Focus On
神成大樹
株式会社BRAIN MAGIC  
代表取締役CEO
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or無知である自分を認識すれば、それだけ人は成長できる。
美術作品の流動性を高めるべく、アートとブロックチェーンが親和する世界を創造していくアマトリウム株式会社。代表取締役の丹原は、幼少期をタスマニアで過ごし、ハーバード大学では心理学・美術史を専攻していた。学業のかたわら日米でパフォーマンスアーティストとして活動し、大学を卒業する2017年にアマトリウム株式会社を設立。2018年9月には、アートに関わるあらゆるプレイヤーを巻き込みながら、新しい技術と共存し発展していく美術市場の在り方を協議していく第三者委員会「OAC(Open Art Consortium)」を設立した。アートをめぐる新たな価値体験を生み出す、丹原健翔が語る「俯瞰の大切さ」とは。
目次
空気は冷たく澄んでいて、頭上を見上げると満天の星空がそこにある。星が見下ろす広い大地は雪に覆われて、吐き出す息は白い。8月、南半球の南の島は寒かった。
日本から遠く離れ、異国の地で孤独や葛藤を抱えていた。星はすべてお見通しだと語るかのように世界を見下ろす。そして、決して手の届かない高い場所で、まぶしいくらいに輝いていた。
広い世界には、8月に雪が降る国がある。当たり前の話だ。でも、人生には経験して初めて知ることがたくさんある。ときには、生き方すら変えてしまうような経験をすることも。
つい5年ほど前のことだった。21歳、そのときはじめて自分がこの世に生まれたかのように思える出来事があった。
それまでは自分が「何でもできる」と思っていた。本当は、人を信用することすら知らなかった。誰かが決めた価値観に従い、生きてきただけだった。いまは自分がまともに生きている感覚がする。自分の足で歩いている。
過去から未来へと、歩む道はつながっていく。
1年前を振り返り、当時の自分がいかに狭い世界を見ていたかと思い知る。それは、自分の成長の証明となる。1年前より高い位置から自分を俯瞰して見ることができていれば気づくはずだ。俯瞰して見る世界は、いつだって自分に新しい感情を湧き起こさせてくれる。
自分という存在を俯瞰し、生きる世界を広げてきた、丹原の人生に迫る。
5歳のとき引っ越したタスマニアは、世界の最果ての島だった。
最果て、その言葉は誇張ではない。オーストラリアの南海岸、東の海上240キロ。1~2万年前まではオーストラリア大陸と、それよりはるか昔は南極大陸と地続きだった。南極に向かう探検家にとっては最後の物資の調達先であり、生物学者にとっては格好の研究材料となる。絶滅の危機にさらされるタスマニアデビルをはじめ、ビーチで遊ぶワラビーやペンギンたち。そこには独自の生態系が息づいている。
手つかずの大自然は身震いするほど美しく、どこか寂寥としている。19世紀、かつてタスマニアは、片道切符の重罪人が送られる「流刑の植民地」だった。流刑囚と看守たち、そしてその家族がつくりあげてきた歴史を抱く街、そこで幼い丹原は暮らしていた。
「生まれは東京の五反田です。父親が心臓外科医で勤務医だったので、けっこう転勤族で引っ越しが多くて。かつ僕が生まれたとき父はまだ26、7歳で研修医だったと思うので、そういう経緯もあって、僕が5歳くらいになるまで都内を中心に5、6回引っ越して転々としていたんです。タスマニアは、父が尊敬している医者が行くから一緒に行かないかという話で、家族で行くことになって」
はじめはオーストラリアのメルボルンに住んでから、1年も経たないうちに家族は南のタスマニア島に渡った。両親と、弟と妹が一人ずつ。丹原は3兄弟の長男だった。雄大な自然に囲まれた生活。丹原の記憶は、そのころから色濃く残る。
「結局、父は1年くらいで日本に戻らないといけなくなったんですけど、母が『私タスマニア好き』って言い出して、僕は詳しい理由もわからないままタスマニアに残ることになったんです。僕が5歳、弟が3歳、妹が0歳のとき。兄弟三人と母の4人で、逆単身赴任ですよね」
一人帰国し、京都で働きはじめた父。その後は、年に一回ほど日本に帰国し会っていた。
タスマニアにいたころの3兄弟。
母は大学の数学科を出た人で、かつてはエンジニアとして大手通信会社で働いていた。いわく、もともとやりたかったことはグラフィックデザインや服飾関係の仕事だということで、タスマニアに来てからは自身の興味関心のある分野を学ぶべく現地の短大に通っていた。
「当時は僕が家事をすることが多かったですね。料理洗濯掃除とかは僕の役目で、家庭ではそういうポジションでした」
大学に通う母に代わって、家事全般をこなす。長男として、幼い弟と妹の面倒を見る。家庭全体を見て、自然と自分の役割を担う丹原。それが大変かどうかを考えることもしなかった。生活ぶりを比較する知り合いもいないので、特に違和感を覚えることもなく、ただそんな生活を受け入れていた。仕方ない。普通とは何なのか、当時は知る由もなかった。
タスマニアに住んでいる日本人はほとんどいない。閉鎖的な島文化のなかでは、人種差別やいじめもあった。
「僕は、人を家にたとえることが多いんですけど。それは小学2年生のとき、タスマニアで毎週土曜の朝にやっているサラマンカマーケットという市場で、ホームレスのおじさんに言われたことをいまだに覚えているんです。『ヨーロッパ人はみんな入り口にドアがあって、人を入れる入れないを決めるけど、ジャップはみんな最初の部屋に入れるからな!あはは!』って」
街を見渡せば、歴史も文化も常識も、日々目に入るあらゆるものが日本とは違っていた。生まれも人種も違う。日本から遠く離れたタスマニアという土地にやって来て、みんなと違うことは当たり前のことだった。
まして誰一人まったく同じ環境で育った人はいない。ものの見方も人の数だけあることを知っていた。だから、差別やいじめが起きる。それもそうかもしれない。日本人がタスマニア人のことをよく知らないように、彼らも日本人のことをよく知らないのだ。
それぞれが違う。自分の置かれた状況を、自分の目線を離れ、一歩引いた場所から冷静に見つめていた丹原。自分という視点から抜け出して、一段高い場所から全体を見渡すことで差別も起こりうると捉えられる。なんてことはない。そういうものだから。
世の中には、そうして俯瞰して見ることによって見えてくるものがあった。幼いころから自然と身についた姿勢。それがあったからこそ、自らにない新たな視点を手にして成長を続けることができた。
タスマニアで通っていた小学校は、オーストラリアで2番目に古い歴史をもつ男子校だった。もちろん日本人は一人もいない。日本と比べると勉強は簡単で、授業以外で勉強しなくても良い成績が取れ奨学金をもらえるほどだった。
特別な秀才だったわけではない。現地の小学3年生の算数はこうだ。「54の一個上は?」「55!」、「32の一個下は?」「31!」。耳を疑ったが、冗談ではない。
「母親と『これやばくない?これって日本の保育園でちょっとやってたやつだよね』と話してたのを覚えてます。そしたら周りが『こいつは飛び級だ!』ということになって。だから、小学4年生は経験してないんです」
学校の授業がつまらない。文句を言っていたら、いつのまにか飛び級することになっていた。勉強とはこんなものだろうか。おそらく日本人が現地に行けば、誰でも飛び級できるだろう。
がちがちの理系だったと語る丹原。医者の父と、エンジニアだった母。両親の影響からか、勉強のなかでは数学が好きだった。
「両親は二人とも理系です。家族もロジックこそ正義みたいな家族で、このあいだ集まったときも、子ども3人誰が一番コスパが良かったかという話で盛り上がったんですよ。たとえば、僕は浪人していないのでその分プラスだったりとか。人生のパフォーマンスは期待値でしか出せないので、それぞれの出身大学から生涯年収とか試算して、全部定量的です。すごくドライなんですよ」
勉強し、有名大学を卒業していた両親。ただ二人とも、ほかの生き方にはあまり詳しくなかった。良い大学を出て医者になる。当然のように、それが人生で一番良い選択だと考えていた。
「医者にならないの?そうなんだ?」「教育に興味がある?あっそ」「会社に就職したいの?ふーん……」。明確に否定されることはない。けれど、暗に伝わってくるものがある。家庭内にはいつも、そんな空気があった。
「両親はあまり褒めないタイプだったので、僕はどちらかというと褒められても伸びないタイプですね」
父が心臓外科医を選んだのは、数ある専門分野のなかで、それが最も難しい診療科目の一つとされているからだった。岡山の田舎で生まれた父、父の両親はともに短大出身だったという。そこから東大に入り医者になったといえば、一人抜きんでた結果を残したと誰もが認める人生だ。
生き方に誇りをもっていた父。しかし、丹原の心には拭えない疑問があった。勉強だけしていればいいのだろうか。それが大切なことのすべてであるとも思えなかった。でも、だとしたら大切なことは一体どこにあるというのだろう。
タスマニアにて、妹と。
暗闇の中でやみくもに手を伸ばしても、その手は空を切る。どこかに探しているものがあるような気がしていたが、それは見つかっていなかった。家庭や学校、どこにいても満たされない思いがあった。渇望を埋めてくれたのは、何かに没頭することであり、悩む暇もないくらい忙殺されることだったのかもしれない。
音楽の世界が好きで、3歳のころからピアノに熱中していた。中学3年生までは本気でピアニストになろうと考えていたくらいだ。
「父がピアノが好きで、それがきっかけで始めたんです。毎日5、6時間練習したり、オーストラリアのコンクールに出場したり。当時の生活はハードでしたね。朝7~8時にピアノのレッスンがあって、8時45分に学校行って、15時半から17時くらいまで習い事の水泳。帰ってきて料理や掃除をやって、23時半から3時くらいまでは趣味でかちかちPCを触って」(深夜に入り浸っていたのは、「フォーラム」という「2ちゃんねる」のようなネット掲示板)
習い事も家事も趣味も、あらゆることを目にしていたかった。朝はあまりの眠気で死にたくなるほどしんどくなる。それでも、知らない世界への好奇心は丹原の行動を止めることはなかった。
「比べるものが無かった、そういうものだと思ってたんですね。時間を持て余して選択肢があればあるほど不幸せになるというか。だから中3で帰国してから、週7で厳しい塾に通っていたときもあんまりしんどくなくて」
差別や親の教育、幼いころの環境には甘やかされない厳しさがあり、人に頼ることを知らなかった。息つく暇もないからこそ、誰かと何かを考えることもなかった。だからこそ、誰かとの心のつながりや、信頼の形を知らなかったのかもしれない。
自分の世界に熱中していくと、心は満たされた。選択肢もないから安心していられる。けれどタスマニアの中学時代、気づけば、一人も友達がいなかった。オタクだったと、丹原は振り返る。
当時は、インターネットのオタクコミュニティで知り合った人たちから薦められ、日本のアニメもたくさん見はじめた。そこで描かれていたのは、いわゆる日本の同年代の生活や青春や価値観だ。丹原にとっては、どれも初めてきちんと向き合うものばかりだった。
家事やピアノの習い事など、毎日忙しくしていることが普通だと思っていた。キャラクターたちが楽しむ何気ない日々や、サボることが許されている風景。そんな日常を見て、羨ましさも覚えた。
