「モナ・リザ」をいつも持ち歩き、加筆を繰り返していたのだという。その行為が、思いの強さを周囲に物語り、価値を高くしていた(それは、ダ・ヴィンチのアーティストとしての演出の一部であったのではないかとも施井氏は考える)。ストーリーには、世界を魅了する求心力の源泉があるのかもしれない。境界を越え、時代を超える。施井氏は、アーティストとしての自らの生き方を考えていた。
2007年に施井氏が手がけた作品「IT -TOKYOBAR version-」
留学先では運命的な出会いがあった。偶然ホストファミリーの家の近所にあった、フィラデルフィア美術館を訪れたときのことだ。そこに所蔵されていたマルセル・デュシャンの代表作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』。通称「大ガラス」と呼ばれるその作品は、透明な2枚のガラスに絵の具や金属が挟まっており、一見して何とも形容できない。ところどころ割れているガラスは、向こう側に人がいれば透けて見えてしまう。
「絵画のキャンバスでもなければ、彫刻でもなければ、なんか割れてるし。これがとにかくむかつくというか、『なんだこれ』みたいな体験としてあって。それが美術館のすごく大切にされている空間みたいところに展示されている。クリエイターとして良いものを作りたいっていう思いがあって、それを見るために美術館に行ったんだと思うんですけど、そこで良いとされているものが全然理解できないっていう、洗礼みたいなところがあったのかもしれないです。それもかっこいい洗礼ではなく、ため息みたいな」
何なのかが分からない作品。安心感の真逆であるもの。それ自体にアイデンティフィケーション(自己同一性)がない存在。強烈に興味を引かれたのは、日本人とアメリカ人、どちらにもなりきれない自分の存在と重なる部分があったからなのかもしれないと、施井氏は語る。
「自分の自己同一性が揺らいでる人っていうのは、けっこうアートに興味を持つんですよ。日本人として差別されたりする環境にいると、『自分の存在って日本人なのかアメリカ人なのか』とか、『そもそも日本人であることって何なんだろう』ってことに否応なく付き合うじゃないですか。アートってとりわけ存在が確立していないものなので、不安定な自分と同じ『これは何なんだろう』みたいなものに対して興味をもつんじゃないかなと、勝手に分析してるんですけど」
自分が興味を持つものは、自分のなかの何かの反映である。アートコレクターのなかには心理学者も多い。日本一の現代アートコレクターといわれる高橋龍太郎氏も精神科医である。
アメリカでは日本人としての差別を受け、日本ではアメリカ人として扱われた。自分の存在が揺らぐ経験をしてきた施井氏だからこそ、その作品は一層心に響いた。コミュニティに依存する価値の危うさを見てきたからこそ、何かにカテゴライズできないものにこそ真の普遍的な価値があると考えた。形容できない状態こそが、一つの存在証明なのである。まさに『大ガラス』は形容できない存在の極みであった。
「評価されるということは、何かしらのコミュニティに依存していたりとか、何かしらの評価にぶら下がっているというところがあるので。これは何だって言えるものは、全部しょぼいよねと。自分が作家となって、アイデンティフィケーションが定まらないものを作ったときに、周りの人が理解出来ずに拒むような反応をするのは嫌じゃないというか、そういう反応をする人の気持ちも分かるんです。でも、良いものを作るためにはそういう反応をも超えないととも思うんです」
評価の軸を生み出すコミュニティに依存しているということは、快楽もあれば、面白いものを共有できる楽しみもある。けれど逆に、それ以外のものを排除するということでもある。コミュニティに属さず、アイデンティティが定まらないものは理解もしづらく人は拒絶してしまうだろう。施井氏はそれを身をもって経験してきた。だからこそ、理解ができないことから生まれる「拒絶」をも超え、領域を横断するアイデンティフィケーション、むしろアイデンティフィケーションが定まらないものを作ることこそが価値なのである。
