Focus On
大川祐介
ユニオンテック株式会社  
代表取締役社長
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or誰の仕事も、誰かの人生に影響を与えている。だから、責任を持つ。
東京都心の城南エリアを中心に、中古マンション買取再販事業を展開する老舗リフォームメーカーである株式会社パックシステム。創業約45年の歴史のなかで編み出された技術と信頼を基盤に、同社はニューノーマルな都市生活と顧客のライフスタイルを尊重するリノベーションを探究している。2016年からは伊藤忠商事グループの大建工業株式会社子会社として、マンション一戸単位でのリノベーション工事に求められる近隣への配慮、すなわち省スペース、省施工・短工期を実現すべく、リフォーム用の建材製品開発や工法における共同開発を進め、特許申請などを行っている。
代表取締役の龍岡実は、大学卒業後、積水ハウス株式会社にて住宅建築などに従事。トップセールスとして活躍したのち、1976年に株式会社パックシステムを創業した。同氏が語る「人の生き方に寄り添う事業」とは。
もう一度同じものを購入したいと思われるブランドにある共通項はなんだろうか?たとえば、メルセデス・ベンツの車を購入した人の多くが、次もまたベンツ車を買うように、リノベーションメーカーであるパックシステムも、顧客にリピートしたいと思われるブランドであることを大切にしていると龍岡は語る。
「やっぱりベンツなんか高いじゃないですか。(それでもリピートされるのは、)安全だとか性能がいいとか一定の価値だけじゃない、サポートシステムなどトータルでプラスαであることなんでしょうね。1回ご縁のあった人はリピートしつづけてもらう、そういうブランドでありたいと思っています」
中古マンションの買取から、リノベーションによる物件価値の向上、再販までを手掛ける同社では、現在広告はほとんど打っていない。手掛ける案件のほとんどが紹介やリピートなど反響によるものであるという。
評価を裏打ちする要因の一つは、提供する住環境の質はもちろんのこと、入居後のライフステージの変化に合わせたカスタマイズなどを可能とするアフター保証サービス「リノベコンシェルジュ」だろう。形ばかりではない手厚いアフターサービスで、顧客との長期にわたる信頼関係が築かれている。
「売りっぱなしにしないこと。そうしてうちもブランド力を上げてきて、ベンツかソニーのようになるんだと社員には言っています。『そう思わないと、そこには行かないよ』と。今後は思いを僕以降のメンバーにどんどん託して行きますけどね」
創業から約45年。龍岡がこの事業を始めた当初に比べると、家をリフォームすることの認知は各段に広まってきた。そこではただ家を増改築するだけではない、循環していくものとしての住宅づくりを実現するブランドであることがより強く求められるようになってきたという。
「最近はSDGsなんて言われはじめたでしょう。うちはとっくにやっているんですよね。捨てればごみになるものを活かして価値を高めたり、解体した廃材をどう再利用するかを考えたり。間仕切りなんかも簡単に外れる仕組みを考えて、うちのブランドでは『ごみを出さないリノベーション』を前提でつくるから、下取り価格も高くなるんです」
捨てればごみ、活かせば資源。解体の際に発生するごみも、現場で粉々にして床下の防音消臭剤として再利用できたりと、方法は工夫次第でいくらでもある。
そもそも古くから日本では、環境に負荷をかけない形で「住みやすさ」を実現する発想が取り入れられてきた。夏には簾をかけ日差しを防いだり、道には打ち水をする。木造建築の移築がなされてきたりと、日本の家は元来素朴につくられていて自然な循環の視点がそこにはあったと龍岡は考える。
「僕としては日本の住宅文化は本来SDGsにできているから、そこに戻らなきゃいけないと思っています。ただ住宅を和風にするという意味ではなくて、日本の良い文化をリノベーションに活かしていくということですね」
古くからある価値と、時代に合わせた視点を融合するパックシステムは、住む人の生き方に寄り添う暮らしを提供しつづけていく。
現在、東京品川区は戸越銀座にオフィスを構えるパックシステム。龍岡はすぐ隣の五反田の地で生まれ育ったと振り返る。
戦後間もない東京・五反田は、さまざまな表情を持った街だった。近隣には町工場が立ち並び、駅前には遊楽街があった。地名に山のつく高台エリアはかつての武家屋敷跡で、今も高級住宅地として面影を残している。