「タスマニアにいた7、8年目からは、日本に帰りたいって気持ちをもつようになりました。もちろん、現実はアニメとは違いますけど……ただただ日常の中での人の出会いや出来事に一喜一憂しているような、理論や合理性では語れないエモーショナルな価値に共感する経験をしました」
人生の幸せは、勉強の先だけにあるわけではない。まして正解不正解がすべてではない。人間にとって大切なものは論理だけで語られるものではないはずだ。
そこには、親から離れる意識もあったかもしれない。音楽やストーリーやアニメーションは、何気ない日常にもささいな幸せがあることを教えてくれた。カルチャーはいつも丹原の心を救ってくれるものであり、大切なことに気づかせてくれるものだった。
日本で行きたい中学校がある。言い出したのは弟だった。タスマニアで勉強し、大阪にあるその学校を受験する。無事合格した弟とともに、家族は帰国した。丹原が中学3年生のときだった。
苦労しなかったタスマニアの勉強から一転、日本の中学校では困難が待ち受けていた。
「タスマニアは、あまり学校の外で勉強するようなところじゃないんですね。授業を聞くだけで、テストって満点取れるものだと思っていたんです」
そもそも試験のために勉強するという概念がなかった。
日本では当たり前だが、タスマニアではありえない。試験を受けないと学校に入れないということも、受験に失敗すると中卒になるということも初めて知った。「落ちたら『社会の底辺』だ」と親は言ってくる。こっちは日本語すら怪しい状況だ。もしも落ちたら、人生が終わる。丹原は焦っていた。
一人で勉強するには限界がある。親に頼んで入れてもらったのは、毎年難関高校への合格者を多数輩出する有名進学塾だった。ここに通えばさすがに受かるだろう。
安心を得たのもつかの間、進学実績の裏には理由があった。そこではテストの点数が低いと竹刀が飛んでくる。もはや恐怖でしかない。
「恐怖でしたね。優秀なやつらはへらへらしてるんですけど、僕みたいな中から下は本当にひやひやひやひや、おびえて勉強してたんですよ」
問題用紙を裏返し、書かれた文字を必死ににらむ。毎日の授業前にはテストがあり、そこで点数が悪かった生徒は一人、また一人と呼び出される。みんながテスト直しなどをしている時間、建物の外の廊下に並ばされ、順番に竹刀でたたかれていく。「パシン……パシン……」竹刀の音は教室まで響いていた。その音はどうしてこうも胸に響いて、人を萎縮させる力があるのだろう。
「(叩かれたのは)僕は数えるほどしかないですね。基本的には授業内容の復習をやっていれば大丈夫なんです。全く知らない問題が出てきて怒られることはなくて。でも、復習ができていないと『お前昨日やった話やろ!』とか言って、ばーん!と」
特に、恐ろしかったのは漢字テストだった。たんばらけんしょう。なにせ、自分の名前すら漢字で書けなかった。竹刀で叩かれたくなくて、ときにはカンニングもした。必死に勉強するうち、たしかに成績は伸びはじめた。
当初の目標だった同志社国際高校よりも、さらに上のレベルの学校でも合格圏内に入れるのではないか。そう言われて受験したのが灘高校だった。結果は合格。振り返ってみれば、受験では得をした。
「僕が思う合格の理由としては、灘の受験問題は英語と国語が難しい。かつ社会がないんです。それって僕にとってはめっちゃメリットがあって、まず社会とかまったくわからないですし、タスマニアの歴史ならわかりますけどね。英語は難しくて、合格者平均が30~40点のなかで100点近く取れるとそれだけでメリットで。国語もできなかったんですけど、あまり差がつかない科目なので、両方おいしくて。何とか受かりましたね、ギリギリでした」
厳しい塾に週7日通い、土日も勉強詰めだった。勉強は好きではなかったが、タスマニア時代からハードなスケジュールをこなすことには慣れていた。何より「中卒」と「竹刀」の恐怖は、絶大な効果があった。結果的になんとか受験を乗り越え、それは丹原にとっても自信となっていった。
塾の友達で灘高校に合格したのは15人。高校から入学する生徒の3分の1ほどは顔見知りという状況で、入学直後から内輪な雰囲気があった。
無事に入学できたので、もう勉強はしたくない。塾も、もう十分だ。けれど、何かに向かい行動していないと耐えられなかった。その気持ちは部活に向けられはじめる。それも、部活一つでは足りなかった。
「『何かしないと』感を消費しなくちゃと、部活をとにかくたくさんしようと思って、3年間で部活に10個くらい入っていたんです。本当に勉強もしないし学校も行かずに部活やってました」
まず水泳部。タスマニア時代から10年間ほどやっていて自信があった水泳部では、高校から入学する初心者のマネジメントをした。それから生徒会の広報。バンドには3つ入って、それぞれロキノン系*のバンド音楽をカバーした。文芸部では毎年小説の同人誌を出し、模擬国連では世界大会へ。英語ディベート部では、全国大会でベスト8に入る結果を残した。
(*音楽雑誌「rockin'on」「ROCKIN'ON JAPAN」に取り上げられそうな、メディア露出が少ないインディーズなどのロックバンドを総称する語。https://www.weblio.jp/content/%E3%83%AD%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%83%B3より)
それだけでは終わらない。応援団の太鼓。演劇部の脚本担当。高3の最後にある学内の演芸大会では審査員を務めた。一時はピアニストを目指していたピアノは、日本の住宅環境では練習できなくなっていたがクラシック研究会で。マジックを勉強する「マジカル同好会」では、ピエロを究めようとしていた(ピエロを選んだのは、正直楽そうだったから)。
そうでもして、あらゆる部活に入っていたかった。そうしなければ「俯瞰」ができない。結果的に、本当に仲が良い友達はできなかったことも事実であった。それぞれに「頼れる」というレベルの友達ができるだけだった。
「あとESSですね。英語できないやつが偉そうにしててイライラしたから、僕が入って、お前できないから部長やめろってクビにして、僕が部長やってました。ほかにも、先輩に誘われて『東京合宿』っていう秘密結社をやっていました」
ごく少数の選ばれた生徒にしか、その存在を知られていない秘密の組織。そこでの経験は特に丹原に深く刻まれている。
秘密組織の構成員は、週に1回どこかの教室に消えていく。「どこに行くの?」と彼らに聞いてみるといい。答えは決まって、「ちょっと用事があるから」と適当にごまかされる。秘密は固く守られていた。
「(いまは一般公開されているんですけど、)当時、灘校に秘密結社みたいなものがあったんです。生徒会顧問と校長が公認していて、東京にいるOBに毎年会いに行くっていう合宿を企画してて、僕は2期生だったんです」
はじめは、学年でも成績上位の優秀な生徒ばかりが集められていた。OBが書いた本を読み、熱く語り合う、まさに意識の高い集まりだ。しかし、そればかりではつまらない。誰かが特例として紹介制で人を入れはじめたのが、ことの始まりだった。丹原も、そこで声をかけられ参加するようになった。勉強はしていなかったが、論理的な発言と行動で一目を置かれていた。
「一個上の友達が紹介制にするべきだと言っていて、僕も成績優秀なやつは塾とか行ってばかりでつまらないと思っていたので、次の年、僕が代表になったときに全部変えたんです。その代わり、新しく入る人の面接をするようにして。そのプロセスを『自己紹介』と呼んで、3時間くらいみんなの前で面接のようなものを受けてもらうことにしたんです」
円形に並べられた机の席に座ると、その真ん中で一人がぽつりと自己紹介をはじめる。面接と称したその時間は、言葉の戦争といえた。「私は核兵器を廃止したいんです」と自己紹介がはじまれば、「核兵器はだめで、銃はいいの?」と返ってくる。揚げ足取りのゲームである。詭弁ばかりが飛び交い、なかには泣き出す人もいる。
それが秘密結社の全容である。お互いそんな時間を経ていくと、不思議と友情が芽生えてくるものだった。
ただ本を読むよりも面白い。あらゆる角度から、その人にフォーカスする。心をさらけ出しあい、結果的に仲良くなった。そこでのつながりは、いまでも親交があるほど得難い絆となっている。
さまざまな部活を率いたり、秘密結社でも代表を務めた。当時は偉そうにしていたと語る丹原。代表を務めていたのも、そんなキャラクターが関係していたのかもしれない。
「ロジックで自分を完璧に武装して、何でもできる、アルマダ*状態でしたね。それこそ黒歴史なんですけど、だんだん調子に乗りはじめちゃうんですよ(*16世紀、全盛期のスペインが編成した無敵艦隊)」
無敵の艦隊のように、ロジックで武装した自分。どんな意見も論理で跳ね返す。「相談がある」と自分の話を持ち掛けたところで、実のところそれは相談ではない。自分の答えは決まっていて、それを論理で覆し合う攻防戦だった。
向かうところ敵なし。学校の勉強なんてくだらない、どこか本気でそう思っていた。当時は特に、勉強ができる人への反感を抱いていた。
「塾しか行ってないやつって教養がないと思っていたんです。教養がないやつはくそだと(笑)。音楽とか本とかアートとか、いわゆる点数を取ること以外の知識って、すごく大事だと思います。いまでも思ってますけどね。そういうものをまったくやらずに勉強していたら、受験のあと何にもないじゃんと思ってて」
勉強だけでなく、もっと広く教養を身に付けることが大切だ。それこそが人間の価値であるはずだ。全体を見ずに、個人の小さな目線から抜け出せない状態でいるのは昔から嫌いだった。たとえば、日常他人に迷惑をかけていることに気づかない人。本人は気づかないまま、周囲の人には嫌だと思われている。全体像が見えていないことこそ恥ずかしく、何より一番怖かった。
「僕は文化祭が嫌いだったタイプです。文化祭って、高校3年間でもけっこう大きなチャプターじゃないですか。それぞれの人生レベルの物語が全部展開していて、それを見切れないことにパニックになるんです。部活もたぶんそうで、あらゆるコミュニティの物語を知らない怖さがありました」
俯瞰していなかった自分に気づいたときの、自らの無知に対する恥ずかしさ。それを人から指摘されるリスク。すべてを試さないと選択したくない。だから部活もたくさん入っていたのだろう。
それまでの自分より一段高い場所から振り返り、過去の自分を恥じる。だからこそ、人は成長していくと丹原は語る。
俯瞰することの価値はそれだけではない。まだ知らない世界で、新たな価値を手にする。俯瞰がそれを可能にする。
たとえば、ノイズ音楽もそうだった。
「『非常階段』というバンドが好きなんです。大学のころ、彼らの音楽を流すラジオ番組をやっていたんですけど。おもちゃのピアノを壊してアンプ繋いで爆発したときの音とかが収録されていて、そういう実験的なのが面白くて」
1979年、一つのバンドが音楽界に衝撃をもたらした。JOJO広重と頭士奈生樹により結成されたそのバンドは、世界初のノイズ音楽という一ジャンルを確立し、多くの人にとっては理解不能な音を届けた。もともと音楽は好きだった。偶然SNSの音楽コミュニティで見知って以来、たまらなく騒々しいその世界に魅了されてきた。
「コントロールしていないところが良いと思うんですね。自然な話だと思っていて、自分がメタになれば作品というか概念としてまとめられる。たとえば、雑音が含む価値を一回メタでとらえられるようにする。その感覚があるかないかってすごく大事だと思っています」
いつもの通り聴いてみれば、ただの雑音にしか聴こえない。それが音楽といえるのかどうかへの疑いをかけてしまう。しかしそれでは、そのものの価値がわかったとは言えない。いつもの感覚で音楽を聴くのではなく、俯瞰して聴いてみることで、「こんな意味があるのか」とその音に価値を感じられる。
