目次

メンタルヘルスケアを身近なインフラに ― 誰もが自分らしい物語を生きる社会をつくる

悩みも葛藤も受け入れたとき、自分にしかできないことが見つかる。


やさしさでつながる社会をつくるべく、オンラインカウンセリング・コーチングを主軸にこれからあるべきメンタルヘルスの未来を描いていく株式会社cotree(コトリー)。同社が展開する国内最大級のカウンセリングプラットフォーム「cotree」では、臨床心理士や公認心理士など国家資格保持者をはじめとする総勢220名以上のカウンセラーと、相談者がオンラインでつながれる選択肢を提供する。


代表取締役の西岡恵子は、同志社大学法学部卒業後、森永製菓やサイバーエージェントを経て、2019年にコネヒト社にジョイン。サービス事業責任者として、ビジネスグロースからサービス戦略設計などを牽引した。大企業からベンチャーまで規模を問わない幅広い経験と、事業開発・マーケティング領域における知見をもとに、自身の原体験とも通じる領域へと携わるべく、2021年cotreeに参画。翌年、代表取締役に就任した同氏が語る「自分らしさの見つけ方」とは。





1章 cotree


1-1. やさしさでつながる社会をつくる


人生で起こるさまざまな葛藤や不安を誰かに打ち明ける。それを恥ずかしいと感じる必要はないし、まして自分を責めたりする必要はない。欧米ではより身近なカウンセリングという文化が日本にも浸透すれば、人がいかに「心」と向き合うかの選択肢が広がる。


それにより、メンタルヘルスケアを必要とする人だけでなく、心身ともに健康な人にとってもさらなるウェルビーイングにつながっていくと西岡は語る。


「人生の葛藤をスキップせず、一歩一歩踏みしめていけるようにcotree(コトリー)が伴走する。家族や友人という身近な関係性のなかでは心を打ち明けられない人もいると思うので、何かあった時に力になることができたり、駆け込めるようなサードプレイスとして、事業をつくっていけたらと思っています」


同社運営のオンラインカウンセリングを身近にするプラットフォーム「cotree」は、24時間いつでもどこでもビデオ・通話、もしくはテキストを介して登録カウンセラーに相談できるサービスだ。自分に合ったカウンセラーとのマッチングや、カウンセリング手法を選択できるなど、人それぞれ無理のない相談方法を模索できる。


一方で個人向けコーチングサービス「cotreeアセスメントコーチング」は、性格特性診断やコーチとの対話を通じて、目標の言語化から自分に合った行動計画策定などを支援。なりたい自分へ近づくことや自分らしく生きることを支援する。


いずれも現状についての解像度を高め、不調を和らげ、変容を促し、未来へ前進できるような機会を提供するものである。


「私自身も経験しているのですが、心の悩みになると途端に恥ずかしいと感じたり、それこそ誰にも助けてほしいと言えなかったり、そういった発言自体が悪いことなんじゃないかとする文化が日本にはあると思っていて。まずは否定せず認めることと、当たり前に起こりうることなんだと私たちが示唆していくことが必要だと思っています」


「心の病」という言葉があるが、それは癌などの病気のように悪い部分を取り除けば治るというものではない。そもそも悪い部分があるわけでもなく、何かを取り除かなくてはいけないわけではないし、「病」と呼ぶ必要すらないのではないかと西岡は考える。むしろ良くならないといけないと思いすぎることが、逆に苦しくなってしまうこともある。


本来、誰もが風邪のようにかかるものであり、疲れて休息が必要なタイミングは人それぞれにある。それを治すことだけにフォーカスするのではなく、自分と向き合うきっかけをつくり自分自身を肯定できるように人生自体に伴走する。


また、前に進む方法にも選択肢があることを広めるだけでなく、そういった状態に置かれた人々の理解者を増やしていく。


日本社会に必要とされている新しい支援の基盤を、国内メンタルヘルス×IT領域の先駆者としてcotreeは切り拓こうとしている。


「文化自体を変えることはそんなに簡単ではないと思っているので、価値を伝えていくことで進化させるといった方がニュアンスとしては近いかもしれません。たとえば、人の話を傾聴することって日常でも当たり前のようにできると思うんですよ。そういったことが日常化、普遍化していくことで、人にやさしくなれたり考え方が変化するきっかけにはなると思うんです」