近年はITベンチャー企業が集積することでも知られるが、創業の息吹は当時から続くものがある。まだ東京通信工業を社名としていたソニーの旧本社工場が五反田の地につくられたのが1946年。ちょうど龍岡が生まれた頃だという。
「当時は有名な工場がいっぱいあって、今のタワーマンションがあるところも昔は工場ですよ。この辺は山の上はお屋敷で、下は庶民が暮らす工場地帯。戦後だから金持ちも貧乏もいろいろな人がいて、それが雑多に遊ぶ。面白かったですね」
当時のテレビは高級品で、代わりに人気を博したのは駅前に設置された街頭テレビだった。プロレスや野球の中継を観るために、何十人もの人だかりができる。大人も子どもも、小さな画面を遠くから夢中で眺めていたと龍岡は振り返る。
「子どもの頃は普通にのびのびしていました。親にも何も言われなくて、勉強は全然しなかったですね。中学に上がっても遊んでばっかりいて。周りは進学に一生懸命だったけど僕的にはあまり関係なくて、受験勉強もしなかった。将来の夢とかもなかったんです」
放課後は校庭で遊んだり、お寺の境内でセミやトンボを取ったり。まだ娯楽は少ない時代だったが、昔から思うがまま自然体に過ごして楽しんでいた。
「人生で1番楽しかった時は高校生ですね。写真部をつくって、ずっとやっていました。入学してすぐに先輩に頼まれて、一定の人数がいないと部として承認されないのでなんとかしてほしいと。僕が勧誘しまくって2年間部長をやったけど、僕自身はカメラも何も持っていなかった」
カメラや写真に興味があったわけではない。しかし、人集めならできそうだと一肌脱いでみることにした。
部としての承認を得るためには20人ほど集める必要があるところ、一時部員数は最大50人ほどにもなった。まさか将来そこからプロカメラマンを3人も輩出することになるとは夢にも思わない。ただ、楽しく流れに逆らわずに活動を盛り上げていただけだったが、いつしか部長になっていた。
「友だちも多かったしね。いろいろなことをやりましたよ。みんなで銀座まで行ってぶらぶらしてね。当時『VAN JACKET』なんてブランドが出て、アイビー族、アイビールックが流行っていて。もうやりたい放題でしたね」
流行を追いかけ、みんなで街に繰り出したり。勉強はほどほどに、好きな映画を観たり。今ほど偏差値教育もない時代。学校の先生は個性的で、受験一辺倒を押し付けるでもなかったことも幸いしたのかもしれない。
自然の流れに身を任せ、やりたいことをやる。そうしているうちに、青春の時代は過ぎていった。
楽しかった毎日のなか、偶然始めたアルバイトから新しい世界にも触れることになる。
「高校時代は龍岡製作所みたいなものをつくって、お金を稼いでいましたね。大袈裟なものじゃないんですが、プラスチック成型機を動かす配電盤製作のアルバイトをしていたんです。要するに品川区って町工場群だったから、知り合いのお父さんがやっていた仕事を手伝いはじめて。ハンダごてで配線する作業をアルバイトしながら覚えて。そこの社長が『龍岡製作所の印鑑を作れ!』『請求書を出せ!』とか言ってね、下請会社ができちゃった。高度経済成長期に乗っかって、大学3年くらいまでやってましたかね」
深く考えずつてで始めた仕事だったが、時代の流れから需要が急増。大学生になる頃には、すさまじい勢いで発注が来るようになった。大学には入ったものの引き続き勉強は全くせずに、ときには弟の手も借りながらかなりの金額を稼いでいた。
「当時大卒の初任給が2万円くらいの時代に10万円くらい稼いでいました。今で言う20万円くらいのときに5倍くらい稼いでたから、100万円くらいじゃないですか。でも、やっていることは何にも変わらなかったですね。蓄財するという気持ちはなかった。使い方を覚えた感じだね。どういう風に使えば楽しいかとか、友達と楽しくやるってことに使いましたね」
友だちとスキーに行ったり、麻雀をしたり、車を買ったりもした。みんなで楽しむために稼いでいるようなものだったから、これといって誇れることをしていたわけではないが、それまで知らなかった人や機会との出会いがあり社会勉強になったという。
「交友関係は広かったですね。男女問わず、年齢も問わず。特に努力しているわけではなくて、自然の流れに身を任せて、どういう環境でも大丈夫でした。大騒ぎするわけでもないんですが、自然でいるだけで楽しくて。当時将来こうありたいとか、こう生きなきゃいけないとか熱いものは全くなかったですね」
お金を稼ぐことだけでなく、「龍岡製作所」ではいろいろな意味で貴重な経験を積ませてもらうことができたと龍岡は振り返る。