アートの世界でも同じことが起きる。ぐちゃぐちゃで「私でも描けるだろう」と思ってしまう、落書きのように見える絵にも数千万円の値がつくことがある。こんなもの自分でもつくれると思ってしまうこと。それは、自分の目線から抜け出せていないから起こることなのである。メタ視点で見えていないからこそ起きるのだろうと丹原は語る。
ただのぐちゃぐちゃの落書きにしか見えなかった絵を、メタな視点から俯瞰することで新たな価値が見えてくる。そこに価値を見いだせない人にとっては、本当になんの価値もないと思うものにさえ、俯瞰は価値を見つける力を与えてくれる。
音楽もアートも自分の成長も、世の中の事象すべてが同じことの連続である。いまの自分の目線から抜け出さなくては見えてこない景色がこの世には存在する。
俯瞰することの大切さ。俯瞰するほどに目の前の世界は広がっていき、人は成長していく。丹原はそう信じ、実感をもって生きていた。
「東大なんて何もしなくても受かるだろう」「タスマニアで英語を学び、塾にも通わせてやっただろう」。父には幼いころからそう言われて育ってきた。
しかしどうやら、現実は違っていた。高3になり受けた模試では、東大はB判定。勉強ばかりだと見下してきた塾通いの同級生はA判定だった。
もしかしたら東大は落ちるかもしれない。部活に夢中で、勉強してこなかったツケが回ってきたようだった。
親からは、東大以上の学費は払わないとも言われていた。
何か手はないだろうか。調べてみると、ハーバード・イェール・プリンストンの3大学であれば、合格してから親の経済状況に合わせ学費を決めてくれる制度がある。受験に向けて、がぜんやる気が湧いてきた。
「海外の大学は課外活動で評価してくれることを聞いてたので、受けてみるかくらいのノリで受けたんです」
英語のエッセイコンテストでの入賞など、勉強以外で実績を積み重ねてきた丹原。東大がだめでも、ハーバードであれば親も文句を言わないだろうと思案をし受験を決めた。1年後、無事にハーバード大学へ合格し、丹原はアメリカへ渡った。
ハーバード入学後は、心理学を学ぼうと考えていた。
「心理学や教育がすごく好きで。既存の教育って経験則で決まっているというか、定量的な理由で決まっていないところがあるなと思っていて、心理学とか定量的なもので教育を見たかった。いずれは教授になりたいと、大学1年のときは思っていたんです」
タスマニアと日本、対極にある二つの教育を見てきたからこそ、その違いがよくわかる。
一般的にもよく言われるように、日本の教育は一方通行であることが多い。生徒はひたすら机に向かい、一つの決められた正解にいかにたどり着くかを重視する。一方タスマニアでは、そもそもの学力が低く、正解不正解は重要ではない。その分、アートなどの授業に多くの時間が割かれていた。
日本人の方が、確かに勉強ができる。しかし、タスマニアの人たちが人間的に劣っているとも思わなかった。机上の勉強だけに人の価値があるわけではない。人が育っていく過程にある教育には、どのような理論的な背景があるのかを知りたかった。
心理学や教育への興味をもっと深めたい。丹原の思いは強く、高校時代アルバイトしていた幼稚園では、本来アシスタントとして採用されたはずが、音楽の先生を務めるほどだった。
ハーバード大学1年目、がちがちの理系だった。
世界最高峰の頭脳が集う場所。ハーバード大学には期待をしていた。けれど入学してみると、理想と現実は違っていた。
「高校くらいから自分の生きる目標にしているのが、毎年振り返って、1年前の自分と現在の自分が別人になっているかと、いつも考えるんです。高校のころはけっこう何もしなくても、1年で別の自分になるんですよ。でも、だんだん大人になるとそういう機会は少なくなっていくと思っていて、自分から経験していかないと変わらない。ハーバードって海外だし人も違うし、環境も全然違うし、間違いなく変わると思っていたら、1年後まったく変わっていなかったので『やっべえ』と思って」
1年前の自分を振り返り、同じ人ではないと言えることが成長のあかしである。それこそが価値であると考えてきた。
たとえば世の中をこう変えたいと、意識を高くもっていたとする。1年後振り返ると、なんて小さいことを見ていたのだろう、なんて全体像が見えていなかったのだろうと恥ずかしくなる。単純に経験や知識の量ではなく、思想的な変化に痛みを覚える。それはまさに、自分と世の中を俯瞰することによって見えてくるものだった。
ただし、いまの自分には変化がない。ハーバードに来ただけでどうにかなると思ってしまっている。
「結局、環境が良くないんだと思って。俗世的なレベルでの環境の変化でしかなかったなと思って。学歴とかアメリカとか、そういうキーワードでしか環境の変化がなかった。ほんとの環境変化っていうのは、そもそも自分の思想の土台になっているような価値観の限界から抜けないとだめだと思ったんです」
灘もハーバードも、その選択には少なからず親の影響があった。いや、ほとんど親の影響だったのかもしれない。親の価値観に疑問をもちながらも、結局のところ、そこから抜けだせていなかったのは自分のせいだった。
授業も積極的に受け、単位も早めに取りきった。でも、成長はしていない。結局、ハーバードとは自分にとって、どんな意味があったのだろう。
入学し1年後に気づいたことだった。海外の大学に進学し、誰にも誇れるほどの環境を手に入れたはずだった。けれど、自分から動かなければ、どんな環境でも得られる変化はたかが知れていた。
目の前に広がる世界。自分を変えてくれるような未知との出会い。自らの価値観を抜け出すような体験。1年後の自分が俯瞰したときにまったく別の人間に変化できるような経験を求めていた。何かはわからない。でも、自分の想像を超えるような、もっと知らない世界に触れていたかった。
自ら動き出さなければ、ハーバードに入っても何も変わらない。
そのための手段として選んだのが、休学という選択肢だった。
学内の木々が紅く色づき、ボストンの街を行く人がダウンコートを着出すころ。二度目の秋。ハーバード入学から、1年が経っていた。
これは一度目の休学となる。新しい自分のために何をしよう。
日本では2011年に起きた東北大震災から、ちょうど1年が経つころだった。それは偶然だろうか。いや、きっとそうではない。何かそこに呼ばれている気がしたのだ。
当時、物理的な復興は進みつつあったが、人々の心理的な復興はまだまだだといわれていた。心理学などを学んできた自分にも、人に還元できるものがあるのではないか。そんな思いもあり、丹原は帰国した。
「東北行くかと思い立って、2年生のときに休学して東北行きまして。もともとボランティアとか3カ月くらいやろうかなと思って行ったんですけど、結局2年くらいいることになっちゃって」
はじまりは、偶然インターネットで見つけたボランティアの募集だった。その団体はイスラエル発の国際NGOで、東北の震災後すぐに現地に入り、緊急物資の支援からはじまり、被災者たちの長期的な心のケアに取り組んでいた。
パレスチナ問題を抱えるイスラエルでは、社会的にトラウマを抱える人が多い。ユダヤ人を中心として、言語も人種も混在する特殊な環境で、社会心理的な文脈での臨床方法が発達し、アートセラピーなどの手法が確立されていた。丹原がボランティアをはじめたのは、同団体がそれらの手法を東北で実施しようとしているころだった。
英語を話すことができたので、まずは通訳の仕事からはじめた。そこから徐々に、支援金や助成金の申請書類を作ったり、ワークショップでイスラエル人ファシリテーターのアシスタントなどを任されるようになった。
「対象は児童館の子どもたちから看護師の方、仮設住宅の年配の方まで幅広くて。そこでいろんなアートセラピーとかミュージックセラピーとか、言語を使わないセラピーを学んでいったんです」
言語に頼らないセラピーの世界は、それまでずっと、スピリチュアルなものだと思っていた部分もあった。しかし、そこには科学的に実証された手法や効能があるということもわかってきた(なかにはスピリチュアルにやっているセラピストもいて、それは気に食わなかったのだが)。
体験してみることで、初めて知ることができる世界。未知の扉を開け、覗いているような感覚。居ても立っても居られなくなるくらいの興奮。そう、これを求めていた。
帰国してからおよそ半年ほど経ったころ、日本で国から支援金などをもらうためには、日本の団体として登録しなければならないことがわかった。そうであるならば、独立すればいい。イスラエルの団体の仲間と数人で、丹原は「JISP(一般社団法人日本イスラエイド・サポート・プログラム)」というNPO団体を立ち上げた。そこから理事として、1年半ほど働くことになる。
復興支援。
東北で、被災者の心のケアをする。ワークショップなどを実施していくなかで、さまざまな人の心に触れ、男女の心理の違いも理解した。
「東北では『忍耐が得』みたいな風土があって、我慢強さがかっこいいところがあるんですよ。心のケアのワークショップとかやると、女性の方しか来ないんです。漁師の男性の方とか『俺はそんなもの行かない』と、でもそうやって悩みを抱え込む人たちこそワークショップを受ける意味があって。心理学の認知行動療法(CBT)やカウンセリングでも、自分の気持ちを話せば話すほど楽になるということが大前提とされていて、そういうことができてない人ほど苦しむんです」
人の心は、意外と弱いものだ。他人に弱いところを見せられない人ほど、心に抱えるものは大きくなり、いつか限界が訪れる。漁師の男性。仮設住宅の運営の手伝いをしている教師。現地の医者。誰かに感情を吐露しない人たち。被災した石巻市では、一家全員が精神科医の家族の心中も起きていた。
心に大きなトラウマを抱えた人々。なかには、家族や大切な人を失い、一人で悲しみに耐え忍んできた人も大勢いる。いざ言葉にしようとしても、うまく言葉が出てこない。それは、ある意味仕方がないことなのかもしれない。
それでも、丹原が取り組んできた手法は誰しもの心を解放してきた。ドラマセラピーやミュージックセラピー、アートセラピーは、言語を使わなくても自分に起きた出来事を表現することができるものだった。
たとえば、「好きな絵を描いてください」と、震災とは関係なく自由に絵を描いてもらう。すると、ある女性は海を描くとき、青ではなく黒を選んだ。「その理由はあんなことがあったから……」と、自然と過去に触れる話が始まっていく。ただ好きな絵を描くだけという集まりが結果として、抱えていた思いを人に話すきっかけを作ることができている。それが当時、丹原たちが用いていたアートセラピーの土台にある考え方だった。
丹原の活動はさらに広がりをみせる。
「そういうワークショップを開いても、男性とか来ない人もいるので、『東北の声』というプロジェクトをやったんです。ライフストーリーインタビューという臨床心理研究に基づいたインタビュー手法で、250から300人くらいにそれぞれ2時間くらいかけてインタビューし、震災前と震災時、そして震災後の自分について話していただく。その映像を地元の図書館などにアーカイブするというプロジェクトでした」
プロジェクトには、石巻氏の副市長をはじめとする多くの人々が参加を申し出てくれた。「俺の話も聞いてくれ!」と、普段は抱えているものを話せないようなおじさんが来てくれた。「その映像で作品をつくりたい」と映画監督からのオファーもあった。たくさんの人がお互いの映像を観に集まり、感動や共感を通してコミュニティを再建していくのを感じた。