たとえば、人には話せなかった悩みや体験について勇気を振り絞って誰かに伝えてみる。それにより、同じような境遇に置かれた人が救われることもあるだろう。つながりの存在が、自分自身を肯定する手助けになることもある。


いわゆる「社会では何%の人がこうである」と数字で語られる世界があるが、一人ひとりの悩みや考え、背景は異なる。悩んだ時間もその人の歴史であり、プロセス自体がその人を創っているといえる。人それぞれのかけがえのない人生を、西岡は「物語」にたとえ大切にすべきであるとする。


「自分の物語をありのままにシェアできる環境があることで、多数派がどうとかではなく誰もが認め合ったり、自分らしく生きるとはなんだろうと自ずと考えられるようになる。そういった人生を要約しないこと、誰もが自分らしい物語を生きられる環境をつくることに意義があると思っています」


今こそメンタルヘルスケアを再定義し、広く社会を支えるインフラとして捉え直すべき時代が来ているのかもしれない。


やさしさでつながる社会をつくる。cotreeの挑戦は、自分らしく健やかに生きたいと願う全ての人のためにある。




2章 生き方


2-1. 影響力


初夏の空にあげられる無数の凧や、熱気あふれる夜の御殿屋台。揃いのはっぴに身を包み、毎年その日を心待ちにする市民たち。静岡県浜松市には、日本有数のまつりがある。450年以上受け継がれ、今も変わらず地域で愛されることからも伺えるように、地域の結びつきが強い町で生まれたと西岡は語る。


「浜松まつりというものがちょうどGWにあるんですが、その街に生まれた子どもをみんなでお祝いするんです。全市民が参加するようなおまつりなので、それをきっかけに小さい頃から近くのおじさんおばさんはみんな顔見知りで挨拶しあうような環境でした」


隣人同士で助け合い、支え合う。日頃あたたかい地域のつながりは、裏を返せば知られたくないことも包み隠せない距離感ということになる。


小学校に上がる前に、両親が離婚。西岡は母子家庭で育った。家庭内の事情や感情は、できるなら自分だけの胸に仕舞っておきたいものだった。


「(表立って話すことはなくても)おそらく自分の家庭環境をみんな知っていたんですよ。だからこそ、普通でなければいけないと自分の中で強く思うようになっていって、当時は『普通を装う』ことが何か意思決定するときの判断軸だったんです。普通だと思われるために勉強しなきゃ、普通の家庭だと思われるためにいい学校に行かなきゃ、と」


勉強も運動も平均以上でいられるように、誰にでも人当たりよく「いい子」でいられるように努力する。置かれた環境を跳ね返すかのように、自分と闘っていた。


「いわゆる学級委員長みたいな感じの子だったので、自分がいい悪いじゃなくて先生がどう評価するか、親がどう評価するか、周りのどのコミュニティにも適合できるかとか、そんなことばかり考えていて、自分の意見がなかったに近い。今思うと、小さい頃は正反対の性格だったなと思います(笑)。人間関係もみんなに同じ振舞いをし過ぎて大きな声の人に合わせて強弱がなかったので、少しとっつきにくい存在だったと思いますね」


幼少期


幼少期といえば祖父母の家で過ごした時間も短くない。子どものためにがむしゃらに働く母の代わりに、母方の祖父母がよく面倒を見てくれた。


2人はもともと教師として働いていて、特に祖父は地元で知らない人はいないほど有名な校長先生だった。


「中学に行くと『●●先生の孫だよね』と言われるくらい、いつも自分の名前より祖父の名前で呼ばれていて」


地元でも比較的荒れた学校で校長を務め、祖父自身、素行の悪い少年少女と向き合い多くを更生させてきた。誰もが祖父を信頼し、尊敬している。その孫である自分が悪いことはできないと、自ずと戒められていた部分もある。おかげで努力して、小中ともに学年トップ層の成績を収めることができた。