国境より個人。どこにも属さない、宇宙飛行士のような存在。「Imagine …(想像してごらん)」と、ジョン・レノンが『Imagine』のなかで歌ったように、作品を前に、自分という存在を前にして何かをイメージさせること。それができれば、境界線はなくなる。
よもやそれは、世界平和すら叶えるものなのかもしれない。コミュニティを越え、いまなお世界中で問われつづけるレオナルド・ダ・ヴィンチ。アートこそがそれを可能にすると、施井氏は確信を得ていた。
目標があり、高い理想があった。コミュニティに価値が依存するクリエイティブではなく、普遍的な価値として残りつづけるものを作りたい。コミュニティに閉じこもったアーティストよりも、もっと説得力がある存在になりたい。
帰国後に高校を卒業し、美術の大学を受験した。勉強の試験はよくできたが、絵の試験で藝大には落ちてしまう。発明家だった祖父の影響か、「数学者の絵」といわれるほど味のない絵を描いてしまうのだという。多摩美術大学の油絵画科に入学した施井氏。アーティストになるためにはどうすればいいか母に相談すると、当時母の知り合いのなかで一番の巨匠に聞いてくれた。アートをやるならばすべての基礎が油絵であるからと、アドバイスしてもらったのだ。
味のない絵を描いてしまうからこそ、過去には19世紀印象派や野獣派、未来派の絵に魅了されていた施井氏であったが、大学在学中には現代アートの世界と出会う。1999年に出版された『Art at the Turn of the Millennium』という一冊の本。2000年という人類にとっての節目の年を前に、その時代のアートを俯瞰する書籍として、さまざまなアーティストの作品が掲載されていた。一つとして同じ系統のようなものが存在していないその本に、施井氏は感銘を受けた。当時はちょうど、村上隆氏が立ちあげた若手アーティスト集団「カイカイ・キキ」の前身となる「ヒロポン・ファクトリー」が主宰された時期でもあり、現代アートは身近な存在だった。身近なところに誘いがあれど、施井氏は所属しなかった。
「すごい生意気なんですよ、すべてにおいて。普通アーティストになるためには、ギャラリーの人と仲良くなって横のつながり作って、飲み会行ってってやるんですよ。でも、そういうもの全否定してて。そうすると、大学卒業した瞬間にアートの業界とまったく接点がなくなるわけですよね。自分の思いはすごく強いのに、アーティストになる道がまったくない。そのときは、僕、人生で初めて10円ハゲができたときですね」
本当に良いものを作りたいという感覚があった。時代を超えて残りつづけるものは、飲み会人事から生み出されるとは思わなかった。(いま振り返れば、そういったつながりからチャンスをもらいつつ良いものを作ればと思えるが、)当時は頑なだった。大学時代に何らかの成果を残すことはできなかったけれど、絶対に自分は死ぬまでアートをやるだろうという確信があった。それほどアートに心酔していた。
「大学卒業後に、半蔵門にある父親の会社でアルバイトをしていて、家がある津田沼まで9時間歩いたときに、そのあとの人生設計を全部考えたんですよ。このままじゃアーティストになれない、アーティストになりたいと言って、振り返ったらすべてアーティストになるための活動だったのに何も残せてなくて、本気でやばいと思ったんですよね。そのときに、これからテクノロジーの波が来るので、アーティストとしてそこに乗るってことを意図的にやろうと思ったんです」
地の底にいたと当時を振り返る施井氏。危機感から最後の挑戦だと、社会におけるアートの大きな流れに目を向けた。それまでの歴史のなか、アートはテクノロジーとともにあることに気がついた。アルバイト中の単純作業や、帰り道に頭を冷やし考えつづけた時間は、とても良いものだった。制作テーマを先に公言した上で作品を作るアーティストはほとんどいない。しかし、施井氏の目にはアートとテクノロジーの大きな流れが見えていた。