「そういうことをやるなかで、アート系ってすごく強いんだなと思って。どんなに強いロジックで手法とか言ってても、結局人が感動して、『これでもう俺は元気になった』とか言ってるのを聞くと、世の中定量化できてるものって一部的だし、定性的な次元でしか存在し得ていない大事なものも世の中にはたくさんあるなと思って。そのときに、アートっていう表現媒体に興味をもちはじめたんです」
アートのもつ可能性。ロジックを越え、人の心を動かすもの。底知れないその力を前にして、見えていたものが変わりはじめた。
当時はそれなりに稼ぐこともできていたからこそ、一時は大学を自主退学することも考えていた。しかし、定量化できないアートの世界に触れて以来、心に湧き上がる思いがあった。
それは紛れもなく、1年前の自分には持ちえなかった心のあり方だった。
アートを媒介として、自分にできることがある。もっとアートを深めたい。大学に戻り、勉強しよう。
人生ではじめて、学びを自分から選んだといえる瞬間だった。それまでは親の価値観に従い、正解とされるものを選んできただけだった。そこに本当の自分はいなかった。だからこそ、気づいたときには成長も止まっていた。
「(休学してボランティアをはじめる以前、)21歳までは全部暗黒でした。黒歴史です。消し去りたい。僕はまだ5年しかちゃんと生きてないと思っています」
親の指標に従っていれば、勝手に成長するだろう。望む人生が手に入るだろう。いつのまにか刷り込まれていた考えは間違いだった。自分自身で思考し行動し、自分自身でつかんだ世界。それより以前の人生は、すべて黒歴史だ。黒く塗りつぶしてしまいたいほど恥ずかしい。
外的要素からの判断ではなく、はじめて自分自身で世界を選んだときから、自分を取り巻く世界が変わった。
いま自分は生きている。
これまでの自分を否定し、無知だった自分に気づくことができるもの。自分という存在を俯瞰できるものを求めつづけていた。ハーバードで学んだ1年は、ある意味良かったのかもしれない。東北で、自分の生きる道に気づくことができたから。
アートとの出会いが、丹原自身の声をあぶりだしてくれていた。
理事として日本でNPOを立ち上げた。
休学のことは親には話していなかった。事実が親の知るところとなったのは、帰国してから1年後、実家に学費の請求書が届かなかったためだっただろうか。それが原因で、一時は両親との仲も悪化した。
しかし、丹原の立ち上げたNPOの活動がNHKなどメディアに取り上げられるようになってからは、ある程度認めてもらえるようになっていた。
ボストンの街。レンガ造りの建物と、緑の芝の広い広い庭。アートを学ぶため、荘厳なハーバード大学のキャンパスに戻って来た。
大学1年生のとき、すでに卒業単位はほとんど取り終えていた。おかげで復学後は、自由に授業を選択することができた。美術史やアートに関連する分野を学びはじめる。
するとそれが、どうも難しい。
「理系は簡単だと思うんですよ、僕は。ルールがあって、それに従って動くだけなんで。正解か正解じゃないかも見たらわかるので。アートってそういうわけにいかないですし、まして美術史は歴史も入ってくるし、かつ政治や経済、当時の社会情勢など複雑な情報が入って来て。それを体系的にとらえるとなると、これまでのやり方では通用しなくて……」
驚きや新鮮な感覚の連続だった。定量的には測ることができない。俯瞰してみなければ、正解もわからない。いままでの価値観を越えていかなければ、それを究めることは到底できない。
アートの世界をもっともっと俯瞰し探求したい。丹原は、自らアートを実践することを求め、パフォーマンスアーティスト*として活動をはじめた(*芸術家自身の身体が作品を構成し、作品のテーマになる芸術のこと。また、特定の場所や時間における、ある個人や集団の「動き」が作品を構成する芸術の一分野。https://ja.wikipedia.org/?curid=429715より)。
「もともと心理学をやりたかった根底にも、人の心理を理解したかった、この状況でこうなったらどうなるんだろうということを、自分で実験してみたかったところがあって」
心理学とは違う面白さ。いや、それを越える面白さがあった。次から次へと、自分の理解を超えるものが迫ってくるアート。反対に、心理学研究では一つのテーマを論文にまとめるのにも、かなりの時間がかかる様子を目にしていた。
「知り合いでコロンビア大学の准教授になった人がいるんですけど、その人の研究成果が、『ルイ・ヴィトンとかグッチとかエルメスといったお店に、Tシャツサンダル半ズボンとかで行くと、逆にすごいと思われてめっちゃ相手にされる』っていう論文を出してるんですよ。面白いじゃないですか。でも、その論文出すのに7年間かけてるんですよね。7年間って人生の10何分の1とかじゃないですか。面白いけど、そんなの1回Tシャツ着て行けばわかるじゃないですか(笑)」
高級ブランド店に行くときは、おしゃれし過ぎると背伸びしているように見られるので、逆にチャラいくらいが良い。それを、7年の歳月をかけ定量的に研究分析した論文だった。たしかに面白い。でも、それは限られた自分の人生でやる価値のあることだろうか。
「何かを究めるのって、0から10のうち、10が究めてる状態だとしたら、おそらく8までって、2~3年でできるんですよ。あとの9~10が30年40年かかるものだと僕は思ってるんですけど、だったら絶対8をたくさん集めた方がお得だと思ってるところがあって」
東北でのボランティアも心理学も、8~9まで究めた手応えを感じていた。それに、心理学は10まで時間がかかる。「次はアートだ!」と、当時丹原はそう確信していた。そこから4~5年が経ち、アートの深淵を覗いてきたつもりだ。それでも究められたのは、いまだ3~4くらいだろうか。けれど、それが面白いと思える。
「結局、自分の納得のためにしかやりたくない。一つのことに長く時間を割く心理学にも興味がなかったので、だったらアートの文脈で人を動かしたりする方が僕は楽しいんだろうなと思って。それで美術史を学びはじめたら難しくて、『究めたい』ってなって、がっと入っていきました」
知らないからこそ知りたくなる。分からないこそ分かりたくなる。
昔から、無知でいることが恥ずかしかった。1年後過去の自分を振り返るたび、無知だった自分に気がつきそれを恥じてきた。だから、興味がある分野は何事も追求する。それが当然だった。
実際に自分でやってみなければわからないこと。批評しているだけでは見えない世界がある。アートを始める以前から、興味があることは自ら実践してきた。
たとえば昔から、本を読むことが好きだった。小学生のころ、タスマニアの図書館には足しげく通い詰めた。ちょうど全世界で一世を風靡していた『ハリー・ポッター』シリーズは特に夢中になっていた。
幼少期を海外で過ごし、日本語や漢字を学んだのも本からだった。物語に入り込むだけでなく、その世界観を体感させる文体や言い回し、言葉の使い方といったものにも自然と目を向いた。一冊の本を手に取り、ページをめくる。そのたびごとに異なる読書体験が広がっていく。それが生み出される仕組みや背景は何なのか、ひも解いていくのが面白かった。
研究を重ねるうち、高校生になるころにはmixi上で小説を書いていた。自らストーリーを生み出し、いかにかっこいい文章で表現できるかを突き詰めた。
「純文学系の何とも言えない、痛い小説書いてましたね。承認欲とか顕示欲もあったと思いますけど、それをやってるなかで新しい言葉を覚えたり、使ってみようとか。やっぱりダサい文章書いたら恥ずかしいので。当時ガラケーで青空文庫*とか使って名作とされる日本文学を一通り読みました。高校1年のときは偏差値30くらいだったんですけど、最終的に偏差値55くらいになっていて、それは全部mixiとか本のおかげだと思いますね(*著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館のこと。https://ja.wikipedia.org/?curid=286048より)」
自ら実践してみることで、興味がある世界をさらに深めていくことができる。俯瞰することができる。やってみることで見えてくるものがあった。
同じように、大学1年のときは地下アイドルにハマっていた。
長いあいだ毛嫌いしてきたジャンルだけに、もともとはアイドルについて何も知らなかった。何も知らない、それなのに訳知り顔でアイドルを否定する。そんな自分を認識した瞬間、ダサくはないかと思いはじめた。何の分野であったとしても、無知な自分は恥ずかしい。
偏見という色眼鏡を外し、いっそのこと本気で向き合ってやろう。高校3年の終わり、意を決して向き合った。
結果、アイドルオタクになってしまった。
「まずは『AKB48』から、半年後には『ももいろクローバーZ』にはまって。そこからツイッターなどを通してアイドル文化のアンダーグラウンドを知りはじめ、最終的には友達に言えないような種類の地下アイドルを毎日観に行ってましたね」
スポットライトに照らされるステージ、そこで輝く彼女たちを夢中で追いかけた。気づけば、心から熱狂していた自分がいた。熱狂の理由は、「アイドル」という名の一つのカルチャーの奔流が見えていたからだった。そういえば昔から、時代のなかのカルチャーが好きだった。
たとえば、1970年代に流行したパンク音楽は、攻撃的で強烈な音楽スタイルが特徴的だった。そこでは過激であることがかっこよく、流行の先端を走るパンク音楽もまた、どんどんと過激になっていた。しかし、1980年代、突然静かな方がパンクなのではないかと言われはじめる。それがインディーなムーブメントであり、70年台後半のポストパンクムーブメントとともに新たな時代の幕開けを意味するのだった。
「そういう時代の流れみたいものが見えるのがすごく好きで。アイドルってわずか3年間で土台のプレイヤー全部変わるんですよ、めちゃくちゃハイペースでそれが見えるのが面白い。色物アイドルがウケたら、3か月後には30組くらい同じようなグループができていて、そのスピードがアイドルはものすごく早いので面白かったですね」
長い歴史のなかで繰り返されてきた人類の営み。
19世紀後半から20世紀初頭の美術史でいえば、印象派やキュビズムがあげられる。音楽ではドビュッシー、文学ではジョゼフ・コンラッド。ニュートン力学を否定したアインシュタインも、これまでの流れを社会として否定しようとする雰囲気をまとっていた。その流れの全体像を見ていたかった。現象として面白かった。
ことアートはどこまでも深い。複合的な時代の流れのなかに身を投じても、まだまだ底が見えなさそうだ。究めていくには、人生をかけて臨むに充分価値がある。実践することで、まだ知らない世界がもっともっと見えていくだろう。そうして、丹原はその世界に没入していく。
2012年、ももいろクローバーZのライブにて。
大学3年生のとき、二度目の休学をした。日本に帰国し、半年間ほどパフォーマンスアーティストとして活動しようと考えていた。
「お金がなくて、電気代も水道代も払えなく、人と会う交通費もなかったので、結局部屋でひたすら図書館の本を読んでましたね。ミステリー小説からライトノベルまで文字列があったらなんでも手にとってました。。あとは昔読んだまま本棚でホコリをかぶっていた本を掘り出して読み返しました。村上春樹の『ねじまき島クロニクル』はベタだけど、いまでも読み返します」
主人公が行動を起こし、そこから物語が動き出す。そんな展開が小説や物語の定石だ。しかし『ねじまき島クロニクル』はそうでない。主人公が待つことで変化が起きる、数少ない本であると丹原は語る。