しかし、どれだけ頑張っても「先生の孫」というラベルは外れない。尊敬と同時に、どこか心にあったのは悔しさだった。祖父の存在があるからではなく、自分として認められる人間になりたいと、より強く駆り立てられた。


「あとになって祖父のお葬式の時に、祖父の教え子だった人の子どもやその孫まで来てくれていて、『私の父がお世話になりました』とか『先生のことは叔父から聞いてます』とか言われて。そこまで1人の人間が影響を与えられるってすごいことだなと思って。教師という選択肢は選ばなかったんですが、生きているからには自分も何かやり遂げたい、影響を与えていきたいと昔から感じていました」


祖父が亡くなってから聞く話には、どれも見せかけじゃなく真に立派な人だったのだろうと思える事実が詰まっている。その後の人生に影響を受けるには十分だった。


自分は世の中に何をしていくか。どんな影響を与えられる人になるべきか。自然とそんな問いについて考えるようになる。そして、いつか祖父を超えるほど、地元のみならず広く社会の人々に良い影響を与えられる存在になりたいと昔から願ってきた。


小学校時代、地元である遠州灘にて



2-2. 理想は世の中ではなく自分で描くもの


あまり自分をさらけ出せなかった子どもの頃、唯一意思をもって選んだと言えるものがある。小学4年生から地域のミュージカル団体に所属して、音楽の世界に没頭していたという。


「浜松が音楽のまちだったので、市が運営しているミュージカルや合唱をやる団体があって、音楽の先生にお薦めしてもらったんです。音楽好きだったので受けたら合格して、高校生まで所属してずっと活動していました。唯一自分で始めて、続いたものかもしれないですね」


夢中になれたのは、音楽が人に与えるパワーを感じていたからだ。聞き手を笑顔にし、励ますことができるうえ、誰もが平等に触れる機会がある。人の心に影響を与えるツールでもある音楽が、昔から好きだった。


所属した団体のメンバーは小学生から高校生まで幅広く、合唱を発表したり演劇の役を演じることもあった。海外のオペラ団体が来日する際には、現地の子役に参加してもらうことがよくあって、わけも分からないままスペイン語の歌を歌ったりしたことも思い出に残っている。


「自分のなかで音楽は得意かもしれないという想いもあったので、それを極めたかったこともありますし、勉強や運動って頑張っても100点以上ってないじゃないですか。もっと極めたいものがほかになくて、そのなかで音楽は唯一やっていて楽しいし可能性が無限大だった。それで自分の可能性を試してみたいと思って」


歌や演技で自分を表現し、観る人の心に訴えかけるにはどうするかを考える。ミュージカルの配役はオーディションがあり、自分なりに練習を重ねて主役に立候補したりもした。抜擢されるかは分からないが、何かしらの役はもらえるだろう。そう思えるくらいには、誰より努力した実感があった。


「初めて自分の意思で頑張りたいと思って、1人で練習したり、主役のオーディションを受けたり。今思うと、自分らしさをどう表に出すかを考えたきっかけになっているかもしれないですね」


好きだからこそ頑張りたくなり、練習したからこそ自信を持てた。それに何より自分が舞台に立つと、家族が喜んでくれる。少しは育ててくれた恩返しができたかもしれない。そう思えることは、テストで100点を取るよりはるかに嬉しいことだった。


初めてのコンサート前、祖母と弟と


高校生になり、地域でトップ層の公立高校に進学した。勉強は言うまでもなく、校則など生活指導も厳しい学校だった。先生たちはスカートの長さや髪の色に目を光らせている。どうやら中学までのゆるやかな雰囲気とはまるで異なる環境だと、入学後に気づくことになる。


「高校生になって化粧とか憧れるじゃないですか。あまりそういう子がいなかったので、それだけで不良扱いされたり。見た目で人間性を否定されたことが初めてだったんですよ、衝撃的で。自分のことを知られていないなかで批判されることがすごく嫌いなんだなと初めて思って」