当時プラスチック成形機は機械に人の手で材料を流し込まなければならず、謝って手や指を挟んで失ってしまう事故があとを絶たなかった。下請け先の町工場では、その改良型を考案。機械が自動で取り出す機能を搭載し、手作業よりも格段に安全になる、画期的な発明と呼べるものだった。
「それがバカ売れして儲かったんだけど、しばらく経つと当時のメーカーもそれを標準装備にしたんですよ。で、社長さんの町工場はつぶれてしまって、仕事もなくなって。それは特許を取っていなかったから。そういった商売の面白さは垣間見ましたよね」
飛ぶ鳥も落とす勢いだった売上も、あっけなく無になってしまうことがある。1つの町工場が、時代の流れの中に消えていく。商売というものは奥が深く、面白い。気ままな日々を過ごしていたが、そのとき目の当たりにした光景はひときわ心に残るものだった。
大学生として過ごした1960年代後半から70年代にかけ、世の中は安保闘争や学生運動に揺れていた。混沌とした時代が落ち着いていき、残ったのは高揚が冷めたあとの何とも言えない不安な空気である。卒業と就職が近づいて将来を考える時期になってもなお、何一つ見通しは立っていなかったと龍岡は語る。
「日本は当時いろいろなことがあって、みんな挫折感があった。将来はねずみ色みたいな感じだったんですよね。内定は1社もらったんですけど向いてないように感じて辞退してしまって。就職したくなかったのでカナダ移民団に入ったりもしたけど、結局行かなくて。ぶらぶらしていてもしょうがないなと思っていた時に、不動産鑑定士資格の第1期のテストがあって、なかなかこれが面白いしお金になるかもと思って勉強しはじめたんです」
不動産鑑定士は、いわゆる「宅建」をより難しくしたような資格だと聞いていた。宅建自体は既に持っていたので、頑張れば手が届くだろうと考え、友だちと一緒に勉強することにした。
「当時は一緒にぶらぶらしていた友だちがいて、そいつのアパートに入り浸っていたんですよ。一緒に勉強していたんだけど、結局友だちだけ受かって僕は落ちてしまって。友だちが新宿に積水ハウスの採用試験を受けに行って、終わったら一緒に映画を観に行こうと近所の喫茶店で待っていたんです。そしたら当時の積水ハウスは関西から東京に進出したばかりで営業マンが足りなくて、宅建の免許を持っている友だちがいるなら連れてこいという話になったようで。友だちに引っ張られて行って、そのまま積水ハウスに入ったんですよ。いい時代でしたよね(笑)」
入社してすぐ、まず先輩から教えられたのは定番のファッションスタイルだった。紺色のスーツに黒くて硬い革靴、手にはハードアタッシュケースで住宅を訪問してまわる。もちろん靴は、ピンポンを鳴らして少しでもドアが開いたら挟むためにある。先輩のうしろで営業の様子を見ていると、セールスマンになってしまったのだなと実感が湧いてくるものだった。
「まだ覚えているけれど、この会社は社員みんな経営者だと、『龍岡商店』ですとはっきり言われて、組織に頼らず生きろということですね。今はネームバリューがあるから違いますけど、当時はマンパワーの世界だったから」
住宅建築の契約がメインで分譲住宅も売ったりする。営業は給料も良く、いろいろな人に出会うことができる。それまでと同様に自然体で接する日々。通常、営業マンは資料請求のはがきの送り主にノーアポイントで会いに行ったり、展示場で来客を待ったりする。しかし、これでは効率が悪いと感じたのでやり方を工夫したいと考えるようになる。
浜松町にある世界貿易センタービルでカウンターセールスをやらせてもらったり、福利厚生として社内融資*の制度がある企業を狙って開拓したり。自分なりに考え行動していくうちに、ますます成果はついてくるようになった(*企業が従業員の住宅取得にかかる資産形成を支援するために設ける福利厚生制度の一種)。
「当時新橋はNHKもあれば三井物産もみんなあったんですよね。普通住宅だったら個々の家に行って商売するんだけど、僕の場合はそういう人にカウンターに来てもらう。来るのはみんな家を建てる人で部課長以上だったから、いい勉強になりました」
なかでも当時、忘れられない出会いがあった。お客さんとして出会ったその人は、味噌蔵*の会社で働いていて味噌の研究を仕事としている人だった(*味噌を貯蔵しておくための蔵)。
「その人は家がほしいと思ったんだよね、だけど所得があまりないわけですよ。でも、真面目でいい人でね。まだ僕も入ったばっかりでしょ、結果的にローンを組んで売りつけるような形になって。結局その人は給料を上げるために味噌の研究を辞めて、なんと積水ハウスが入ってるビルの警備員になっていて、偶然会ったんですよ。その時、この人の人生を変えてしまったなと、なんとも言えない重いものを感じましたね」