たとえば、公園でぼーっとしていると突然バットを持った男が現れる。そこから物語が進展していく。
「待つって大事だなと思ったんですね。環境が変化したところでどう反応するかの方が、ゼロから作るよりも絶対大事だと思ってたところがあったので、すごく共感できました」
変化の兆し。よくよく観察していなければ掴めない。それは待っているからこそ得られるものだ。そこにはまさに、俯瞰の極みがある。
たとえば、運が良いという人がいたとする。「一緒に会社を立ち上げたのは、偶然飛行機で隣に座っていた人です」という。そんな運にめぐりあえる人がうらやましいと、昔は考えていた。
しかし、よく考えてみよう。そもそも自分は飛行機で隣の人に声をかけるだろうか。運が良い人とは、結局、変化する環境のなかで、広く見通し、チャンスをつかみ取っている人のことを言うのではないだろうか。よく観察し、変化に気づき、行動を起こそう。
部屋にこもっているだけでは、結局何も変化は起こらない。思いは、自ら形にしてこそ意味がある。丹原は、部屋を飛び出しアートを通じて実践する。
パフォーマンスアーティスト時代、ボストンにて飲尿のポップアップストアを開いた。
「人への信頼」も、アートを通じてやってみることで何かを手にしたかったのかもしれない。
「パフォーマンスアーティスト時代は、僕は主に人の体液を使う作品をやってました。飲尿のポップストアとか、けっこう真面目にやった結果なんですけど。人の信頼関係とかを定量的に示すこととかって大事だと思っていて。僕が人を信頼できていないから、だから俯瞰しがちなのかもしれないですけど」
人との信頼や人間関係を定量的に示すもの、それは「儀礼」の中にあるのではないかと考えていた。たとえば、友達の定義を説明できるかと問われると難しい。家族も恋愛関係も、結婚や催し物など、さまざまな客観的事実である「儀礼」が定義に付随されている。それらを通じて、私たちは人間関係を証明しているのではないだろうか。
世界中の儀礼を調べてみると、特に宗教では、何かを食べたり口に入れるといったものが多かった。たとえばキリスト教では、「キリストの身体(肉)」としてのパンを、「キリストの血」としてのワインを口にする。人にとって、誰かの体の一部を口にすることがその人との関係を構築するものなのではないか。そこから、たどり着いた作品であった。
「最初は、東京でお風呂のお湯を飲みあう会とかやってました。お風呂のお湯って、計算してみると水槽で汗をかいてもけっこう無視できるレベルなんですよ。つまり、基本的に全部心理的なんですね。汚くないし、ちゃんと洗ってるので。だから相手の心理的な受け入れや拒否を表せるかと」
儀礼をつくっていきたい。ふわっとして形のない人間関係を、儀礼によって定義できるかという挑戦だった。自己満足でしかないかもしれない。でも、衝動があった。
血液や汗や唾液など、さまざまな体液を試した。結婚式にのぞむ新郎新婦。二人には同じ湯船につかってもらい、未来どんな家庭を築いていきたいかを語り合ってもらう。そのお湯を使ったスープを、披露宴に来てくれた人に振る舞うという作品もあった(残念ながら、前日に片方の家族から怒られ実現できなかった)。
世の中で常識とされるもの、言葉やロジックにとらわれないアートの世界では、想いを自由に表現することができる。心に湧き上がる衝動を、現実に作品として残すことができる。ときにそれは、新たな世界を見せ、人の心すら動かしていく。
海外での差別、親の教育。昔から、人の優しさや信頼といったものを無条件には信じていなかった。丹原のアーティストとしての活動の源泉にあったもの。それは、人を信用していないからこそ、人を信用したいという思いであり、アートがその思いをこの世に具現化してくれたのかもしれない。
パフォーマンスアーティストとして日本にいたころ、京都の嵐山にある屋敷で、不思議な「縁」に呼ばれたことがある。
ここでの記憶は、いまでも時折よみがえる。
舞う桜に、散るもみじ。春夏秋冬さまざまな表情をのぞかせる日本有数の観光地、京都。なかでも観光客に人気の嵐山地区では、思わず散歩したくなる竹林が生い茂る。爽やかな緑が覆う小道の途中に、その屋敷の入り口があった。
道行くものを招き入れる、木製の戸を囲う門構え。それは緑の中にあった。中へと続く道の先、建物の様子はよく見えない。入り口にはおばあさんがいて、声をかけられた。話を聞くと、奥にはフランスの著名な雑誌で紹介されたカフェがあるという。日本で過去に紹介されたのは村上春樹と、この場所のみだとも。
興味を示すと、入館料として3000円を要求された。
「『ここはVIPの人しか入れない洋館なんだけど、最近日中だけカフェやることになったんですよ』と言っていて、入館料が3000円だと。でも、入ればお茶とか出てくるよっていう話で、よくわからないけど村上春樹好きだし入ったんですよ」
なかには狩野派の屏風も飾られていて、そこそこ良い雰囲気の空間があった。店の人と雑談していると、持ってきてくれたのは店が特集された写真集。めくるページのレイアウトにどこか見覚えがあったので、後ろの方のスタッフを見てみると、そこには偶然友人の母親の名前が記載されていた。
「『あ、この人知ってますよ』と言ったら、『なんとこれは縁だわ!』って話になって。『普通オーナーと人を会わせないんだけど、ぜひ紹介しよう。これは縁だ!』って言うんです」
勢いに飲まれて連絡先を渡し、カフェをあとにする。数時間後電話かかってきた。なんでもオーナーが特別に会ってくれるという。
しかし、次の日は東京に帰ることになっていた。伝えると、今すぐ教える番号に電話してほしいという。よくわからないまま、慌てて指定された番号にかける。電話口には、おじさんが出た。誰かは聞かされていなかった。
「『私がオーナーだ』と、よくわからないおじさんが出て。明日から東京に行くって言ったら、『ちょうど私も明日東京だ。ホテルニューオータニの何とかラウンジで会おう』と言われたんです」
誰かもわからぬ誰かに会えることが嬉しくて、店のおばさんに電話した。「良かったじゃない」と喜んでくれた。そうそう会える人じゃない。そうだ、これは縁なのだ。
なんでもそのオーナーに会うために、先日、さる海外の大手企業の代表も100万円支払ったという。「あなたは特別に3万円でいい」と言われ、一瞬固まる。流れ的に断る余地はない。
そんなにすごい人ならば、きっと寛大な心をもっているだろう。見ず知らずの若者から搾取するはずがない。オーナーの寛大な心に期待することにして、親から借りた万一の保険としての3万円を携えながら、丹原は指定されたホテルに向かう。
由緒あるホテルの前に、場違いな自分が一人立っている。各界の要人を迎え入れるために造られたのだろう。豪華なエントランスをくぐると、鼠色のドレスを着たおばさんが二人、両脇に立っていた。粛々と通される。「3万円を」まさか本当に取られるとは思っていなかった。
ラウンジの真ん中に、誰かが座っていた。オーナーと呼ばれるその男性も、鼠色の服を着ている。「帰納的ねずみ講」なのだろうか。
「何のためにここへ来たのか」と、その人は問う。「いや、呼ばれたから来ただけです」という言葉は、とっさに飲み込んだ。どんな状況なのか、自分でもさっぱりわかっていなかった。
「3万円払ったし、とりあえずわからないから悩み相談しようと思って、『何やりたいかわからないんですよね』みたいな話をしたんですよ」
「お前は、全国のコンビニを回ってあらゆる商品を集めようとしている。ただそれじゃ一生、ルイ・ヴィトンのバックとは出会わないぞ!」と、オーナーは言い放つ。唐突な話だが、妙に腑に落ちてしまった。
たしかに自分はいろいろなことを思うがままに体験してきたが、これだというものをまだ見つけることができず焦っていた。もしかしたら彼の言うようにこのままいろいろなことをしていても、探し求めるものは見つからないのではないかと、彼の言葉にドキッとした。
これは縁だと、その人も言う。話は核心に迫っているようだった。「お前にはメンターか、導いてくれる人が必要だ」と。誰がとは言われていないが、どんな人がいいのかと一応聞いてみた。「特別に私がなってもいい」
彼らの目的はよくわからない。わからないが、流れに身を任せるしかないような気がしていたのだ。「お願いします」と答えると、来週とある場所に来るようにと指定された。また3万円支払わなければならないのだろうか。不安が顔に出ていたかもしれない。心を読まれたかのように「3万円は払わなくていいから」と言ってきた。
「その瞬間に、それまでロジックの壁でアルマダを作ってたところを、よくわからないものでバーン!と壊された感じになって(笑)。やっぱりスピリチュアルってけっこう強いなと思って。一週間のあいだ、どうしたらいいかわからないから初めて人に悩み相談をしたんですよ」
誰もが「辞めた方がいい」と説得してくれた。けれど、わからないものに対する好奇心が強すぎて、入ってみてもいいのではとも思えていた。「入ったらもう友達やめるからな」と親友は言う。根拠のない否定が一番堪えた。たしかに、それはいやだ。でも……。
考えれば考えるほどわからなくなる。その怪しい団体は、新興宗教のようではなかったし、オーナーと名乗る人物をネットで調べると上場企業の社長であるようだった。誰の言葉を信じるべきか。考えていると何も手につかなくなってくる。
負けた気持ちになるのが嫌だったので、入るという体で話だけ聞きに行くことにした。
1週間ぶりに対面するオーナー。詳細を聞くと、形上の面接に10万円、毎月のゼミに20万円必要だという。蓋を開けてみれば、合計、月30万円だ。
「それで見えたというか、からくりが理解できたんですよ。スキームが分かってやっと生きた心地になりました」
月30万円払うなら、もっと良いことがある。話を断り帰ろうとすると、必死に引き留めてきた。勝った……。満足しながら、丹原は帰路についた。
半年後、ニュース番組で、鼠色の服を着たオーナーの姿を見た。アナウンサーの口ぶりは無機質だった。「嵐山の怪しい場所で詐欺まがいのことをしているとして、男性が逮捕されました」
ここで数奇な物語はエンディングを迎える。
「3万円はいい勉強料でした。言うまでもなく、人に悩み相談するとか大事だなと思いましたし。そこで僕は俯瞰の問題も見えたというか、結局俯瞰とかしてると、他人に俯瞰されないんですよね。他人に俯瞰されないと、見えないものってたくさんあるなと思ったんです」
たとえば、人間が地球の環境問題を考え出したのは、地球を俯瞰し、一つの惑星としての地球を認識したあとのことだ。それまで無限に続くと思われていた大地から、地球という存在を認めた瞬間に、人は地球環境や温暖化について思いをめぐらせるようになった。
相手を俯瞰してばかりいると、誰も自分の温暖化のことは考えてはくれない。
心の変化は大きかった。人や物事を俯瞰することを重視して生きてきた。たしかに物事を理解することにおいては、俯瞰する視点も必要だし意味がある。しかし、それでは見えてこないものもある。
いまでは自分が俯瞰されることを大切にするようになった。それにより、自分の弱い部分も人に見せられるようになってきた。
「俯瞰されるというのは、人に身を託すというか信用することだと思います。これ変じゃないかなと思っても、『わかった。理由とか置いといて、あなたが言うから信じよう』と言えること。僕もまだまだできてないです。それをいま課題としてやっていますね」