常に何か制限され、縛られているような感覚。勉強を頑張っても頑張らなくても、どちらにせよ成績とは別のところで問題視される。一人ひとりの努力や真意とは関係なく、画一的に決められた価値観を当てはめることが果たして正しいのか。違和感と窮屈さを感じていた。


友だちと過ごす時間は純粋に楽しい。けれど、早々に学校に対する反発心が芽生え、真面目に勉強する意欲がなくなってしまった。


それでも高校生活はかけがえのない出会いもあった。


のちに結婚することになる同級生で、文字通り半生をともに過ごすことになる。表面的な自分ではなく、深いところにある感情をさらけ出し、それでもあるがままに受け止めてくれる人がいた。


「それまで自分の素を出して話せる人がいなかったんですよ。みんな家庭環境のこととか気づいてはいたと思うんですが、自分から打ち明けたことは1回もなくて。それを初めて話せて、普通に受け入れてくれて。驚くことも、逆にかわいそうということもなくて、あぁそうなんだと。そこに安心があって」


自分をさらけ出すことができ、受け止めてもらえる安心感と普通の幸せをもらえる。ただそれだけのことが、何より強く心の支えになった。


「世の中の偏見ってどうでもよくない?というスタンスの人で。それで自分も、何が大切な基準なんだっけと気づかされた大きなきっかけになりました」


ずっと模範的であろうとしつづけてきた過去がある。信じて必死に追い求めてきた理想があった。しかし、知らず知らず世の中の基準に従ってばかりいたことに気がついた。


自分の理想は、自分自身の基準に従って描けばいいはずだ。そうであるからこそ、一人ひとりの可能性だって広がっていくはずだと思える。


自分の基準に従い生きる。自分らしくあるという発想が、少しずつ芽生えはじめていた。


高校の文化祭にて、弦楽合奏部のメンバーと



2-3. 自分らしさとは


勉強の目的はあいまいなまま、大学受験の季節はやってきた。当時はまだ何がしたいという意思はなく、世の中で認められるほどの大学に行ければいいと考えていた。


こだわりもなかったので国公立大を受けさせる高校の方針通り、有名国立大学を第一志望にする。影響力のある人間として最初に思い浮かんだ政治家という職業のイメージから、学部は法学部を選んだ。


けれど、中途半端な想いでは身が入らず合格は叶わなかった。ひとまず併願していた大学に進学するとともに、立ち止まって考える時間を持った。


「初めて理想の自分になれなかった経験をして、あれ?と気づかされた瞬間でした。そこから振り返って『私って何がしたいのか』とか『これからどうしたいのか』をすごく考えて。大学受験で挫折した体験が、今に1番つながっていると思います」


自分は何者で、何を求めているのか。挫折を経て考えさせられる。漠然とだが、このままではだめだという焦りもあった。


「いわゆる自己分析をすごくしたんです。当時はそつなくいろいろなことができるジェネラリスト的な能力が高いのかなと思ったりして、それよりも自分が秀でているものを活かしたいという気持ちになりました。自分の強みを活かせるようじゃないと何者でもないなと思って」


自分の強みや、自分にしかできないことを探しはじめる。今まではいかに環境に適合するかに重きを置いて、立ち居振る舞いを決めていた。そこから自分はどんな環境なら活きるのか、大学生活は思考や優先順位が明確に変わっていったタイミングでもある。


「音楽系で自分が得意なことで人に影響を与えたり、興味を持ったカフェの経営に携わったり。ほかにも母子家庭を支援する団体でボランティアをして、子どもと出会う機会を設けてみたり。政治学科だったので選挙時に運営を手伝い政治家と対話してみたり。とにかくやってみたいと思えることに飛びついてチャレンジしていました」