警備員の方が給料がいいし、どうしても家が欲しいからとその人は言う。味噌の研究から離れてしまったことをうしろめたく思うわけでもなく、真っ直ぐに夢に向かって進んでいるのだと分かった。
しかし、20代の若者1人が、とある一家の生き方をすっかり変えてしまったのだ。そう思うと、そこに非常に重大な責任が伴うのだと痛感せずにはいられなかった。
「結局その人は家を建てることができて、奥さんもものすごく喜んでね。そのあと土地の値段もものすごく上がって、『龍岡さんに本当に感謝してる』と言われたんです。だけど、こっちは転職させてしまったから、すごく責任がある仕事だなと思いましたよね。今の人生にもそれは影響していて、人の生き方に寄り添うという、そこに使命感を感じました」
ただ自然の流れに身を任せながら、自分が楽しく周囲も楽しく生きていた頃とは違う。ときに人の人生をまるっきり変えてしまう影響力を持つ仕事だからこそ、責任感をもって相手の生き方に寄り添わなければならない。
本当は誰の仕事も、誰かの人生に影響を与えているのかもしれない。身が引き締まるような思いとともに、改めて真剣に仕事と向き合うようになっていった。
会社では若くしてトップセールスになり、銀座で店長になった。時代は高度経済成長の好景気に沸いていて、月に5件くらいの契約が取れる。多くの人との出会いがあり、家を作る商売について多くのことを勉強させてもらった。
しかし、人生は思いもよらない方向へと進む。仕事は面白かったが、ひょんなきっかけから上司と衝突。若さゆえの勢いで辞表を出してしまい、4年半の会社員生活は終わりを迎えた。
「しばらくアルバイトをしていたんですが、そのうち総合商社にいた先輩から連絡が来て」
とあるサンドイッチメーカーの原材料を扱っていた先輩は、新しいビジネスの話をもちかけてきた。当時日本では米の生産量が需要を上回り、なんとか米需要を増やす方法はないかと模索されていた時代である。その追い風をうまく利用して、おむすびを路上販売してみてはどうかというアイデアだった。
「どうやって売るかというと、ロードサイドにミニショップを置いて、車で来た人に売ったらどうかという話で。テイクアウトの走りですよね。『おむすびハウス』と名付けたものを、『お前、積水ハウスにいたんだから作れるだろ』と言われて(笑)。暇だし面白いビジネスだと思って、作りはじめたんですよ」
「おむすびハウス」は、その名の通りどこかおむすびを連想させる白黒のお蔵づくりのミニショップだ。広さは一坪ほどのプレハブで、底部には車輪がついている。今でいうトレーラーハウスのようなもので、建築許可が不要となるため全国どこでも出店しやすい設計とした。
「マーケティングが成功して、これが当たっちゃって。地方のロードサイトにも出店したり、フランチャイズ経営のようにしていって、NHKで『ニュービジネス』としてニュースにもなったんです。その会社ではもともと製造していたサンドイッチよりも売れるようになって、今ではセブンイレブンに行っておむすびの裏を見ると『わらべや』という社名があるんですが、その始まりになったビジネスだったんです」
どこでも買えて、手軽に食べられる。今でこそ当たり前だが、当時はまだおむすびと言えば「家で握ってくるもの」というイメージが世間の常識だった。水ですら売り物ではなかった時代、道端で買ってテイクアウトできる商品としておむすびを売り出すというビジネスアイデアはかなり斬新だったと言える。
ただの「おにぎり」ではなく、心を結ぶ「おむすび」というコンセプトの商品は、ユニークな販売方法と相まって瞬く間に人々の話題となっていった。
「そのうちこれを月に10台作れというような話が始まって、また納品書を出したりするから会社になっていないとまずいと。登記して、社員もいないからまだ学生だった弟2人を引き込んで手伝わせて。そこがパックシステムの始まりなんですよ」
まさか自分が経営者になるとは想像もしていなかったが、面白そうなビジネスを手伝ったことからうまく時流に乗らせてもらってきた。
現在まで続くリフォーム事業への参入も、偶然とあるディベロッパーの社長から手伝ってほしいと言われたことがきっかけだったという。
「始めた当時、1970年代はリフォームという言葉はなくて『増改築』でしたよね。大事な分野だとは思ったんですが、大工さんも『暇になったらやるよ』という世界でしたから、全然認知されてなくて。日本住宅リフォーム産業協会(JERCO)というリフォームの団体設立なんかも手伝って。そこから面白みを感じて、事業もシフトしていって。社員もいるから食ってかなきゃいけないでしょ、責任を感じましたよね」