人を家にたとえるとするならば、大きく2種類の家があると丹原は語る。一つは入り口で客を選んで、入れた客にはすべての部屋を見せてあげる家。もう一つは、全員を応接間に入れるものの、奥にあるプライベートの部屋には誰一人として入れない家だ。
人それぞれの部屋の形がある。丹原の家では、奥に誰も入れないプライベートルームがあった。その部屋の前にあったのは大きなロジックの壁だった。壁を作ることに必死になっていて、部屋の中身はぐちゃぐちゃで脆かった。崩れそうな自分がいたことに気がついた。
「強い靴を履けばどこでも歩けるよねって話があるとしたら、もっと強いのは、靴を履かなくても足硬いやつじゃないですか。足硬いやつって、やっぱり柔らかいときから少しずつ硬くなってきたわけだし、そういう経験をしないと本当の意味での強さにはならないんだと思ったんです」
アートや嵐山の宗教。スピリチュアルな世界と対峙したとき、人生ではじめて自分の靴に穴が開いたようだった。人を信用せず、自分を守ろうと築いてきたロジックの厚い壁を容赦なく壊された。結果的に、自分自身が人に俯瞰されることの価値を知ることができた。それ以来、自分をさらけ出し批判されることに向き合うようになったと丹原は語る。
人に相談し、俯瞰してもらうことで、その人の視点だからこそ見えてくるものがある。自分以外の視点を信じる。人を信用するということはどういうことなのか。嵐山の竹林での出会いからはじまる流れの中で、丹原は学んでいた。
アート領域での起業を意識しはじめたのは、休学中に東北でのボランティアをしていたときに遡る。若手アーティストたちとの出会いがきっかけだった。
アートセラピーなどを活用し、NPOとして被災地を支援していく。そのなかで、アーティストを巻き込んでいけないだろうかと、丹原は考えていた。
団体のロゴや名刺など、ブランディング全体を美大の授業の題材として扱ってもらうことはできないか。武蔵野美術大学と交渉した結果、「ソーシャルアート」すなわち東北を支援するデザインという文脈で、授業のなかで扱ってもらえることになった。
「その学生のチームに東北に来てもらって一緒に仕事をするなかで、アーティストとか美大生って面白いなぁと思ったし、彼らも面白がってくれたんです」
人生で初めて出会ったアーティストという人々。一緒にプロジェクトを進めるなかで意気投合し、彼らの大学に遊びに行くようにもなった。そこで仲良くなったコミュニティとは、いまでも仲が良い。彼らと話していると面白かったし、何より衝撃を受けた。
それは彼らと自分、その学び方の違いにあった。
たとえば授業で、日本のワインのブランディングをするという課題がある。まずは、情報収集だろうか。当時の丹原ならそう考えた。美大生は違っていた。
日本のワインを作りたい。そのためには、ガラスについて知ることが必要だ。だから、ガラス工房に入ろう。実際に友人は、地方のガラス工房で一週間修行し、ワイングラスを作ってきたという。ゴールが先にあり学ぶ。アウトプットしたい形が先にあって、それに向けて逆算的にインプットを集めていく。
「彼らを見て思ったのは、僕はインプット型の学びをずっとやってきたけど、それだとアウトプットは先に集めたインプットに合わせて定義されると思うんですよ。アカデミアって基本そうだと思うんですよね、研究とかもいかに先行研究を踏まえて新しい切り口で事象をとらえるか。でも、アーティストたちの学びの仕方って、完全アウトプット型の学びじゃないですか。その学び方は僕は経験したことがなかったのですごく彼らの作るものを見て衝撃を受けたというか」
美術やイベント企画や起業の世界、いわゆる「0→1」といわれるもの。アウトプットを定義してから、インプットを選んでいく。これまでの自分とは真逆の考え方だった。インプットが入ってくる中で、それをいかにまとめてアウトプットするか。それではどこまで行っても「1→10」にしかならないと気づいた。
「アウトプットが先かインプットが先か。ゴールがあって、ゴールから逆算してアウトプットするスタイルと、既存のもっているインプットをまとめてアウトプットしていくスタイル。この2つって本質的に違いがあると思って。『0→1』ができる人ってすげえなと思ったんです」
何もない0の状態から、何かを生み出す価値。彼らの存在から学んだことは計り知れない。
「当時、いろんな意識高いコミュニティにも知り合いが多くて、彼らのなかで起業してるやつとかいたんですよ。でも、起業してるやつとかなんか偉そうにしてて、『俺は1から作ったぜ』とか言って。『いやお前らがこんな見下してる美大生の方が、全然アウトプットしてるぞ』とすごく思って」
アーティストの友人たちは、自分の知らない世界を知っていた。たくさんの自分の無知に気づかせてくれた、大切な存在だった。才能あふれる彼らのことを心から尊敬していた。
復興支援でのアーティストたちとの出会いから2年後、ハーバードに戻り美術史などを学ぶかたわら、自らパフォーマンスアーティストの世界に入り、強く感じたことがある。
「大学に戻って、ボストンでパフォーマンスアーティストをしていたとき感じたのですが、アメリカだと僕でも割と食っていけたんですね。アーティスト・イン・レジデンス*とか、アーティストのアシスタントとか……。それを考えたときに、僕が食っていけてるのに、僕より才能あって尊敬できると思ってるアーティストたちが、日本で食っていけないのっておかしくないかと思ったんです(*各種の芸術制作を行う人物を一定期間ある土地に招聘し、その土地に滞在しながらの作品制作を行わせる事業のこと。https://ja.wikipedia.org/?curid=1237509より)」
自分よりも才能豊かなアーティストたち。無から有を生み出し、新たな価値観を世の中に問いかける。彼らの多くが、なぜ日本では評価されないのか。
調べてみると、日本のアート市場は小さかった。業界としての仕組みを見直さなければ、現状は変えられないだろう。
ハーバードを卒業し、帰国。丹原がアマトリウム株式会社は設立したのは、2017年8月のことだった。日本の若手アーティストたちを支援したい。何ができるかは分からない。でも、何かがしたかった。
ゴールは先に決める。それから走り出せばいい。アーティストだけではない。誰だってそれができるはずなのだから。
若手アーティストのために起業する。
しかし、当時はお金がなかった。大学卒業後に帰国してから、まずは起業までの資金を貯める期間とした。働こう。
起業する2年前、ハーバード在学中に参加した「ボストン・キャリア・フォーラム」で手にしていた外資系コンサルティングファームの内定があった。
「ボスキャリが学校から10分くらいの場所でやっていて、『そんなに近いのに行かないのはもったいない』と知り合いに言われて。それもそうかと思って、30分くらいで履歴書書いて、よくわからないけど全部の会社の箱に入れてきたんですね」
だだっ広い会場に、有名企業のブースが所狭しと並んでいる。よく知らないが、ほかの学生たちはみな各企業に面接の事前応募をしているようだった。履歴書片手に立ち尽くす。どうやらそこでは「ウォークイン」という仕組みがあり、当日でも補欠的に受け付けてくれるようだった。せっかく来たので、あるだけの履歴書を置いてきた。
週末、電話がかかって来た。面接に呼ばれ話していると、思いのほか担当者と仲良くなり、インターンをさせてもらえる機会を得た。その際もらった内定を、2年間保険として持ちつづけていた。
起業前、まさにお金を必要としているタイミングである。2017年9月から翌年4月まで、8カ月ほど外資系コンサルティング会社で働き、ある程度の資金を貯めることができた。手の中に必要なものはそろっていた。あとは、やるだけだ。
2018年5月から、丹原はアマトリウム株式会社としての活動を本格的に開始した。
「もともとは倉庫業をやろうとしていて。若いアーティストって、作品が売れ残ると保管スペースがないから捨てちゃったり友達にあげちゃったりするんですよ。それはもったいないと。本来は次の作品の制作費用とかになるはずなのに。だから、都内に倉庫を無料で貸し出してあげて、代わりに倉庫に入ってるあいだは銀行みたいな感じで会社に貸し出したりとか、そういうビジネスモデルを考えたんです」
アート業界の未来を担う、若手のアーティストたち。彼らの作品制作を支援し、その才能を未来につなげるために必要な事業を考えた。
しかし、現実にはさまざまな問題があった。作品の保険や、作品設営に大きなコストがかかり、すぐにマネタイズすることは難しい。解決しなくてはならない課題が山積みであり、結局事業としてはうまくいかなかった。
「そうしたときに、大学時代に一緒に住んでいた友達が音楽の利権関係でブロックチェーンを扱っていたんですよ。そういえば、東北にいたころ知り合ったスタートバーンの施井さん(https://focuson.life/article/view/68)もやってたなと、面白い業界だなと思いはじめて。そこからブロックチェーンを活用するというところに入りはじめて」
はじめに考えたのは、ギャラリーの美術品を無償で管理する代わり、作品にまつわるデータや権利関係をブロックチェーン上に乗せるという仕組みだった。しかし、よく考えてみると、美術品を買うコレクター側にとってはブロックチェーンであることのメリットがあまりないようだった。
「そういう風に業界を見ると、ブロックチェーンってギャラリーにとってあんまりメリットがないんですよね。アーティストにとってのメリットは、還元されるとか、よく言われるんですけど。でもそのときに、ギャラリーよりもっと大事なプレイヤーいるでしょと思って、アート業界ってコレクターが一番偉いんですよ」
どんなに有名なギャラリーがあったとしても、そこで美術品を買うのはコレクターである。まずはコレクターをターゲットにしたビジネスモデルを考える必要がある。
そうであるならば、そこから考える。そもそもコレクターにとって、アートの価値とは何であるかと丹原は考えた。
たとえば海外のコレクターは、自身の死期が近づくと、倉庫に眠る作品をすべて無償で美術館に寄贈することが多いという。自分の名前の刻まれたコレクション。それが美術館で多くの人の目に触れることは、コレクターとしての価値となる。
「子どもたちが修学旅行で美術館に来て、自分の名前の入ったコレクションの絵とかをスケッチしているのを見て『ほほえましいなぁ!』とか思って、それがけっこうコレクターにとって最高の幸せなんですよ」
自分のコレクションが、誰かの人生を彩るという喜びがある。にもかかわらず、多くのコレクターたちが所有する作品が、倉庫などにしまわれたままになっている現状があることもわかった。
価値ある作品が、人知れず眠っている。それらを表に出せるような仕組みをつくることはできないか。方法を模索していた丹原。ちょうどそのころ、ビジュアルコンテンツ制作最大手であるアマナグループとの出会いをきっかけに、進む道が見えてきた。
アマナ社製の超高精細スキャナーを借り、コレクターが所有する美術品をスキャンしデジタル化する。ブロックチェーン技術により権利関係を守られたデジタル上の作品群は、専用の高画質モニターで表示することで、本物に近い形で展示される。
そうすれば、眠る作品の価値を誰かの目に触れるようによみがえらせることができる。美術館に寄贈しなくても、見ず知らずの人の日常にアートを届けることができるようになる。
「『自分が集めたものが、人の人生変えられる!』みたいな、そういうニュアンスもけっこうあるので。コレクターにとっても、『自分たちが買った作品があるからこそ、いろんな人がオフィスとか自分のスペースで絵を楽しめている』っていう価値形成をしようと、いまやってますね」