これからの人生をどうしていくか、悩みながら模索する。正解を探すというよりは、純粋に興味の対象に少しでも多く触れてみたかった。


大学時代、国際政治や国際安全保障を扱うゼミ活動にて


結果として、自分にしかできないことがすぐに見つかったわけではない。しかし、行動していくなかでは自然な心境の変化もあった。自分の原体験や乗り越えてきた経験は、一種の特徴だと割り切れるようになったのだ。それまでずっと隠したいと感じてきた部分を受け入れることを知りつつあった。


過去があるから今の自分がある。そう思えるようになったのは、周囲にいてくれた人から受けた影響が大きいという。


「大学に帰国子女が多かったり、障がい者の方と関わる機会があり、今までの自分が住んでいた環境にいて関わったことのなかった人と初めて友だちになって。その子たちの生い立ちを聞いた時に、全く違う世界だったんですよ。私の体験を話しても、普通に受け入れてくれ、自分の想像を超える体験を話してくれたり。いわゆる多数派じゃない世界での友人に出会えたことは大きかったかなと思います」


それまで出会わなかったバックグラウンドを持つ人と、お互い生まれ育った環境の話をした。当たり前から外れているような感覚のことや、自分自身をどう捉えてきたか。聞けば、同じように苦悩を抱えてきた人はほかにも大勢いるのだと分かった。


人それぞれの生き様に触れるうち、自分をさらけ出すことへの抵抗も薄らいでいくようだった。


「大学生になってから、すごく自己開示をするようになったんです。それによって、この人と一緒に何かしたいと思える人が増えたり、自分が求められている感覚もいろいろなところで感じられるようになって。自己開示していけると人を巻き込むこともできるんだということも知りました」


大学から1人暮らしを始めたことも良かったのかもしれない。地元を出て、自分のことを何も知らない人たちのなかで、新しく関係性を築いた。だからこそ、少しずつ自分を開示してみることができ良い転機になっていた。


新しいコミュニティに入り、自分らしさを探す日々。進んで自己開示して、多くの人を巻き込みながら何かを成すことの喜びも知った。


将来は影響力のある人間になりたいと漠然と思ってきた。将来は政治家になりたいと思っていた時期もある。しかし、さまざまな経験を積んだり調べていくなかで、下積みが必要な世界よりは、より早く影響を与えられそうなビジネスの方が自分に合っているのではないかと考えはじめていた。


「自分のバックボーンを活かして仕事したいという想いがあったんですが、メンタルヘルスケア領域は自分の経験がダイレクトすぎて、そこまで覚悟が決まっていなかったんですよ。当時自分らしくいられた瞬間、自分が支えられていた瞬間ってなんだっけと思い返してみると、家族で食卓を囲むシーンが安らげる場所だったなと思って。それで食品メーカーに絞って就活をしていました」


食品はシンプルに多くの人に価値を提供できる。かつ、ある程度大きな企業であれば、最初から影響力を持ちながら仕事ができるのではないかと考えた。


面接では自身の原体験を交えながら、思いの丈を伝える。今思えば、業界を絞り込むことは賭けのようでもあったが、なんとか内定をもらい森永製菓へと入社を決めた。


過去は自身の一部であり、自分らしさにもつながっている。それはもはや隠すものではなくなって、社会や人に影響をもたらすための力になりつつあった。


自己を開示しながら多くの人を巻き込んで、ビジネスでより早く影響力を広げていく。自ら描く理想のために、新たな挑戦へと踏み出せる予感があった。


新卒同期と



2-4. 使命


担当する商品が、多くの人の生活のなかに溶け込んでいく。実際に店頭に並んだ光景や、それを手に取る人の姿を目にするたび、食品メーカーを選んで本当に良かったと実感が沸いてくる。


「想いを持って仕事ができていたので日々楽しく成長できていました。自分の身近なお店に自社商品が並んでいると、ビジネスの世界を選び、大企業に入って良かったなと痛感しましたね」


人や環境に恵まれ、若くしてさまざまな役割に就かせてもらった。重要クライアントの営業を担当させてもらうなど、責任が重くやりがいのある仕事にも携わってきた。


しかし、挑戦のフィールドを大きくしていくにつれ、大企業特有の制約を感じることが増えてきた。年功序列や、前例のない手法への壁。特に、食品業界は消費者のために定められているルールも厳格で、それを変えるとなると1人の力では難しそうだった。