テクノロジーが大きなうねりを見せる時代、施井氏は「インターネットの時代のアート」というテーマで作品を作りはじめる。才能がなくても10年つづければ、才能があるその日暮らしの人たちよりは良いものが蓄積できるのではないか。確実に実績を残すための戦略だった。
「名を残すことにはそんなに興味ないんですけど、アーティストがやるべきことをやりたいという思いがあったんですよね。それは、時代の変化に対して、最大限アウトプットするということ。時代がヒーローを求めていないんだったら、別にヒーローになる必要もなくて。この時代において一番最高のもの、つまり残りつづけるもの、影響を与えつづけるもの作りたいんです」
時代を超え、国境を越え、作品がその意味を問われつづけること。議論を生み、評価されつづけること。それが作家単位、アーティスト単位でも行われる。アートが消費されるのではなく、残りつづける。その大きなうねりを生み出すことそのものが、施井氏のアート活動である。新しい時代に臨む、若き日の自分のようなアーティストのために、施井氏の思いは「startbahn(スタートバーン)」の構想へとつながっていった。
2006年に施井氏が手がけた作品「IT」
アーティストが信念を形にする方法は一つではない。自分がやろうとしていること、作りたい世界をもっと力強くするために、場所を作り、さまざまな人を集めていく人がいる。
「僕がアーティストのなかで一番面白いと思っている人は、自分の場所を作る人なんですよ。アーティストが発表するための『場所』を作るアーティストがいるんですけど、そういう人は絶対伸びるんです」
イギリスの現代美術家であるダミアン・ハースト氏も、大学在学中に近くのビルを借り、毎週のように学生たちによる展覧会を主催していたところを見出され、世界的に有名なアーティストとなる足がかりをつかんだ。近年は日本でも、アートコレクティブ「カオス*ラウンジ」を主宰する藤城嘘氏や、美術共同体「パープルーム」を主宰する梅津庸一氏などがいる。
「場所を作るって、単純にギャラリーを作るだけじゃなくて、評価軸を作るということだと思うんです。結局すごいアーティストって評価軸を作った人たちなので。いままで誰かが作った評価軸に乗るということは、普通に誰かが作った場所に行って、器用にやっただけなんですけど、場所を作るっていうのは本当にそういうムーブメント作ることにつながっていく」
究極的に良いものを作ろうと思ったとき、これまでにない評価軸を生み出そうとするとき、個人の力には限界がある。特に、それが若手のアーティストであればなおさらである。人の手を渡っていくことで価値が生まれていくアートの世界では、新人の作品は最も価値がつきにくい。アーティスト個人が話題になったとしても、肝心の作品自体に価値がつかなければ評価もすぐに落ちてしまう。足りないものを補うために、自然と場所を作る人が多いのではないかと施井氏は語る。
未来を見据えたアートの環境を作っていく「startbahn(スタートバーン)」。個人の力では難しい新たな評価軸を世に生み出していくこと。そのための環境を整え、活性化させていく。既存の評価軸があってもいい。しかし、個人間で評価された新たな基軸をもった作品が、美術館に並ぶような流れがあってもいい。それは施井氏の願いでもあり、アートの世界にあらゆる価値の軸を自然発生させるエコシステムなのだ。
スタートバーンがアートディレクションを担当し、2016年11月に竣工した「AWAJI Cafe & Gallery」。 バリスタによる本格派コーヒーを提供するカフェに、企画展を中心とするアートギャラリーを併設している。
2006年、村上隆氏が主催する現代美術の祭典「GEISAI#9」にて、安藤忠雄賞を受賞した施井氏。文庫本を加工した疑似本棚的作品群。鑑賞者に対し、インターネットの時代における物質の存在意義の再考を迫る同作品は、多数の賞を受賞した。
「スタートバーンの構想を思いついたのは2006年で、本棚の作品と同時に考えていたんです。本棚の作品はギャラリーの中でインターネットを喚起する作品で、それとは別軸で環境そのものを作るプロジェクトとしてスタートバーンを思いついたんですけど、当時は特許を取るしかできなくて」