自分が集めた作品があったからこそ、誰かの人生が変わった。それが、コレクターにとっては何よりの価値となる。倉庫に眠る作品が、誰かのオフィスや自宅を充実させる。名前を顔も知らない多くの人が、その作品の鑑賞を楽しんでくれる。
アマトリウムは、コレクターにとってのアートの価値をアップデートしていく。そこには、作品をめぐる新たな意味が生まれていくだろう。
ブロックチェーンを使い、アート業界のための新しい仕組みを考える。広い視点で業界を俯瞰していくと、さまざまなアプローチから、アート業界の未来を考える人たちが見えてきた。
日本の伝統工芸を扱うサービスや、仮想通貨を使ってデジタルアートを買えるようにするマーケットプレイス。アート業界の新しい仕組みを考える旗手は、小規模のスタートアップだけでなく大手企業にも存在していた。
反面、そこにはそれぞれがお互いを食い殺してしまいかねない状況が生まれていた。
「いろいろなプレイヤーがいるなかで、お互いが食い争ってしまうような状況は避けたいと。これは実際にアメリカで起きたことで。アメリカでは『Verisart』とか『Ascribe』とか、いろいろなプレイヤーがそれぞれブロックチェーンのプラットフォームを一から作ろうとして、誰がどのアーティストを囲ってとか、そういう話になっていたんです」
ブロックチェーン、それは新しい技術の潮流だ。迫りくる新時代を前にして、プラットフォーマ―同士の覇権争いが起きてしまうのはもったいない。もっとお互いの状況を理解しながら協調し、仕組みを作るべきではないか。それこそが、真に日本のアート市場とブロックチェーンの未来を切り拓くのではないだろうかと丹原は考えた。
「そう思ったときに施井さんに電話して、『ちょっと今から飲み行きましょう』って言って。こうしましょうって言ったら、『ああいいね、俺もそうしたいと思ってた』って話になって一緒にOACをやることになったんです」
2018年9月、丹原とスタートバーンCEO施井氏を発起人として、Open Art Consortium(以下、OAC)は設立された。テクノロジーの発展や変化に伴い、国内の美術市場における活性化の機運は高まっている。
ただサービスの乱立を待つのではなく、そこで多様なステークホルダーが意見を交わすこと。協調し議論した内容を、新たな技術の利用指針や制度設計に反映することで、美術的な価値を担保するアート×ブロックチェーン市場の活性化を目指している。
「スタッフとか誰もいないし、人もいないなかで、僕がいろんな人に声をかけはじめたんですよ。そしたら、WIREDの人ともつながって、これ記事(https://wired.jp/2018/09/03/open-art-coalition/)にしようよって話になって、施井さんと対談して。同時にいまこういうことをやってるけど入りませんかっていう人を呼んで、2018年10月にキックオフをやったっていう感じですね」
2018年11月に第1回ミーティングを開催したOAC。そこでは、サービスや仕組みをつくるにあたり、事前に知っておいた方がいいような情報などがまとめられた。
「アート業界としてガイドラインを発表するっていうのが、OACの目的の一つです」
たとえば、作品を誰が所有しているか、ブロックチェーン上で特定できるようにする。アーティストにとって、あるいは文化財として作品にメリットがある。
しかし、コレクターにとっては不利益になる場合があった。
アート作品をめぐる取引では、コレクターが自分がその作品を所有していると明らかにされたくないと考える場合もある。そうすると、現実的にそのプラットフォームは使われなくなる。
「たとえばブロックチェーンでプラットフォームを作って、めちゃくちゃお金を投資して使えるようにしても、ネックがある時点で誰も使わなくなるんですよ。だからそういう状況を事前に知っておけば、たとえば情報開示をオプショナルにしてそういう人も入れるような設計ってできるよねとか。そういう情報がちゃんと集まるような場所にしていかないとっていうことを、OACとしてはやっていきます」
アート業界にブロックチェーン技術を取り入れようとするプレイヤーは、アーティストよりも、テクノロジーから入ってくる人が多いという。なかには、アート業界の慣習などをよく知らない人もいる。そうであるならば、知らないからこそ起こる、アート業界にとっての進化のジレンマも生まれてしまうであろう。
アートに関わるさまざまなプレイヤーが集まり、健全な市場のために議論を重ね、きちんと情報を蓄積していくこと。OACの存在は、アート業界を俯瞰した集合知としての役割を担っていく。
現実の情報をブロックチェーン上に移行していく。美術品に限らず、そこには「オラクル問題」といわれる未解決の問題があると丹原は語る。
「たとえば、僕でも『モナリザ』を自分の作品として登録することができてしまうんです」
ブロックチェーン内にある情報や取引は、内部で認証される。一方で、外部から内部に入れるときの認証は存在していない。外部から内部に入れる情報を管理認証するゲートを作ることはできない。承認のための機能を作ってしまうと、脱中央集権というブロックチェーンのメリットが失われてしまうからだ。
「それが解決しないかぎり、けっこうアート×ブロックチェーンって不可能に近いと言われてる話なんですね。でも、実はそこに関して、僕はみんなが言ってるほどの問題じゃないと思っていて。それはもう現実と同じで、結局そのコミュニティのなかで権威があるとされている人がお墨付きみたいな形でタグ付けできるような制度にしてしまえば、タグ付けによって信用度が計算できる。現実世界の話が移行しているだけだと思っているんです」
ある人が「すばらしい」と言ったから、作品の価値が認められる。刀や昔の骨董品でも、権威ある先生が作ったという事実が、昔から一つの価値となってきた。誰かが突然「私がモナリザを作った」と主張したところで、それだけで信用されるわけではない。
それはブロックチェーンの上でも同じことである。
「現実世界でもフェイクは腐るほどありますし、プロのギャラリーだって間違えて贋作入れたりするわけで、オークションハウスとかではよくある話じゃないですか。昔の盗品が競られていたりとか。そういうことがあるから、別にブロックチェーンに限った話じゃないと思いますし、それで止まる話じゃないと思うんですね」
「ブロックチェーンは信用を完璧に担保する。次世代のテクノロジーである」。そんなイメージが先行しすぎたために、理想が実現できないとなると不安視されている。現実の世界の運用と同じように認証することによってインセンティブが入る仕組みを整えれば、それだけで現実世界と同様に市場を作ることができると丹原は考える。
丹原は、アートとともにある技術の未来を見据えている。私たちはテクノロジーに完璧を求め過ぎてはいないだろうか。
アートとブロックチェーンが親和する世界で、既存のアートの価値を進化させていくアマトリウム。2019年6月に本格的なローンチを予定する同社のサービスは、ブロックチェーン技術によって支えられている。
技術が何をもって普及とされるのか、一概に定義することは難しい。しかし、少なくとも、ブロックチェーンが当然のようにアート業界で使われるようになる未来は、5年10年先になるのではないかと丹原は語る。
「ブロックチェーンのなかに『インセンティブ設計*』という概念があって、要は関わってるプレイヤーみんなにとってWin×Winじゃないと、きっとブロックチェーンって活用されないんですよ。いまのブロックチェーンの大きな問題は、アートに限らず、全員にとってメリットがある仕組みができてないことだと僕は思っているんです(*立場の異なるプレイヤーそれぞれが自分にメリットがある行動をした結果、システム全体が上手く機能するようになされた設計のこと)」
世の中を変えうる技術でも、メリットを享受できない人にとってはわざわざ使う理由がない。すべてのプレイヤーにとってWin×Winな仕組みでなければ、アート市場におけるブロックチェーンの普及はない。
アート市場にまつわる知を集め、第三者委員会的な立場でその礎を築くOAC。そして、ブロックチェーン技術による現代アートのためのプラットフォームをサービスとして提供するスタートバーン。アマトリウムは、そこに入りづらいプレイヤーを招き入れる役割を担う。未来のアート業界の発展ため、3者の関係は切り離せない。
「僕はスタートバーンに限らず、ブロックチェーンの流れっていうのは否応なく来ると思っていて。来たときに既存の仕組みが破壊されてしまうのが一番もったいないと思うんです。既存のシステムがうまくその流れに乗れるようにすべきだというところに、僕は集中したいなと思っています」
ブロックチェーン技術をアート市場に転用する。丹原が見据えるものは、その先のステップにある。新しい技術により市場に変革がもたらされたとき、その未来に合わせ、既存の価値形成システムをアップデートすることが必要になると丹原は考える。
社会全体を俯瞰し、日本のアート業界の未来を創っていく丹原。その源泉にある望みは、あくまで純粋な思いだ。
「やっぱり一番根底は、僕が尊敬してる若手って言われるアーティストの友達とかが食っていけてる世界ですね。なんか社会を大きく変革しようみたいな欲は、あんまりないかもしれないです。そいつらが食っていけるような仕組みになればいいなと思ってやってますね」
心から尊敬し、好きな人たちがいる。若手のアーティストたちが、その才能を輝かせることができる未来。それを実現したいと願うたび、思いは強くなる。
時代は否応なく変化を遂げる。技術の進化は止まらない。それに相対する私たちは、もはやその流れを「知らない」では済まされない。既存の仕組みの良い部分は残しつつ、いかに更新していくべきかを考える。
いまだ未開拓のブロックチェーンという領域、それはまるで、タスマニアの大自然のように広大だ。俯瞰することで見えてくる道がある。丹原は挑戦をつづけていく。
ふと部屋を見渡すと、一枚の絵画が飾られている。何気なくその場に溶け込むその作品は、近づいて見ても素人目にはよくわからない。しかし、どうだろう。アートがそこにある。ただそれだけで、ありふれた日常に新鮮な感情が沸き起こってくるものだ。
多くの日本人にとって、アートに触れる体験は、いまだ非日常のなかにある。
2018年、文化庁が公表したデータによると、世界にはおよそ7兆円近いアート市場があるという。そのうち日本の市場シェアは3.6%以下。もっとも大きい米国の42%と比べると、日本のアート市場はあまりにも小さい。
両者のあいだに横たわる大きな相違。それは、米国ハーバード大学に在学中、日米でパフォーマンスアーティストとして活動してきた丹原自身、身をもって体感してきたものだった。
「なぜアートを買わないのかっていうところに対しての答えとして、ずっとみんなは『日本は家が小さい、飾るところがない』っていうことをよく言っていますけど、これは嘘で。結局、家に飾れる小さい美術品とかを売りはじめても売れてないですし。文化庁が出したレポートでは、日本人がアートを買わない理由の1位は敷居が高いからなんですよ」
作品の意味も背景も、その価値もわからない。よくわからないけれど高いもの。アートに対する一般の人のイメージはそんなものかもしれない。
なかには、手ごろな値段で買える作品もある。しかし、1万円程度で買える作品を扱うのはこじんまりした小規模なギャラリーが多い。その情報は大々的に告知されていないことが多く、たどり着くためには人づてを頼るしかない場合もある。