「100年以上続いている会社なので、新しいチャレンジをすることが難しかった。自分なりにチャレンジはしてみたものの、もっとやりたいと思ったことがなかなか叶わないなと感じていました。それなら外から変えられないのかなと思うようになって、5年半ほど働いたあと転職しました」


転職先となるサイバーエージェントは、仕事上の取引先の1つだった。やり取りをする同社の担当者は若くして裁量権をもらい、プレゼンや資料も今までの常識を超えていた。何より業界に対する想いを自分の言葉で語るその姿に、影響を受けずにはいられなかった。


「就活のときに全く他業界を見ていなかったので、初めてそういった人たちと話をして。上司の考え方や前例云々ではなく、『一緒にこの業界を盛り上げていきましょう』と、それがすごく自分の中で響いたんです。ただ単に売上を上げるだけじゃなく誰かの心に響くことをやりたいと」


新天地では、食品メーカーに対して広告提案を行うチームに所属した。デジタルを中心とした新しいPR施策を、ブランディング戦略から一緒に構築していく。まさにやりたかったチャレンジを、業界の外側から実践できるようになった。


さらに、組織風土もがらりと変わり、新たな興味の対象も見えてきた。


「プロジェクトを推進したり、ほかのチームとも広く関わっていく中で、事業そのものだけでなく一緒にやっていく仲間であったり、人を育てる方にも目が向くようになったんです」


プレイヤーから組織を動かす立場になると、見える景色も変わってくる。人が自分らしくいられることの価値を身をもって感じてきたからこそ、チームや組織の仲間にはただ成果を追うだけでなく、自分らしく心身ともに健やかに活躍してほしいと思うようになった。


特に、同じ女性の働きやすさに関しては、社会全体としてハードルが存在することを認識しつつあった。


人と向き合う領域で貢献できるようになりたい。その想いは、次なるフィールドへとつながっていく。



「コネヒトは不妊から育児、家族の悩みまで母親を中心とした女性の課題の多い環境の悩みに幅広く寄り添っていく企業なので、そういったビジョンがしっくりきて。さらにその先、育休のハードルだったり女性の働き方にも向き合っていて、まさに自分がやりたいことだと思ったんです。いろいろな巡り合わせがあり、半一目惚れに近い形で転職しました」


原体験やスキルが活きる領域で仕事がしたいという想いは昔からあるものだ。また、人や組織へ向き合うからには、ある程度規模の小さい企業の方が風通しよく自分の想いを届けやすいかもしれないと考えた。


実際に入社してみると、ベンチャー企業ならではの整備されていない環境にとまどいつつも、まずは「できないことを認める」意識を大切に適応していった。


「自分がこの組織でスキルアップしたいといったことではなくて、この事業を通して社会に何ができるか、この領域でどれだけ影響力を持てるかが自分のゴールでした。そのために自分がビジョンの1番の体現者であることを大切にして、組織も理想の状態を考える。常にそこに立ち返る意識はしていて、だからこそ焦りは拭われていったところがあります」


思うようにいかないことがあっても、自分が社会で成し遂げたいゴールに常に立ち返れるようにする。それが結果的に、道を拓いてくれたようだった。


「その頃、信念のもとやっていったら、『何をやるか』はあまり気にならなくなって。最終的なゴールに近づく方法を考えていたので、『何でもやらせてください』というスタンスで入社したんです。実際、ポジションも頻繁に変わって。最初は営業のリーダーで、次に営業チームを取りまとめる部長になって、制作チームまでを統括する部長、最後は事業全体の統括部長と、半期に1回役職が変わっていました(笑)」