リフォームは限られた条件の中で最大の成果を出すことが求められる。一つひとつ異なるパズルを解いていくかのように、さまざまな制約下で人の生活に寄り添う価値を生み出していくことが面白かった。
「中古の不動産をリフォームして価値を高める。売りっぱなしではなくて、メーカーとしてお客さんと繰り返しお付き合いしていく。その思いとしては、お味噌の研究者の方に分譲地を買わせて人生を変えてしまった時のまま、当時の気持ちを今も大事にしています」
売って終わりではなく、顧客の人生に寄り沿う。創業から約45年、事業内容は変遷を遂げてきたが、商売の根底にある思いは変わらない。人の生き方に寄り添い、責任を持つ。パックシステムは変わらぬ使命とともに、常に新たな道を切り拓いていく。
パックシステムの社員と
古くから紡がれる伝統を大切にしながらも、既存の施工概念にとらわれない新しいリノベーションを構築すべく、パックシステムでは挑戦を続けていると龍岡は語る。
「今、『プロジェクト10』という集大成にチャレンジしています。60平米くらいの古いマンションをフルリフォームして、実働10日間で完成させようというプロジェクトなんですが、普通は40日くらいかかるんです。10年前に言い出して、そんなことできるわけないと言われつづけながら今18日まで短縮できていて、実際のビジネスに落とし込んでいるところです」
プロジェクトの最終的な狙いは、ただ短工期でフルリフォームを完成させるだけではない。たとえば旅行会社と提携し、マンションをフルリフォームするあいだにお客様には家族でハワイ旅行に行ってもらう。10日間の旅行から帰ってくる頃には、工事が完成しているなど、顧客の人生により良い時間を創出する仕組みだ。
ヒントを得たのは、かつて豊臣秀吉が築いたといわれる墨俣一夜城の逸話だという。各地で武将たちがせめぎ合いを行っていた戦国時代、戦局を有利に進めるため敵陣近くに一夜で城を築き上げ戦意を喪失させた秀吉。それを可能にしたのは、あらかじめ切り出しておいた資材を川上から流し、現地で一気に組み立てる現代のプレカット工法にも通じるものだった。
パックシステムでは、現場での作業時間や作業音、梱包材等の発生材を減らすべく、独自の部材・商品・工法を開発しつづけている。
「みんな考えはじめるけど、経済的理由であきらめるんです。でも、龍岡実の大ぼらを吹いちゃったから(笑)。言ったらやりきることは大事です。米国でもケネディさんが『月に行く』と言ったから行けたように、先人がなんとかチャレンジしているんです。社員にも目線を上げろと言っています」
顧客のための理想を描く。けれど、さまざまな要因から道半ばであきらめざるを得なくなってしまうことは往々にしてある。
それでもなんとか形にするため工夫を重ね、方法を編み出し現実にしてきた先人たちがいる。だからこそ、今を生きる私たちも挑戦しつづけるべきなのだろう。
2023.1.6
文・引田有佳/Focus On編集部
「やりたい放題だった」と龍岡氏は昔を振り返る。気の向くままに面白そうなことに身を投じ、仲間と笑いながら過ごしたり、交友関係を広げて知らない世界を覗いたり。日々を自然体でのびのびと過ごすことも人生だ。
そんな龍岡氏に仕事が教えてくれたものは、自分の仕事が誰かの人生や価値観を変えうる力を持つということだった。味噌の研究者だったその人も、きっと何かしらの思いを持って働いていたに違いない。けれど味噌蔵を辞め、警備員として働き家を買うことがその人の人生になった。
人生に正解はない。しかし、少なからず人の人生を変えてしまったという事実は、何とも重みのある思い出として刻まれた。そもそも仕事というものは、誰かの人生に影響を与え得る。だから、人の生き方に寄り添う責任や使命感を持つこともまた、龍岡氏にとっては自然なことだった。
今日も明日もその先もずっと顧客の人生に寄り添いつづける。だからこそ、選ばれつづけるブランドとしてのパックシステムの今があるのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社パックシステム 龍岡実
代表取締役
1947年生まれ。東京都出身。大学卒業後、積水ハウス株式会社にて住宅建築・分譲住宅販売などに従事し、トップセールスとして活躍。1976年、株式会社パックシステムを創業。2016年、東証プライム上場の住宅用建材大手メーカーである大建工業株式会社の子会社化。
https://www.pac-system.com/