知られていないからこそ買われない。美術館に足しげく通うという人はいても、そもそもアートを所有するという価値観がないのだ。日本人にとってアートは、美術館で見るものなのである。
美術作品が日常的に取引され、所有され、鑑賞される未来。そんな未来に向けて、消費者の価値観を変える。ひいてはそれが、作品を世に創るアーティストのためになる。そんな思いから、アマトリウム株式会社の事業は美術作品の流動性を高めていくことを可能にする。
たとえば、同社の平面美術作品のデジタル化サービスは、コレクターが所蔵する美術品を超高精細スキャナーを用いてデジタル化する。データ化されたコレクションはブロックチェーンデータベースに登録され、所有権を安全に守られながら、法人のオフィスや自宅に貸し出され、専用の高画質モニターにより展示される。
それまでコレクターの倉庫にただ眠るしかなかった作品たちは、移動や管理にかかるコストから解放され、多くの人の目に触れるようになる。そこには、美術作品をめぐる新たな価値体験が生まれていく。
「作品の価値って2種類あると思っていて、一つは1点ものを持っているとかいう特別感の価値だったり、もっと思想的な哲学的な部分で言うと、『作品のアウラ*』とか『アーティストの痕跡』とか、そういうニュアンスだと思うんですけど。それとまた別で、意外とライトなアート愛好家の人にとっては視覚的にきれいとか、そのレベルで価値があるんですよね(*機械的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になった時代において、オリジナルの作品から失われる「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威のこと。http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9より)」
2種類の価値は両立しうると、丹原は語る。作品の所有者にとっての1点ものの価値をブロックチェーン技術により担保しつつ、デジタル化して貸し出すことで、作品としての流動性を上げていく。
一人でも多くの人の日常に、アートとの接点を生み出す。それにより、アーティストにとっては自身と作品の価値を向上させる機会が創出される。
日本のアート市場をめぐる既存の仕組み全体をアップデートしていく同社。人々の日常のなかにアートがある世界。それにより、アーティストの活躍の場が広がっていく。アマトリウムが描く未来が、それを可能にする。
2018年11月にkudan houseで丹原がキュレーターを務めた展覧会「九段の地霊(ゲニウス・ロキ)と日本庭園の和(ハーモニー)」。
どこかのお金持ちが数億円で美術品を落札した。そんなニュースを目にする機会がたまにある。
日本ではまだ、富裕層においても、アートに親しんでいる人は多くはない。それはときに「教養」の文脈で語られている。
「最近は教養としてのアートがビジネスの感性を鍛える、といった話がメディアで取り上げられたり国内のアート熱は上がっているのですが、アートが話題性を持つことは嬉しい反面、教養としてのアートは美術館に通うこと止まりだと思っていて。ニューヨークが世界の中心になったのは投資や資本としてのアート、つまり購入するアートが富裕層の中で広まったからなのです。極端な話、『アートを買ったら儲かるよ』って仕組みについて語るべきだと僕は思っているんです」
アート売買は株式投資とほぼ等しい、それがアートは儲かるといわれるゆえんである。たとえば、地位が確立されたアーティストの作品を買うとしたらAppleの株を買うようなものであり、若手アーティストの作品を買うならユニコーンを狙う新興企業の株を買うようなものである。
しかし、アート売買と株式投資には、決定的に違う点があると丹原は語る。
「一番大きな違いは、インサイダー取引が合法なんですよ、アート市場。でっかい展覧会やアートフェアに出るとわかったら、間違いなく価値は上がるんですよ。ヴェネチア国際ビエンナーレ出るっていったら、価値は上がるんです。かつ、バンクシー*のようにちょっと事件とかあっても、むしろ話題性で価値上がったりしちゃいますし、株式と違ってなかなか価値は下がらない(*イギリスのロンドンを中心に活動する覆面芸術家。社会風刺的グラフィティアート、ストリートアートを世界各地にゲリラ的に描くという手法を取る。2018年10月にサザビーズでバンクシーの作品が落札された瞬間作品が額縁に仕込まれたシュレッダーで破壊されるパフォーマンスで最近話題に。https://ja.wikipedia.org/?curid=676569より)」
国際的な展覧会へと出展したり、アーティスト本人が亡くなると、作品の価値は高確率で上がる。アート売買を通じて作品を長期的に保有することのメリットは、長期株式投資にも劣らないものだといえる。
「『HNWI*』っていう裕福さの指標があるんですけど、国別のHNWIとその国のアート市場規模って相関関係があるって、この前見つけたんですよ。でも、日本は例外的にその相関関係がなく裕福層指数に対して美術業界が圧倒的に小さい(*100万ドル以上の投資可能な資産を保有する富裕層のこと)」
その指標を見てみると、1位はアメリカで2位が日本、3位がドイツで、4位は中国という順になるという。一方で、世界のアート市場に目を向けると、1位がアメリカで2位に中国、3位がイギリスで4位フランスというように、日本だけがトップランキングから外れる結果となっている。
「だからこそ、僕は日本はポテンシャルがあると思っていて。お金はあるし、買い手はいるから、あとは買うっていう消費者の消費行動を変えるっていうところだと思っていて。それを達成できれば、僕がアメリカで経験したようなアートに対する環境が生まれてくるかもしれません。、そういう意味で、日本のアート市場はブルーオーシャン的だと思っています」
かつて、19世紀フランスに存在した美術愛好家たち。科学の発展と自由主義に応答したアーティストらとともに、美術の価値を更新しようとした彼らは、古く「amateur」と呼ばれていた。芸術と社会のあいだを自由に行き来した彼らの思いを継承する丹原。
アマトリウムはそんな現代の「amateur」の集合体(-torium)として、いまを生きるヒト・モノとアーティストをつなぎ、新たな反応を起こす触媒となる。
2018.12.27
文・引田有佳/Focus On編集部
「九段の地霊(ゲニウス・ロキ)と日本庭園の和(ハーモニー)」より、タカラマハヤ氏のインスタレーション。
人は、幼いころからさまざまな壁にぶつかっては、それを越えようと試みて次なる視点を手にしていく。それらを私たちは成長と呼んでいる。
特に、学校教育では、勉強を中心としたカリキュラムがあり、成長の過程が計画的に用意されている。
「1+1=1」からはじまり、引き算、掛け算、割り算という四則演算を基礎にして、あらゆる高次の解を導くための数式を学んでいく。次なる数式を手にしては、さらに高次の解を手にできるようになっていく。
そこでは順番が肝心である。1+1がわかるから、1×1の意味が「1を1つ集めたもの」であると理解ができる。一つ一つの理解の土台(足し算)があるからこそ、その延長線上での組み合わせを、次なる方法論(掛け算という呼び名)へと変化させていくのである。
それらは言語で処理できるものであり、さらに、自己の認識の延長線でなされている。
だからこそ、認知の世界で知能を伸ばしていくことが可能となっていく。どうしても理解できないという状況は生まれづらく、すべての人におしなべた成長を図ることができるのである。
自分の視界の延長線上にある世界への認知。それこそが知性であるというかのように、日本の学校教育、人間成長の方向性は暗示的に組まれているようにも思える。日本教育において、山を知る方法は、その山を自らの足で一歩ずつ踏みしめ登っていくことなのである。
しかし、そこで得られない重大な問題が潜むことを、教育を享受する側は知る由もない。
人間社会に照らし合わせてみたときに、「成長」というものはそれだけで語れるものではないことを多くの大人たちは知っているはずである。自らの認知の延長線上にない世界にこそ、人間が根底から変わるような飛躍的な成長があることも知っているはずである。
それを知る大人であれば、山を知るためにすることは、一歩ずつ山を歩くことだけではない。Google Earthで地図を開き、宇宙から見た山の全容をのぞむだろう。そこには、一歩ずつ足を踏み出し確認していただけでは得られない情報も含まれている。
延長線上につづく成長過程では、いまの視界から出ていくことは多くはない。自己が囚われている視点の罠にはまっていることすら気づくこともなくなる。
そうではなく、自らの視点を抜け出し、いま歩く場所を俯瞰していくからこそ、歩いてきた道が良いと言えるのか、あるいは悪いと言えるならば、どう間違っていたのかを知ることとなる。
丹原氏はそれを、言語とともに丁寧に処理していく。あらゆる言葉の表現、文章の手触りを実感し、自ら紡ぎだすことができる。それにより、自らのおかれた状況をより正確に把握していくことを可能にしている。
清河らの研究グループは,洞察問題解決における言語的振り返りの影響を検討し,言語的振り返りでも経験したことを記述的に言語化する場合にはパフォーマンスが低下するが(Kiyokawa & Nakazawa,2006),自身がとった解決方略の悪い点に焦点化した言語化を行う反省的な言語化ではパフォーマンスの向上がみられることを示した(Kiyokawa & Nakazawa,2007).―岐阜聖徳学園大学教育学部専任講師 阿部 慶賀・関西大学社会学部教授 北村 英哉
とりわけ、自らの過ちに気づくことは、どうも避けてしまう人が多いだろう。
しかし、どんなに理解できないことであっても、それはいずれ理解できるものになることを丹原氏は知っている。だから、出会ったものが未知のものであったとしても、自らの力に変えることができる。
俯瞰と言語化。この過程を繰り返すことでいずれ見えてくる世界がある。それはそれまでの価値観とも大きく異なるものであり、それまで見えていなかったものが見えてくる方法である。だからこそ、新たな道をその人に提示していく。
丹原氏が進む未来は、世界を俯瞰して見い出される道筋である。世界中の誰もが見えていない世界すら、この世のものと変え、私たちの生きる日常を変えていく。その旗手が、丹原氏なのであろう。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
阿部慶賀・北村英哉(2013)「『特集―高次認知過程における意識的,無意識的処理』編集にあたって」,『認知科学』20(3),pp.287-292,日本認知科学会,< https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/20/3/20_287/_article/-char/ja/ >(参照2018-12-26).
アマトリウム株式会社 丹原健翔
代表取締役社長/美術家
1992年生まれ。東京都出身。幼少期をオーストラリアのタスマニア州で育つ。中学3年生のとき日本に帰国。灘高校を卒業後、米国ハーバード大学にて心理学を専攻する。2011年に大学を休学し、震災後の東北でボランティアとして活動する中で、アートやアーティストの世界と出会う。復学後、日米でパフォーマンスアーティストとして活動しながら美術史を学ぶ。卒業後、2017年に帰国し、日本のアートの流動性を高めることをミッションとするアマトリウム株式会社を設立した。