過去の経験があるからこそ、子どもや家族の幸せを願う気持ちは本物だった。ときに自分自身の体験も振り返りつつ、想いを乗せながら仕事することの力を実感する日々。


さまざまな業界に属す人とのつながりも増え、次第に名刺に書かれた肩書きというより、「想いを持った西岡さん」として影響力を持ちながら仕事ができるようになった。フリーランスとしても動きながら、新しいステップを意識するようになる。


cotreeの創業者である櫻本真理とは、知人の紹介で出会った。もともと櫻本には経営交代の意思があり、話してみると共感できる部分が多かった。


改めて自身の経験やスキルを積み上げた先、30代の新しいチャレンジに踏み込んだ方が自分にしかできないことができそうだ。2代目経営者のモデルケースとしてもめずらしく、自分のようなバックボーンをもつ人間がバトンを受け継ぐことに社会的意義を感じたことも後押しになった。


2021年、株式会社cotreeへと参画。翌年1月には共同代表として代表取締役に就任し、7月からは完全に経営を引き継ぐことになった。


「原体験からダイレクトにこの領域で働きたいとずっと思ってきたので、ようやく来れたなという想いと、大企業からベンチャーまで事業グロースに携わってきた人間として、本当に良いと思うものを育て、世の中に浸透させるために自分のスキルで貢献できるなと思ったこと。その2つから、使命感を感じられました」


メンタルヘルスケア領域で世の中に新しいインフラをつくる。それにより、やさしさでつながる社会をつくる。


何より共感できるビジョンのもと、自分にしかできない影響力を持ちながら、想いを乗せて働ける。最終的な意思決定は、それが自然だと思えるものだった。




3章 ご縁がある人へ


3-1. 出会いやきっかけを大事にしたい


大企業からベンチャー企業まで、規模やフェーズの異なる組織を複数経験してきた数年。西岡自身が目指してきたゴールは変わらないものの、特に同じ時間を過ごす仲間についての見方には変化があったという。


「努力することが全てだと昔から思っていて、どうやったら理想と現実のギャップを埋められるかとずっと考えてきたんですよ。その努力を怠る人ってなんだろうと思っていた時期もあるんです。でも、それは狭い見方だったと知りました」


同質性の高い組織もあれば、そうではない組織もあった。ある環境における当たり前が、別の環境ではめずらしい価値観となることも身をもって体験してきた。


部下と接するとき、かつては相手がいかに仕事で成長できるかを1番に考えてきた。しかし、仕事だけでなく家庭も大切にしたい人もいる。それなら適切なアドバイスはキャリアアップの視点だけでは足りなくなってくる。仕事という枠を超え、そもそもの人生の話から深く対話するようになったと西岡は振り返る。


「いわゆるベンチャー企業に飛び込んで、いろいろな働き方があることや、いろいろな想いで歩んでいる人がいることを知り、人生それぞれだなと改めて感じるようになったんです。こう生きたいと思う理想の姿は人によって違うので、その人に合ったサポートをいろいろな角度からできればと考えるようになりました」


人生100年時代といわれる昨今、生き方に正解はない。けれど、仕事は多くの人にとって長い時間を占めることになる。


お金やキャリアを得ることを重視する人もいれば、何を成し遂げるかゴールを重視する人もいる。なかでもcotreeで働く人はみな、事業の背景やビジョンに強く共感し、同じ船に乗りたいと思ってくれている。だからこそ、どうしたら同じゴールにたどり着けるかを、仕事という枠組みを超えて話し合い、一人ひとりの人生に向き合いつづける。


「自分が暗いトンネルから出られたのは人に助けられた、支えられた部分が本当に大きいと思っていて。だからこそ、1回の出会いを大事にしているところがあります。それがビジネス的に利益につながるかという思考は置いておいて、せっかく出会ったからにはお互い何か良い形できっかけが生まれたらいいなと思っています」