日米で特許を取得しつつ、実現を模索しながらアーティストとしての活動をつづけていた施井氏。2013年に東京大学大学院学際情報学府に入学し、翌年にスタートバーン株式会社を設立した。同じく東京大学出身のアーティストといえば、ビデオアーティストのナム・ジュン・パイク氏やアーティスト集団チームラボ代表を務める猪子寿之氏がいるが、大学で油絵科を出てから東大に行ったアーティストはいない。(東京大学への入学はエンジニアの集めやすさや、銀行など社会的信用が求められる場面で説得力を持たせることができるという意味で、良い選択だったと語る。)
現在、東京大学エッジキャピタル(UTEC)からの出資も受け、その一歩を踏み出したスタートバーン。しかし、そこに至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。約10年前に作品が安藤忠雄賞を受賞する前は、アーティストとしては何ひとつ成せていなかったと、施井氏は当時を振り返る。10円ハゲをつくるほど悩み、アーティストとして最後の挑戦だと思っていた。
「どんな作品を作っても評価されない時期があって、これで何も賞を取れなかったら辞めるしかないみたいな状態になったときに賞をいただいたりとか、そんなことを繰り返してきていて。恵まれているって感覚もないし、力のある理解者がいたという感覚もないし、運が良かったという感覚もない。父の反対とかもあって、むしろダメな選択をしてきたんじゃないかって思ったりもするんですが。唯一言えるのは、目標だけはまったく変わってない。それはもう確実にやらないとだめだって、思い込み力みたいなものはあるかもしれないですね」
過去の自分を振り返れば、何をしてきたのかと言われてしまうような、ひどい経歴だった。才能や特別な能力があったわけでもない。ただ、自分なりに無理矢理開拓してきた。唯一の動機は、目標意識だけだった。それだけは失ってはいけないものであった。
「恥ずかしい言い方ですけど、世界一のアーティストになること。ダ・ヴィンチみたいなアーティストに、作ったものが一番問いつづけられる存在になりたいですね」
『モナ・リザ』という作品には圧倒的な求心力がある。誰もがその作品の幽玄さを前にして魅了され、だからこそ長年研究の対象とされつづけてきた。物心ついたころから施井氏の胸にあった目標は、地の底を覗いたとしても決して変わることがなかった。
「目標っていうのは、フィクションだと思います。嘘というか思い込みというか。自分をクリエイトする。客観的に見たら『本当か?』みたいなところもありますけど、結果的にはそうなっている」
過去には一度、会社がつぶれそうになったことがある。その際、「まったくアートを辞めようとしない姿勢に感動した」と、最初の出資者からは言われたという。そこまでの強い思い、アートへの心酔は人工的なものなのか、あるいは呪いか、神の導きか。フィクションが未来の自分を創り出すのである。
自らの信じる理想を追い求める施井氏は、いつまでもアーティストでありつづける。
2018.05.14
文・引田有佳/Focus On編集部
「startbahn」はドイツ語で「滑走路」を意味する。そこには、飛び立つまでに助走を必要とするアートの滑走路を作るという思いが込められている。
私たち人間は、私を「わたし」と認識するとき、何を考えているのだろうか。何によって、自分が自分であると認識するのだろうか。何かに取り組むときには、「わたし」はどのように存在しているのだろうか。
かつて、国民性を表す風刺として、一つのエスニックジョークを耳にしたことがある。火災が起きた客船で、乗客を海に飛び込ませ避難させるために、船長はどのように世界各国の人へ案内をするか、という話である。そこで描かれる日本人像は、「みんな飛び込んでいます」という船長の言葉に従う姿であった。日本人は自らの意志ではなく、群衆の意志により行動すると考えられている。
現代の日本では多くの人が、自己の存在の意味・目的意識を持つことができておらず(佐藤, 198)、実存的なむなしさや不安感といった漠然とした気分を抱いているといわれている(堤, 194)。―大阪大学医学系研究科保健学専攻,助教,専任 辰巳有紀子