誰かにもらった何気ない一言が、人生に大きなきっかけをもたらすことがある。本来人は相互に影響を与え合い、前へ進んでいく力を持っているのだ。


事業のつくり手たる人の心が満たされていれば、自ずと事業もあたたかいものになってくる。結果として、世の中に対して良いアウトプットが生まれてくると西岡は信じている。


自分らしく働き、生きる。社会にも組織にもそうであってほしいと願う。




4章 JMDCグループという選択


4-1. ビジョンをともにすることで社会変革の一助に


2021年6月から、JMDCグループの一員として事業を展開しているcotree。背景には、社会情勢の変化などの要因もあったという。


「私自身はグループインしたあとにcotreeに参画しているので意思決定には関わっていないんですが、もともとコロナ禍でサービスが大きくなっていて、ここから伸ばしていこうとするタイミングで、cotreeの未来を信じてくれて、同じビジョンを持つ会社と一緒にやる方がいいだろうということで現在の形に至ったと聞いています」


グループの一員として各所と連携しながら事業を展開していくうえでは、やはり成し遂げたい社会像が同じ方向を向いているからこそ本質的な仕事ができている実感があると西岡は語る。


「グループの収益性ももちろんですが、それだけでなく純粋に解決したい課題や、それが実現する未来が同じなので一緒に取り組めているんですよ。1社のスタートアップ企業としてではなく、グループの一員として私たちに何ができるかを考えながらコミュニケーションを取りながら進めていける。だからこそ、社会変革の一助になれているという実感があります」


データとICTの力で、持続可能なヘルスケアシステムを実現することをミッションとするJMDC。cotreeが目指す、社会に必要とされ信頼されるメンタルヘルスケアのインフラ構築と進むべき方向は同一線上にある。


それにより、互いの事業運営における障壁を補い合い、それぞれの強みを引き出せる。


「役割の果たし方として先に課題ありきなのか、それともグループのやりたいことに集約されてしまうのか、どちらであるかによってアプローチの仕方や求められ方は全く異なってくると思っています」


ビジョンを信じ、互いにフォローアップしながら社会課題解決の本質的な方法を議論する。そこにcotreeにとって理想的な関係性があるようだ。


「まずはメンタルヘルスケアのインフラをつくっていくことを目指しつつ、心も体に影響与えるものなので、JMDCの幅広いデータや関係他社とのシナジーによって新しい解決の糸口をつくっていく。引き続き一緒にチャレンジをしていけたらと思っています」


メンタルヘルスケアという領域で、これからの世の中に対してどんな価値を提供できるのか。新しい社会的意義の創造は、想いやビジョンをともにする人々の化学反応あってこそ生まれるものなのかもしれない。JMDCとcotreeの挑戦は、そう思わせてくれる。



2022.7.4

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


地元で尊敬される校長先生だった祖父の影響で、昔から人の心を動かしたり、影響を与えていくことがしたかったと語る西岡氏。


その背中を追いかけることは、誰より努力することを自分に課すことであり、理想へと近づくための道しるべにもなった。一方で、世の中的に評価される一定の基準や、いわゆる「いい子」だとみなされる自分像を追いかけていくことと表裏一体にもなっていた。


しかし、明確な挫折を機にそれは間違いだと知ることになる。人それぞれ心に抱える悩みや葛藤、弱さは隠さなければならないものではなく、受け入れることで自分らしい力となる。自己開示していくことで人を巻き込み、1人ではできないことを実現できるようになる。


コトリーが描く、メンタルヘルスケアがインフラとして機能する社会。そこでは、より多くの人が自分らしさを自ずと問い、ありのままの自分を認める生き方を見つけられるようになるのだろう。


文・Focus On編集部





株式会社cotree 西岡恵子

代表取締役

1990年生まれ。静岡県浜松市出身。2013年同志社大学法学部卒業後、森永製菓株式会社、株式会社サイバーエージェントを経て、2019年コネヒト株式会社に参画。事業開発・マーケティングを強みとし、ママ向けアプリのママリの事業責任者としてビジネスグロースからサービス戦略設計に従事。大企業からベンチャーまでの経験を軸に、フリーランスとして複数社の事業戦略・マーケティング支援を行いながら、2021年cotreeに参画。現在に至る。

企業公式サイト:https://cotree.co

オンラインカウンセリングのcotree:https://cotree.jp/

  

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