上記研究にもあるように、私たち日本人は「わたし」・「自分」を見つけられずにいる国民なのかもしれない。集団の心理に従って育てられ、自分の存在を発見することができていない日本人。集団に自分の存在意義を依存させてしまうからこそ、いつまでたっても自分固有の目的も持てず、虚しさが拭えない。私が「わたし」自身を認知し、認めてあげることができない状況が生まれている。
「自分らしく生きる」や「自分の好きなことを仕事にする」といった文脈で働き方が語られることの多くなった昨今、それぞれが「わたし」の必要性を感じているのであろう。それらの働き方への意識は、「わたし」を見つけられないことに対する日本人の危機意識の表れであるようにも思える。
それでは、どうすれば私は「わたし」を見つけられるのだろうか。自分が自分であると思えるようになるには、何が必要なのであろうか。自我の確立、アイデンティティの形成の過程に関して下記の研究がある。
アイデンティティ形成とは,自己の視点に気づき,他者の視点を内在化しながら,そこで生じた自己と他者の間の視点の食い違いを相互調整によって解決する作業であるとまとめることができる。このことを踏まえると,アイデンティティ形成の作業である探求を,次のようにとらえ直すことができるだろう。すなわち,探求は,人生の重要な選択を決定するため に,他者を考慮したり,利用したり,他者と交渉することにより問題解決していくことであるといえるのではないだろうか。―愛知学泉女子短期大学幼児教育科専任講師 杉村和美
他者との接点のなかで自分の視点をもち、自分の視点と他者の視点の違いに対して思いを馳せ、相互調整を図っていくからこそ、アイデンティティ・「自分」が見つかっていくのである。
施井氏は、他人の集合でつくられたコミュニティへの違和感と葛藤をもち、自分との距離を測っていたからこそ、自分が何者であるかを自らに問いつづけ、一歩一歩「わたし」を見出していくことができた。
「アーティスト」たる自分をあらゆる経験から強固なものとし、人生を通して見失わず向い進むことができている施井氏。その「目標だけはゆずらない」姿勢は、人生を通して生成されてきた姿であり、その姿勢が一層、施井氏が施井氏であることを支えているように思える。
施井氏の目標を失わない姿勢は、自分本来のありようや、自分の心の声から逃げないという、強い意志の表明であり、私たち人間にとってのアイデンティティ形成(「自分」の発見)において重要な要素といえるだろう。
自分が自分として生きていくために。自己がないといわれる日本人に、「施井泰平」の人生は問いかけを投げかけてくれている。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
辰巳有紀子(2004)「アイデンティティの形成過程と自己の意味・価値の探求」,『生老病死の行動科学』9,大阪大学大学院人間科学研究科臨床死生学研究室,< https://doi.org/10.18910/4577 >(参照2018-5-13).
杉村和美(1998)「青年期におけるアイデンティティの形成関係性の観点からのとらえ直し」,『発達心理学研究』9(1),日本発達心理学会,< https://doi.org/10.11201/jjdp.9.45 >(参照2018-5-13).
スタートバーン株式会社 施井泰平
代表取締役/現代美術家
1977年生まれ。東京都出身。幼少期をアメリカで生活する。多摩美術大学絵画科油画専攻を卒業後、2003年ころから「インターネットの時代のアート」をテーマに作品を発表しはじめ、ネット上のプロジェクトと並行してギャラリーや美術館など、実空間での展示も行うようになる。2007年から2011年まで東京藝術大学にて教鞭をとったのち、2014年、東京大学大学院在学中にスタートバーン株式会社を起業。美術家として活動する際の名義は泰平。Geisai#9 安藤忠雄賞、ホルベインスカラシップ奨学生など賞歴多数。